婚礼
その夜、サーシャは手に湯気の立つ夜酒を携えて王子の部屋の扉を叩いた。鍵はかかっていなくて、中には誰にもいなかった。夜酒を置いて出ようとしたとき、部屋に個室にある浴室から腰布を巻いた王子が出てきた。
「あっ…」
思わず顔を真っ赤にして立ち去ろうとしたとき、王子はサーシャを引き留めて、椅子を勧めた。自分がどんなに情けない思いをしているのか分からないのだろう。
「どうか、このグラスが空になるまで私は夢を見ていたい」
王子は夜会と同じように勤めて自然だ。女性に裸を見られて恥ずかしくないのだろうかそれとも文化の違いだろうか。しかし、そのとき、王子は別の視線で考えていた。まだ幼さの残る顔に赤みを乗せたその初な表情が、彼女を魅力的に見せているのは自身には分かっていないのだろう。
「今度はあなたからバラの香りがしますね。着物を替えたせいか、さっきと違って、なんだかとっても…魅惑的だ」
「…ありがとうございます」
何と答えればいいか分からず、王子がグラスを空にするまで黙っていた。とりあえず訪問を終えたのでドレスを翻して帰ろうとしたが、王子が立ち上がりやんわりと押しとどめた。目の前に均整の取れた背がそびえ立ち、かすかに怖いと感じた。王子は手を伸ばしてサーシャの髪に触れた。
「始め見たときから、思っていた。あなたは美しいと。そして今は…あなたを愛している。あなたを私の妃に」
びっくりしてサーシャは王子を見上げた。今は火照った肌の温度が分かるくらい近くにいる。情熱的な青い瞳に見つめられると、突然混乱してきた。ここまできたら次はどうなって、最後にはどうなるのかと想像できる。たぶん、自分はイウェンサ国に嫁ぐことになるのだろう。そして、王妃になった暁には世継ぎの懐妊が望まれる。別にここで彼と関係を持ってもとやかくは言われないのだろう。しかし、自分は本当に彼に捧げて良いのかまだ分かっていなかった。
と、彼は体を傾けてサーシャの唇に彼自身の物を重ねた。サーシャにとって初めてのキスだった。思ったより熱い感触が彼の気持ちを伝える。けれど、サーシャは経験がないおかげでどういう所作を取ったらいいのか分からずにじっと突っ立ったままだった。
「…んっ」
サーシャが呼吸をするために一度唇を離した彼はまた優しく口づけした。今度は瞳の奥に燃える欲望を秘めて、更に紳士的にサーシャをベッドに倒そうとした。
何も出来ない人形のように勝手にされる。サーシャはとっさに嫌悪を感じた。そして思わず彼の熱い唇を離し、彼を勢いよく突き飛ばした。そして今自分がした行為にはっと、我に返る。
「ごめんなさい…」
何があったか分からずサーシャを見るルッサ。彼の瞳を見られずにその言葉だけ絞り出すとサーシャは部屋から飛び出した。
広い城を闇雲に走り、ようやく暗いテラスに出ると夜風に火照った体を冷ました。
「私は…」
あえいだまま、何秒も流れる。今夜はいろんなことがありすぎた。闇にポッカリ浮かぶ月が静かに見守る。ただ分かったことはこれから、自分勝手に生きられないと言うことだった。いろいろ渦巻く感情に区別が付かないまま、サーシャは自分の部屋にとぼとぼ帰っていった。
翌朝、サーシャが王の元に呼ばれると、王は顔に満面の笑みを浮かべてサーシャを迎え入れた。
「でかしたぞ。イウェンサ国王と王子がそなたをぜひ妃に迎えたいというそうだ。一ヶ月後に婚礼を行うそうだ。それと王子から伝言を預かっているぞ。昨日の夜はすまないと。何かあったのか?」
「…いいえ」
サーシャは王の目を見られずにうつむいた。国が王女の婚礼に湧く中、サーシャは一人沈んだ気持ちの中、庭にうずくまった。しゃがみ込み土を掴んだ瞬間、奥歯の奥から苦い味が込み上げて涙がこぼれた。思わずサーシャは狼狽えた。どうしてこう涙が流れるのか、自分は結婚して国は守られるのに。しかし、心の奥ではこれが自分が型として鎖につながれたことによってのことだと分かっていた。これからは剣を習うことも出来ないし、例え本当に好きな人が出来ても添うことが出来ない。
婚礼の日は瞬く間にやってきた。サーシャ達は両国で二回婚礼の儀をあげた。国民は美しい二人を祝福して、国の安泰にほっとした。純白のドレスに身を包み、司教の前で誓いの言葉を口にする。サーシャの薬指を飾るのは父から贈られた伝統の指輪だ。サーシャはベール越しに自分を見つめる熱い瞳をまともに受け取ることが出来ずにいた。
「あなたを一生愛します」
王子の言葉で誓いの言葉を締めくくると、ベールが開けられ彼はサーシャに口づけた。それに国民の歓声が渦のようにまき起こる。婚礼の儀は忙しさに目が回るうちに過ぎ去っていきたちまち二人の初めての夜がやってきた。
広い部屋の中でポツンと一人ベッドに腰掛けているとドアが静かにノックされた。入ってきたのは婚礼の儀より軽装になった王子であった。
「ああ、王子様…」
慌てて立ち上がるサーシャに面白そうにウィンクを投げかけた。
「私たちは結婚したんだ。王子なんて言わず、ルッサと呼んでくれ」
「すみません…」
うつむくサーシャに王子は近づき、そっと抱きしめた。
「心配しなくていい。すべてうまくいく」
王子はサーシャの額にキスをした。サーシャは冷たい手で自らドレスをほどき始める。前の過ちを繰り返さないためにも教えを受けて、自分からやってしまおうと思ったのだ。ルッサの手をうなじに導く。驚いたルッサは彼女の顔を見ると、顔を強ばらして今にも泣き出しそうである。再び彼女を抱きしめてルッサは囁く。
「無理にしなくてもよい。私が焦りすぎたのだ。あなたが十六になるまで待とう。その時が来たらあなたの初めてを私に捧げてくれ」
少女の手がぱたんと落ち、真っ赤な顔からは大粒の涙が流れた。幼さが残る顔には紛れもない安堵が浮かんでいる。朱ののぼるその顔は愛らしい。しかしそれも、後二年も経てば完全な女の顔に整い迫力の美貌を放つだろう。その時、自分が彼女に対して持っている兄のような愛は完全に消え、彼女の肉体を求めるただの獣となる。