第五話
「おはよう。勇人さん」
美巳は珍しく勇人を出迎えた。正面からきちんと勇人の顔を見たのは、もしかすると初めてかもしれない。
「紅林」
出迎えられた勇人も訝しげな表情をしている。
「仕事の前に、お茶でもどうかと思って」
「何だ、珍しいな」
首を捻りながらも、勇人は勧められるままにテーブルへと座った。こういう時に勇人は遠慮はしない。言葉を額面どおりに受け取る。
生き辛かっただろうなと思いはするが、それでもここまでそのままの状況だったのならば、多少は受け入れてくれた相手がいた筈だ。
「勇人さんは、ずっとこの辺りに住んでいるの?」
ラズベリーを煮出したお茶を入れながら、美巳が聞く。勇人が以前にここへ入り込んだということは幼い頃にはここへ住んでいた筈だ。
「ああ。ずっと。この先にある中学校の裏だ」
「その割りには顔合わせてないから」
「時間が合わなかったんだろう。俺はずっと明け方出て、深夜に帰る生活だったし、こっちに来ると駅が遠いから」
美巳の家は、二つの私鉄の駅のちょうど真ん中にある。駅ひとつ違えば、生活圏が違うのだ。同じ町に住んでいても、道向こうなだけで顔を合わせない住人がいる。
「俺がこっちの道を使っていたのは学生時代だけだ。その頃には紅林はここにいないだろう」
「まぁね。でも、親戚は住んでいたから遊びには来ていたかも」
「そうか」
話題を振っても、勇人はそれを膨らまそうとはしない。無常に折られた話を、美巳は何とか繋ぎ合わせた。一口、ラズベリーティーを隼人が口に含む。
「美味しい?」
「まぁな。懐かしい味だ。ジャム入れてもいいか」
隼人の感想に、美巳は話の切っ掛けを見つけて勢いこんだ。
「ラズベリージャム? あるよ。何か思い出でもあるのか」
美巳が聞くと、また勇人の顔から表情が消える。
「懐かしい気がするだけだ。何もない」
何か突っ込んだことを聞けば、必ずはぐらかされる。勇人は何かを隠しているのだ。それは何か。美巳は聞けば聞くほど、勇人から遠ざかっているような気がした。
勇人が仕事を終え帰宅すると、美巳は走らせていた万年筆を置いた。相変わらずの表情の動かない鉄面皮と物語に没頭しているときのくるくると変わる表情の変化。そして、美巳の書いたものを寸分たがわず表す打ち込み。
少なくとも美巳の書いたものを好んでくれているのは間違いない。だが、好む反面そこにまつわる思い出には蓋をしているような気がした。
「ラズベリーとこの家」
美巳は声に出して呟いてみる。
「そして、魔法使い」
キーワードはいつもその三つだ。勇人がいつもとは違う行動を見せ、そして一切を拒否するワード。
夕闇が部屋の中に忍び込む時刻。美巳は腰を上げ、上を目指す。寝室を通り抜け、突き当りのドアを開いた。あまり使用しないそこは、重くきしんだ音を立てる。
だが、階段は薄っすらと光を帯びていた。
長い階段を昇り、ドアを開くとそこにあるのは、小さなテーブルとテレビのような画面である。
その前に美巳は座ると、前に置かれたヘッドフォンのようなものを着けた。画面が起動を始める。
『やぁ。忘れているんじゃないかと思っていたよ』
懐かしい言語が、直接美巳の頭に流れ込んでくる。
『いや。面白い症例が無かっただけだ』
相手の姿は見えない。美巳は時折、自分は誰を相手にしているのか判らなくなるときがある。
『相変わらずの研究馬鹿だな』
揶揄を含んだ言葉も、単なる機械的は反応を返しているのではないかとさえ思えてくる。この町に住んで、豊かな言語と表情とに魅せられた。それは故郷ではほとんど無くなったものだ。
『何とでも。分析を頼む』
『もうやっているよ』
座った瞬間から、美巳の思考と記憶は読み取られている。美巳は正確に勇人のことを思い浮かべようと務めた。
『データが不足しすぎている。もっと欲しい。だが、君の考えで十中八九当たりだ』
相手が続ける言葉に、美巳は眉を潜める。
『十中八九などという曖昧さはいらない。俺は百パーセントが欲しいんだ』
『そういう曖昧な「言葉」は好きだと思ったんだが』
そんなものばかり覚えている相手に、美巳は不快感しか感じず、言葉も返さずに、一方的に会話を切り上げた。
ヘッドフォン状のものを外し、階段を下りる。途中、ふと閉じられた窓が目に付いた。洋館によくある外開きの木の窓。格子状のそこから星明りが差し込んでくる。
大きく窓を開いた。
「魔法使い」
夜も遅かったし、篭っていることにも限界が来ていた。人目を避ける為にフードを身に着けていた安心感もあったのだろう。
大きく窓を開いた美巳に、声を上げた子供がいた。庭に入り込んできていたらしい。あまりに驚いたのか、他の子供が逃げ散ったというのに、その子だけはじっとこちらを見上げていた。
「遅いから、もうお帰り」
声を掛けると、素直にうなずいて走っていく姿が笑いを誘う。壁に開いた穴を潜っていく子供に、あそこを閉じるべきかと考えて、放置することにした。
どうせ、好奇心を満たした子供が何度も来ることは無いだろうと考えた所為もある。
だが、その子供は翌日もやってきて、庭からじっと窓を見上げていた。一時間ほどで帰っていくのだが、何度も来るその子に美巳は興味を惹かれた。
「何がそんなに気になるんだ」
興味を惹かれたものをそのまま放置しておける性分ではない。我慢できず、美巳が子供に声を掛けたのは一週間後のことだ。
「魔法使い」
玄関から表れた美巳を、子供は驚いた顔で見上げている。
「何で魔法使いなんだ?」
「お母さんが持ってた本と同じだから」
とりあえず、庭では話し声が他へ漏れると、美巳は子供を中へと招いた。
「あ、ロウソクだ」
テーブルへと灯されたキャンドルを見て、子供が声を上げる。単に近所に住んでいることを悟られないために、最小限の灯りを灯しているだけなのだが、子供には珍しかったらしく、走りよって見上げている。
美巳はその姿を苦笑交じりで眺めていた。