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第十一話

何をする気もなく、勇人は摺れた畳にごろりと横になる。

翌日になっても誰が来るわけでもなく、ましてや美巳が小説を書かなくなれば、出掛ける当てもない。

母親が亡くなるまでは、必死に働いてきた。女手一つで自分を何不自由なく育ててくれ、大学にも行かせてくれた母親には、きちんと療養して欲しかった。その一方で仕事の終わった後や、休みの日には必ず見舞いも行った。それを苦痛に思ったことは一度もない。だが、母親がいなくなった後には、只でさえ人付き合いの苦手な勇人の周囲には誰もいなかった。

山ほどの残業をこなして来た勇人には、失業保険も退職金も多かった。持ち家もあり生活全てにあまり執着の無い勇人には多すぎるくらいの額がそのふところにあり、しかも長い療養生活で随分切り崩してきたと思っていた母親の保険金もある。このまま十数年働かずに暮らしても、普通に食べていくくらいは出来る筈だ。

何にも執着せず、何も行動も起こさず、そうやって無為に過ぎていく日々。

会社を辞めてからやったことは一つだけだ。そこここに残る母親の思い出が目に入るたびに何ともいえない寂寥感に突き動かされる。その気持ちのまま、母親の持ち物を全て処分した。

結果として、母の本棚にあった筈の本を美巳から借りる羽目になったのだ。

「情けないな。そんなことなら」

呟いて、勇人はがばりと起き上がる。

「本。不味い、借りたままだ」

林惟弥の本は、美巳が家へと訪れたことで返しそびれて、そのままになっている。既に夜半になっていたが、本を掴んで立ち上がった。

「あれから、何日だ?」

明後日には引っ越すと言っていたことを思い出し、勇人はサンダル履きのまま駆け出した。

深夜の住宅街を走る中年男を、時折すれ違う人々が何事かと振り向くが、そんなことには構っていられない。今、返さなければ間に合わないかもしれない。

遠くに見える三角形の屋根を目指して勇人は走り続けた。

門の前に立つと、周囲の住宅に比べてあまりにも静かで、勇人はごくりと息を飲み込む。間に合わなかったかと肩を落とし、門扉に手を置くと、軋んだ音を立てて門扉が開いた。

扉を叩こうとして、思い留まる。こんな夜中に何をしようと言うのだろう。振り向いた視線の先に、まだ幼い頃に入りこんだ庭があった。

庭の片隅に茂るラズベリー。他にもリンゴや名も知らない果実の木がある。それを眺めつつ、勇人は庭先にあるベンチに腰を下ろした。

ここでよく美巳は原稿を読んでいたことを思い出す。短い間だった。ほんの数ヶ月のバイト期間だ。共にお茶を飲んだり、何度か食事もした。見掛けは髪を染めた今どきの若い奴だが、書く話と同じく落ち着いた雰囲気で、隣にいることを忘れることもあった。

だが、何時からだろう。探るような視線や見透かした言葉に反発を覚えるようになった。お前みたいな奴に何が解る。そう投げつけたい気持ちを抑え付ける。

ぱらりと手にした本を開いた。

既に老眼も入った勇人の目では、月明かりでは読めもしない。そのまま、ぼうっと眺めるだけの本に灯りが落ちた。

はっとして顔を上げると、どのくらいの時間が過ぎたのか、既に周囲の住宅の明かりもない中、庭に灯りが差している。立ち上がって灯りの方を振り仰いだ。

屋根裏らしい窓の辺りで妙に明るい光がある。

妙な胸騒ぎを感じて、勇人は走り出した。庭に面した窓は、事も無げに開く。そのまま見慣れた部屋を横切り階段を駆け上がり、寝室へと入り込む。

寝室の奥の扉が開いていた。

そこから灯りが漏れている。勇人はどうしようかと迷ったが、今更だと足を踏み出した。階段を上がると、その光は段々と強くなっている気がする。階段を昇りきって、あまりの眩しさに思わず腕をかざすと、聞きなれた声が勇人の名を呼んだ。

「は、やとさん」

「くれば、やし?」

そこに居たのは、ここ数ヶ月で見慣れた男の姿だった。

金に近い茶髪を肩に掛かるくらいに伸ばした、色素の薄い茶の瞳が勇人の姿を認めて、見開かれる。

その男の姿が光に包まれ消えるかと思った瞬間、勇人は手を伸ばした。このまま別れる訳にはいかない。

美巳を包み込む光の帯が段々と狭くなる。必死に手を伸ばした。指先が触れるかどうかというところで、勇人の身体は弾き飛ばされるように抱え込まれた。

抱え込まれたまま床へ転がる。

『やれやれ、また失敗か』

勇人には聞き取れない不思議な言葉を残して、光は消えた。残されたのは、床へと転がったままの勇人と、それを抱え込んだ美巳だ。

「大丈夫か。勇人さん」

「それはお前の方だ」

転がるときに下敷きになった美巳の上から勇人が退く。

「あれは、何だ? 一体」

「説明は後だ。逃げるぞ」

呟いた勇人の腕を美巳が強引に引き寄せた。細かな振動が足に伝わってくる。

「じ、地震か」

「とにかく、早く!」

段々と大きくなる振動の中、手すりに捕まり、何とか降りていく。外へと出ると振動は収まった。

「お、収まった?」

ほっと息を吐いた勇人は、妙なことに気がつく。周囲の住宅の窓が一つも開いていないのだ。大きな地震には事欠かない首都圏だ。あんなに大きな地震が起こったのなら。

「勇人さん。説明は後でするから、とりあえず、ここは出よう」

強い力で腕を取られ、促されるままに歩き出す。門扉を閉めると、ガタリと何かが外れた音が響いた。

びくりとして振り返った勇人が、そのまま目を見開いて固まる。

「な、ぜ?」

軋む音をさせながらもきちんと動いていた筈の門扉は、錆びて蝶番が一つ外れていた。

「早く!」

強い美巳の声に引き摺られながらも、勇人は背後の屋敷を振り仰ぐ。勇人が幼いころからそこにあった、古びてはいるが立派な三角形の塔は、窓が割れ屋根も一部が破れている廃墟と化していた。

「く、紅林」

おそるおそる勇人は隣を歩く男を見る。そこにいる金茶の髪の若い男の姿に変わりは無く、ほっと勇人は胸を撫で下ろした。

「聞いてもいいか」

「説明は後でする。聞きたくなくてもね。人の耳に入ると不味んだ」

しっと美巳が口元に指を当てた。その仕草に、勇人もはっとなって口元を押さえる。後は恐ろしい程に寝静まった街を無言で歩くだけだった。

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