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第三話

「どうだ?」

背後から掛かった声に我に返る。いつの間にか近くに勇人が来ていた事に気づかないくらいに没頭していた。

「とてもいいよ。俺が書いたそのままだ」

動揺を押し隠し、美巳は微笑む。すると、いままでむっすりとしていた勇人の顔が嬉しそうに綻んだ。

「そうか、良かった」

いかにも、ほっとしたことが表情に現れていて、こんな年の行った男なのに不意に可愛いと美巳は思わず思ってしまう。だが、それはさすがにプライド的にどうだろうかと、美巳は反射的に頭を撫でそうになる手を引っ込めた。

「本当に愛読してくれてるんだな」

「ああ。あんたの文章はすごく優しくて、でも現実的だ。読んでいて、共感できる」

庭を見つめている勇人に、何があったかと目を移す。庭の片隅にはラズベリーが実っていた。

「何か?」

「いや、ここ。ずっと昔からあるだろう。俺が子供の頃にはもうあったし」

「ああ。ずっと親戚が住んでいたんだ」

本当は親戚などではないが、説明しても理解出来ないだろうし、本当のことを言うつもりもない。

「あそこのラズベリーのところ、壁にちょっと穴が開いているんだ」

知ってるか、と訪ねられて美巳はうなずいた。

「昔はよく、子供たちが入り込んできたからね。今は茂っちゃって、子供でも無理だけど」

「俺も子供の頃に入ってきたことがある。懐かしいな」

近隣では評判のお化け屋敷だった。子供たちには格好の冒険の場所だっただろう。目の前の男はどんな子供だったのだろうかと美巳は考えて、ちょっと笑ってしまった。

「想像つかないな。勇人さんの子供の頃なんて」

「俺だって、最初から年寄りだった訳じゃないぞ」

ムッとした勇人が言うのに、美巳は首を振る。

「いや、そうじゃなくて。貴方はどんな人か解らなさすぎるからね」

「は?」

片眉を上げた男が、美巳を眇めるように見た。愛読者だという男の言葉に嘘は無いだろう。だが、それを差し引いても、ついこの間まで面識の無かった男に、美巳の内面を見透かされているような感じがするのは、あまり気分のいいものではない。

「謎だらけな人だよ。勇人さんは」

「得体が知れないと思っているなら、雇わなきゃいいだろう」

突っかかってくるかと思えば、平静に返されて、美巳はますます拍子抜けだ。

「いえいえ。そんな勿体無いことはしませんよ」

「そうか、暇で仕方がないんだ。クビになったら困る」

テーブルに戻って、薄いクレープを頬張る男は、何処か心配の方向がずれている気がする。まぁ、本人曰く生活には困ってはいないのなら、そんなものかとも美巳は考えた。

「じゃ、俺は仕事に戻るから、勇人さんは適当に帰っていいよ」

「鍵はいいのか」

「こんな古い家に入る泥棒なんていないだろう」

元々の下町だったこの辺りには古い家が多かったが、耐用年数が過ぎたのか、ここ数年程でかなりの家が建て替えられている。立派な建売に高級車が停まっている家も多く、その中でこの家を選ぶものがいるとは考え難かった。

「泥棒よりもホームレスが入ってくるんじゃないのか」

「確かに!」

ストレートな勇人の意見に、美巳は笑い出してしまう。普通は少し考えそうなものだが、勇人にはそういった部分が無かった。

「俺の冗談に笑う相手は中々いないんだが」

「まぁ、そうだろうね」

真面目は顔で返されて、美巳はますます笑いが止まらない。本人はこれを本気でジョークだと思っているらしい。会社勤めでは浮いたのではないだろうか。

「じゃ、また明日来てくれ」

勇人との会話は楽しいが、いつまでもそうしている訳にもいかない。美巳は手を振って二階へと戻っていった。


机に向かい、執筆を進める。他に比べるものも無いが、発行のペースからすればおそらく早い方だろうと思う。でなければ、美巳のようなマイナー作家がそう仕事がもらえる筈が無い。

月末にはもう一つ、書き下ろしの文庫本の締め切りがあった。手始めに、あそこの原稿をデータで送ってみようかと考える。それで、今までとは違和感が異なるかどうかを見てみたい。

間に『勇人』という異分子が介在することで、どうなるのか。

「非常に興味深い事例だね」

美巳のつぶやきは誰にも届くことなく、霧散した。

「先生」

数日後、門を潜ったのは、時生豆腐店の隠居だ。

「珍しいな、こんな時間に配達なんて」

「時生さんところの豆腐が朝から食べたくなったんだよ」

豆腐屋の朝は忙しい。配達を頼めば、隠居しか空いていないだろうとは考えていたし、この時間ならば長居もしないだろうという計算だ。

「また、そんなこと言って。まからないよ」

隠居の軽口に美巳は軽く声を上げて笑う。

「そういえば、勇人はどうだ」

「良くやってくれてますよ。でも、本当にあんな給料でいいんですか」

隠居が聞きたがっているのは承知の上で呼んだのだ。案の定、時生は水を向けてくる。

「ああ。あいつはずっと母親の面倒見ながら、働きづめだったからな。趣味もないし、家はあるし。会社と病院の往復だけの生活で、仕事辞めちまったら、誰とも話さずに篭りきりだ。正直、給料よりも誰かと話すことの方がいいと思ってな」

「そうですね」

あの男に、大勢の人間と如才なくやっていくことは出来ないだろう。そういう意味では、人付き合いの殆ど無い美巳のところと言うのは正解だ。そして、同時に気付く。隠居は美巳にも誰かがいる方がいいと判断した訳だ。

「じゃあな、早く帰らないと嫁に怒られちまう」

息子の嫁には頭が上がらないらしい。隠居は言いたいことだけを言って、そそくさと引き上げていった。

「成程」

美巳は勇人のあの言動のうかつさと前後の繋がらない話しぶりを思い出す。長患いの母親と二人暮らしの生活がどうだったのかは解らないが、必要以上に人と関わらない生活を続けてきたのだろう。

趣味の無い男が『珍しく興味を示した』のが美巳の小説だというのならば、あののめり込みも解るような気がするが、何がそうさせたのかは美巳にはまったく不明だ。

どうにも読めないことが多すぎて、美巳は首を捻るばかりである。

数日間だけではあるが、データの打ち込みをするときに見せる面白くも無さそうな顔と、美巳の原稿を読んでいるときに見せる豊かな表情の移り変わりにはギャップがありすぎた。

「紅林」

考え込んでいた美巳は、いつの間にか庭へと回ってきていた勇人に声を掛けられて顔を上げる。そこにいるのは、いつも通りにつまらなさそうな風情の中年男だった。

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