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第一話

紅林美巳の朝は早い。

まだ日も登らないうちから、庭に実った果物をいくつか収穫し、それとヨーグルトで朝食を済ませる。朝食を取るのは、庭に繋がるポーチに出した木製のベンチだ。何年か前に街の主催の植木市で買ったものだが、素人の手作りの割りには丈夫で手触りが良く、お気に入りだ。

それから二階の書棚の前にあるテーブルで執筆を始める。

美巳は、ここ十年程作家として生活をしていた。売れない作家の常で、エンターテイメントならば何でもござれで、常に締め切りを抱えている。

出せば十数万部が売れるような人気のある作家ではない。売れて数万部。常に数千部の吹けば飛ぶような売文業だ。数をこなすことでしか生活は成りたたない。

ただ、最近はそれも途切れがちであるのが、悩みの種でもあった。

「先生。いるかい」

「時生さん、上がってきてくれていいよ」

時生豆腐店元店主である隠居は、美巳の配達だけは自分で引き受ける。もちろん、それは話し相手を求めてのことでもあるので、時生の息子夫婦も止めはしなかった。

だが、二階へ上がってきた時生の背後に人の姿を認め、美巳は眉を寄せる。

「先生、手伝い欲しがってただろう。コレはどうかね」

時生が親指だけで背後の男を指した。痩せて背の高い男は、ちょっと猫背気味だ。癖なのか美巳に興味がないのか、ちらりとこちらを見たきり、下を向いてしまった。四十は疾うに過ぎているだろうと考えて、ちょっとした疑問にはたと考えを止める。

「時生さん、俺、そんなに給料出せないけど」

この時間に勤めていないというのは、次の仕事を探しているということだろう。確かに手伝いを探してはいるが、キチンとした就職先としては不足すぎる。

「いや、コイツは職は辞めてるし、生活に困ってるわけでも無い。ホントにちょっとした手伝い程度でいいんだ。な、そうだろ」

男は自分の事を相談されている最中だというのに、興味なさげに下を向いたきりだ。だが、時生に促されると、こくりとうなずく。

「それに先生の見映えじゃ、近所のおばちゃん連中がこの家に入ったら大騒ぎになっちまうしな。このおっさんなら、大丈夫だろ」

地味な生活ぶりだが、美巳の外見は非常に派手だ。金に近い髪と色素の薄い瞳。顔も今風ではないが、それなりにいい顔だと美巳自身も思っている。

「まぁ、そうですね」

確かに妙な噂がたって注目されても困るのだ。その点、目の前の男ならば心配ない。

「紅林、美巳」

男がぽつりと呟いた。

「はい。何ですか」

呼び捨てにされたのは気に入らないが、倍近く年の離れた男だと考え、美巳は素直に返事をする。

「沢山あるな。全冊揃ってる」

男が見ていたのは、本棚に並んだ本だ。十年近く作家を続けていれば、それなりの冊数の著作が並んでいる。

「そりゃ、そうだろ。なぁ、先生」

「俺の本ですからね」

大笑いしている豆腐屋の隠居は、おそらく何も言わずに連れてきたに違いない。人が悪いと思いながらも、美巳も堪え切れずにニヤついてしまった。

「あんた、の」

男は唖然とした表情で美巳を見る。頭の中ではいろいろな情報が駆け巡っている筈だ。美巳は男が次の言葉を発するのを待つ。どんな言葉を形作るのか。豆腐屋を怒鳴るのか、詰るのか、それとも美巳に詰め寄るか。

だが、真っ直ぐに美巳を見た男はじっと顔を覗きこみ、首を捻るだけだった。

「そうか、あんたが紅林先生なのか」

納得したような調子に、美巳は拍子抜けだ。

「何だ。好きな作家さんだって、勇人はやとが珍しく興味があるみたいだったから、連れてきたのに」

「時生おじさん。人で遊ばないでください。で、私は何をすればいいんですかね」

後半は美巳に向けた言葉である。勇人と呼ばれた男は、面白くも無さそうに確認を取った。

「パソコンは出来ますか」

「勤め人だったので、普通には。難しいことは、私もこの年なので」

「そうですか。実は、俺、恥ずかしながらまったく駄目なんですよ。それで俺の原稿を打ち込んで欲しいんですけど。それ、出来ます?」

「量が無ければ」

美巳の質問にも、淡々と答えを返す。

「じゃ、この辺で俺は失礼するよ」

仕事の話になったのを潮に、豆腐屋の隠居が腰を上げた。

「ありがとうございます」

いつも気に掛けてくれる隠居に、感謝を述べ、美巳は勇人へと向き直る。勇人はぼうっと外を眺めていた。その、心を何処かへ飛ばしたような様子に、美巳は興味を引かれた。

「何か面白いものでもありますか」

「いや。いつも外から眺めているだけの家だったから」

「ご近所ですか」

「そうだな。ここのところ帰ってきていなかったし」

返答が何処かずれていて、聞きたい答えが返ってこない。というか会話が成立しているようで成立していないのが、美巳の中に妙な座りの悪さを醸し出す。

「勇人さん。そんなにお支払いは出来ないんですが」

「別に構いません。金には困ってない。やることが無いのは暇だし」

呟いているだけのつもりなのか、敬語とそれ以外が混じる。

「勇人さん。敬語は無しでいい。俺もその方が楽だ」

「ああ。そうですか。紅林、でいいか」

敬語は無しでとは言ったが、それでもいきなり呼び捨てにされるとは思わなかった美巳は、このオヤジはどういう勤め人だったんだとちょっと考えてしまう。

現在、四十路も後半となれば、二十年以上は会社勤めだった筈だ。だが、ここまでずれていると、逆に面白いと思う気持ちの方が大きい。

「一日三時間。早く終われば帰ってもいい。日のあるうちに来てくれれば、何時でも構わない。日給は」

美巳が示した金額は、最低賃金程度だ。売れない作家としてはかなりの出費だが、原稿を全てデータ化してくれるほどの手間を編集部が掛けてはくれない作家としては支払わざるを得ない。

「紅林。その金で覚えたらいいんじゃないのか」

勇人がぶつけて来るのは当然の疑問だ。いくらでも教室もあるし、販売店でも教えてくれるまでセットになっているところもあるのだ。

「う~ん。以前にやったこともあるんだけれどね。死んじゃうんだよな」

「あんたが?」

「いや、言葉が。結局書けなくなって、ワープロで書くの止めたんだ」

「ワープロ? PCじゃないのか」

「だから、アナログ人間なんだって」

笑って誤魔化したが、勇人は首を捻っているだけだ。不味い。ここのところの技術進歩は早すぎて、話を合わせるのに苦慮するかもしれないと、内心美巳は冷や汗をかいていた。

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