第十話
「明日もここで書かせてもらっていいか」
言い出した美巳に、下を向いていた勇人が顔を上げる。
「構わないよ」
物語の中に没頭するようにペンを走らせていた美巳の横顔。声を掛けるのさえ躊躇うほどの真摯な姿。そこまでして書きたい物語があるのならば。
「紅林の話が読めなくなるのは残念だけれど、最後なら思い切り書いて欲しい」
勇人は一抹の寂しさを振り切って、そう言葉を添えた。所詮、一時期人生が交差しただけの相手である。思いがけなく、共に物語を作る手伝いが出来ただけでも楽しかった。
最後の『紅林美巳』の物語を見届ようと、勇人は考え、出て行く美巳の後姿を見送った。
物語は二人の日常が丹念に書かれていた。
距離が近くなることを示すように、二人がくつろぐ場が移っていく。どちらも若くはない男と女が少しだけ心を通わせる場が、縁側から居間。そして台所へと。
二人とも傷を忘れた訳ではない。トラウマを抱えつつ、それでも時間が過ぎるごとに傷は薄らいでいく。
打ち込み終わった勇人が顔を上げると、珍しくこちらを伺っていたらしい美巳が柔らかな笑顔を浮かべていた。
「どうかな」
「単なる日常なのに、ちょっと辛いな」
読み返していると、勇人は涙が滲むのを感じる。
「辛いのは、勇人さんが辛い所為だと思うがな」
「え?」
意外なことを告げられて、じっと向かい合う。
「種明かしをしようか」
ずいっと近づいて来た美巳は、何処か観察するような目で勇人を見つめていた。それに呑まれたようになりながら、勇人はうなずくしかない。
「言霊って知ってる?」
「ああ。忌み言葉とかいう奴だろう」
何を思って、今更迷信のようなことを言い出すのだろうと、勇人は首を捻った。だが、同時に警戒もある。また、いつもの愚にもつかない嘘を付くつもりかと。
「言葉に宿る力。正しく使えば、まだまだ効力を発揮するんだ。俺の話にはそれを織り交ぜてある。正しく感じ取れる人間は、その影響を受けやすい」
「まるでファンタジーの呪術使いみたいだな」
美巳の整った顔立ちで発された言葉は、一層絵空事じみていた。また、いつもの嘘かと勇人は一笑に伏す。
「魔法使いとは言ってくれないのか」
この間からやたらとそれに拘っている気がするが、勇人が幼い頃に出逢った魔法使いが何だというのだろう。
「紅林。まるで自分が魔法使いだと言わんばかりだな」
ふざけるように言った勇人に、美巳はにっこりと笑い掛けた。
「信じてないな、その顔は。勇人さんのお母さんが言った通りだよ。魔法使いは何時かはいなくなるんだ。言っただろう。あそこは仮の住まいだと」
勇人は目を見開いたまま、美巳を見つめる。母親の話は確かにした。だが、そんな細かいことまで自分は話しただろうか。
「俺があの子に出逢ったのは、もう何十年も前だ。俺はその時、人目に隠れるように暮らしていた。庭に入り込んできた子供は、そんな俺を見て『魔法使い』のようだと言った。多分、人目を避けるためのフードがそう思えたんだろう。何度も家に訪ねてくる子供を俺は好奇心で家に招いた。その子供をモデルにしたのが、あの話だ」
「夏の、魔法使い?」
最初に勇人が手にとったとき、何処か懐かしい感じがした。思い出したのは、子供の頃に出逢った魔法使いだ。
「まさか。お前はいくら何でも俺よりも」
「だから、親戚みたいなものだって誤魔化した。俺自身だとは信じないだろうと思っていたから」
目の前の男は、どう上に見積もっても三十代がいいところだ。確かに共通点は多いが、それだけで信じられる筈が無い。
腹立たしくなった勇人は立ち上がると、美巳の腕をとり立ち上がらせた。心の中の思い出に無遠慮に踏み込まれたようで、気持ちが悪い。
「は、勇人さん」
玄関へと押し出す勇人に、美巳は焦った声を上げるが、今日は反論も聞きたくなかった。
「待ってくれ、勇人さん。これだけは受け取って欲しい」
美巳が差し出したのは、青いジャムの入ったビンである。
「ラズベリーのジャム。覚えてないか。初めてあの家でお茶を飲んだとき」
「確かに懐かしいような味だったさ」
それが何だと言うのだろう。吐き捨てた勇人に、美巳は首を振った。
「そうじゃなくて、勇人さんが子供の頃にあの家でお茶を飲んだ時」
なおも言い募る美巳の鼻先でぴしゃりと扉が閉じられる。どうやら、触れられたくない何かに触れてしまったらしい。美巳は呆然と立ち尽くしたが、開かない扉に諦めて背を向けた。
翌日、恐る恐る訪ねた美巳の前に、意外なほどあっさりと扉が開かれる。
ただし、尚も勇人が機嫌が悪いことは明らかだった。
「勇人さん」
「紅林。お前の書く最後の小説には付き合ってやる。ただし、そこまでだ」
冷たく言われて、美巳はうなずいた。本当はもっと勇人に近づきたかった。あの子と勇人が同じだと気付いたからには尚更。何故この男は、少年の頃も今もこんなに美巳の創作意欲を刺激するのか。
本当は解っている。だからこそ確かめたいのだ。
勇人に認めて欲しい。だが、それは勇人に苦痛しかもたらさない。
縁側へと座る。文机の前でじっと美巳は意識を集中した。万年筆が滑るように原稿に力強い文字をしたためる。
最後のシーンは洗濯機の前だ。女が抱え上げた洗濯籠を、横合いから男が受け取り、二人で庭へと向う。
それだけのことだが、共に日常を過ごしていることが如実に解る。
何でもない日常に、ふいに打ち込んでいた勇人の目に涙が浮かんだ。何故だろう。この話を読んでいると、つい涙ぐんでしまう。
幸せな筈だ。だが、辛いと思ってしまう。それはもうすぐ来る美巳との別れにナーバスになっている所為かもしれない。
仕事以外でこんなに長い時間を過ごした相手は学生時代を除くと美巳だけだ。一方的にだが、好意を持った相手に、おかしな嘘ばかりを吐かれ、勇人はうんざりしていた。
「どうだ?」
美巳が覗き込んでいることに気付き、勇人はぐっと涙を堪える。
「面白いよ。暖かくて優しくて」
「そうか。良かった」
安堵の微笑を浮かべる美巳に、勇人は腹立ちを思い出し、ぶっきらぼうになった。
「本当に辞めるのか」
「ああ。もうここにはいられないからな。元々、ここで暮らすために書きはじめたようなものだから」
「ッ、何処か引っ越すのか?」
意外な美巳の言葉に、勇人はつい聞き返してしまってから、口を抑える。どうせ嘘だらけなのだから、乗せられないつもりでいたのに。
「ああ。明後日の夜には。楽しかった」
だが、帰ってきたのは去っていく予定を告げる言葉だけ。
「ありがとう」
玄関まで見送り、差し出された手を握ると、ふいに美巳の腕に抱き寄せられた。
「勇人さん。辛いのは、あの二人と同じだからだ。言霊に同調しているんだ。もう自由になってもいいんだよ」
暖かな体温を感じていると、美巳の手が慰めるように勇人の背を軽く叩く。
それは長かったのか否か。不意に美巳の腕から開放されたかと思うと、すでに美巳は背を向け、扉が閉められた後だ。
勇人は何故かおいてけ掘りを食らったような、奇妙な寂しさを抱えたまま、しばらく玄関に立ち尽くしていた。




