第七話
「お母さん、勇人さんのか」
言葉少なにではあるが、母親の話は何度か出た。豆腐屋も母親がいると言っていた筈だ。
「もういないがな。全部始末したんだ。これだけでも残しておけば良かった」
ふっと勇人の目が伏せられる。悲しみを堪えるというより、何か罪を償うかのようなそんな顔に腕を伸ばしたのは何故だったのか、美巳自身にもよく判らない。ただ、見ていたくないと思っただけだ。
「紅林?」
いきなり抱き寄せられて、勇人は目を見開く。だが、抵抗はしなかった。勤めはじめてから、学生時代の友人とは疎遠になるばかりで、人付き合いの苦手な自分に近寄ってくる者は誰も無かった。こんな風に人の体温を近くに感じたのも忘れる程昔だ。
何を思って美巳が勇人を抱きしめているのかは判らないが、ひと時だけ暖かさに酔うのも悪くない。
「すまない」
唐突な謝罪と共に、美巳が勇人を解放する。
「いや」
単に人恋しさが優っただけだろうと勇人は勝手に解釈した。
「その本も俺の。別名義で書いた。本当に好きなんだなって思ったら嬉しくなって」
抱きついた理由を自らも嘘と解っている理由で言葉にした美巳は、照れを誤魔化すかのように頭を掻く。それは髪で表情を隠す為だ。
「え? これは俺の親が持ってた本だぞ」
勇人は覗き込むように美巳をじっと見た。
「紅林って一体幾つなんだ? 俺よりもずっと若いのかと思っていたんだが」
勇人の見た所、美巳は精々三十路になるかどうかという年齢だ。まぁ、人は見た目では測れないし、勇人は自分の目に自信がある訳でもない。もしかして、思ったよりも年齢が近いのかもと思う。
だが、首を捻る勇人に美巳は怪しげな笑みを見せるだけで、決定的な答えはくれぬままだった。
「参った」
勇人が立ち去っていく姿を、仕事部屋の出窓越しに眺めながら、美巳はばったりと机に突っ伏した。
気になっていたことは認める。あの子と重なるその言葉や行動に、惹かれていたのは事実だ。だが、まさか。
「相手は五十路のおっさんだぞ。まぁ、俺も人のことは言えないけれど」
あの子のことを思い出したことなど、今まで無かった。もちろん、あの子のことをそういった目で見た事は無いし、単に人恋しい気分のときに傍にいてくれただけだと思っている。
「母、か」
おそらくはもう亡くなっているのだろう母親。何か追い詰められたような勇人の様子。気になって仕方が無い。
本当ならば、今日は定期報告を入れなければならないが、こんな気持ちを曝け出す気には到底なれそうも無かった。日暮れて暗くなる室内で、美巳はじっと机に伏したまま動くことは無い。その瞳はいつしか伏せられ、軽い寝息だけが室内にある物音だった。
辺りに立ち並ぶのは、昔ながらの平均的な建売住宅だ。今どきの家よりは少しだけ広いが余裕がある訳ではない。猫の額ほどの庭のある平屋。
卵をかけた飯とインスタントの味噌汁を面白くも無さそうにすすっていた勇人が顔を上げた。来客などほぼ無いに等しい家だ。もし、来るとしたら既に亡い両親の知り合いだろうと、勇人は渋々重い腰を上げる。
面倒な親戚でなければいいがと、のろのろと玄関に向った勇人は、不機嫌丸出しの声で応対をした。
「はい」
だが、がらりと開いた扉の向こうにいたのは、金に近い茶色に染めた髪を無造作に括っただけの背の高い男だった。
「紅林?」
「すまない、朝早くに。迷惑だったか」
軽く頭を下げられて、勇人は首を振る。
「いや。勘違いだ。上がってくれ」
勇人の言葉に美巳は遠慮なく古い家に上がりこんだ。あまり細かに掃除や風通しはしていないのだろう。少しかび臭い。
「誰が来たと思ったんだ?」
「親戚だよ。今更、嫁を貰えとか身を固めろとか。一度、本気で無視したら、警察を呼ばれた」
「は?」
相変わらず、勇人の話は前後が繋がらない。
「勇人さん。親戚に玄関開けなかっただけだろう。何故、警察?」
「自殺してると思われたらしい」
食事中だったらしい部屋へと入ると、雨戸が締め切ってあった。美巳は何となくではあるが、警察を呼んだという親戚の心情が理解できる気がする。
「勇人さん。雨戸は開ける気無いか」
「毎日、開け閉めするのが面倒臭い」
「多分、このままだと余計に親戚が五月蝿くなるぞ。それでもか」
美巳の家に来るときには小ざっぱりした服装でやってくることを考えても、きちんと家のことはしている筈なのだが、かび臭い部屋とそこいらに干しっぱなしの洗濯物とかが、だらしなさを増している気がする。
「とりあえず、雨戸を開いて風と日の光を入れないか。それだけでも違うと思うが」
「そんなことで五月蝿くなくなるならやるが」
勇人は自分の何が悪いのかさっぱり解らないと言いたげだが、それでも美巳の言うことに逆らうことはしなかった。
長く開けていなかったらしい雨戸は、中々動かない。見かねて美巳がちょっと戸に手を添えて上に上げるとするりと戸が動いた。
「すごいな。魔法みたいだ」
「あのな。長く開けてないから、外からの風を受けて桟に乗ってないだけだ。持ち上げて、きちんと合わせればすぐに動く」
感心したように呟く勇人に、美巳は呆れた声を上げる。暗い部屋に光が差し込み、灯りの点っていたテーブルの周囲以外が見渡せるようになった。
部屋の片隅に小さな仏壇があり、そこには二人分の位牌が並んでいるのを美巳は目敏く見つけたが、表面上は何も言わなかった。
「まぁ、嫁がいなくてもきちんと生活してると思えば、そのうち諦めるだろう」
「そうか?」
疑わしげな眼差しに、美巳はこれは何かあるなと踏んだ。
「拘る理由があるのか」
「そんなことなら、母親が入院しているときに言ってきそうなものじゃないか。だが、実際は俺が一人になってからだぞ」
何処か捻ねたような勇人の言い草に、美巳は成程と合点がいく。勇人にとっては一番きつかったのは、母親の入院中だったのだろう。母親が亡くなり、会社も辞めた今では、面倒をみるのは自分自身だけだ。張っていた気が抜け、勇人にとっては楽な生活だ。
だが、それは親戚から見れば単なる引きこもりのおっさんにしか見えない。楽になった途端に世話を焼く親戚に、勇人は鬱陶しさしか感じていないのだ。
明るくなった室内に、美巳が窓を開き風を入れる。
澱んでいた空気が動きだし、風が美巳の後ろ髪を撫でていった。