わたくしのお兄様
鳥籠型の温室の中から見える空を眺める。
__如何してこんな事になってしまったのか。
ベアトリーチェには歳の離れた兄が2人いた。兄妹仲が良く、取り分け2番目の兄とは自他共に認める程。
そんな普通の兄妹から、いつ道を踏み外してしまったのだろうか。
硝子越しの空は哀しい程に蒼かった。
◇◆◇
ベアトリーチェは公爵家の末っ子として生まれた。
歳の離れた兄は、長男が14歳、次男は8歳も歳が離れていた事や念願の女の子だった事もあり、随分可愛がられて、甘やかされて育った。
王家に次ぐ権力の公爵家という事もあり、領地や王都にある敷地は広大だ。
昨年デビュタントも終わらせ、今年18歳のベアトリーチェには求婚する者が後を絶たない。家柄もだが、ベアトリーチェの容姿にもその一因があった。
白磁の肌に絹糸の様な銀の髪、澄んだ瞳は深い海の色で、腰はコルセットなど不要な程細く、胸は綺麗に盛り上がっていた。
妻の質すらもステータスとする貴族社会に於いて、ベアトリーチェ程最適な結婚相手は居ないだろう。
だからだろうか。
ベアトリーチェはどの集まりに行くのも、兄が出席する集まり以外は全て断っていた。
あまり貴族の集まりが好きではないベアトリーチェからすると、男達の欲望や好奇の眼差しも、女達の嫉妬や羨望の眼差しも、途轍もなく気持ちの悪いモノに他ならない。
男達が影でなんと言っているか知っている。女達が兄にエスコートされる自分に憎悪を向けているのも知っている。
知れば知る程、貴族の集まりに参加する気持ちが遠退く。
王家に、ベアトリーチェとちょうど歳の合う王子でもいればもう少しマシだっただろう。間違いなくベアトリーチェが婚約者となっていただろうから。
だが、王は40代後半で現役であるし、王子もつい昨年に御子が生まれたばかり。流石に1歳の王子相手に婚約はありえない。
何もベアトリーチェの貴族に対する嫌悪感は今に始まった事では無かった。
ベアトリーチェが12歳の時、母が病で亡くなった際にはっきりと自覚した。
元々身体の弱かった母は、ベアトリーチェが4歳の時、既に体調を崩して領地の中でも特に空気の綺麗な田舎に越していた。
なかなか母には会えなかったが、会った際にはとても可愛がってくれていたし、美人で優しくて、時に厳しく接してくれる母の事が大好きだった。
その為亡くなった時にはショックで塞ぎ込み、日頃から可愛がってくれていた兄達に余計に甘える様になった。
ベアトリーチェは見てしまった。
表面上はおいたわしいと泣いていた女が、いい気味だと、後妻の座は私だと、醜く歪んだ心を隠しもせず笑っていた貴族の女達の姿を。
兄達も甘えるベアトリーチェが可愛かったのだろう。嫌な顔一つせずにどこに行くにも連れて行ってくれた。
その時もう既に、父の補佐として領地の管理や外交などをしていた嫡男である上の兄のジェラルドは、ベアトリーチェと過ごす時間も少なく、自然と下の兄のクレメンテと過ごす時間が長くなった。
家を継がない次男のクレメンテは、ベアトリーチェの為に在宅でも出来る事業を新規開拓し、忙しいながらもベアトリーチェを第一にしてくれた事もあって、ベアトリーチェはクレメンテにべったりになっていった。
母が亡くなってから6年。
いつからだろう。
クレメンテの瞳の中に、おおよそ妹に向ける感情とは異なる色を見つけたのは。
ずっと、気が付かないふりをしていた。
クレメンテと離れるのが怖かったから。クレメンテに、依存してる自分と向き合う事が怖かったから。
父や上の兄のジェラルドから、ベアトリーチェの機嫌取りの様に贈られたドレスや装飾品を眺める。
父やジェラルドも好きだ。
なんだかんだ忙しい合間を縫って、ベアトリーチェに会いに来てくれるし、ベアトリーチェが体調を崩したりすれば何を置いても駆け付けてくれる。
言葉の端々から愛されている事が実感出来る為、嫌いになれる訳がない。
だが、父やジェラルドを想う感情と、クレメンテを想う感情とは一線を画してる気がしてならないのだ。
今も、父やジェラルドから贈られた品々を見ながら、クレメンテからは何が贈られるのかと期待している。
期待せずには居られない。今日はベアトリーチェの18歳の誕生日なのだ。
兄が、クレメンテが、父やジェラルドも覚えていた自分の誕生日を忘れる筈がない。毎年、あの手この手を使って、ベアトリーチェにサプライズしてくれるのだ。
今日もきっとそうなんだろう。
部屋にノックの音がして、ベアトリーチェは応える。
扉から顔を覗かせたのはクレメンテで、ベアトリーチェは微笑んでクレメンテを部屋に招き入れた。
「ビーチェ、18歳の誕生日おめでとう。」
クレメンテがベアトリーチェの所まで来て、緩く抱き締めて額に口付ける。
いつもと変わりのないクレメンテの態度に、ベアトリーチェはいつプレゼントが貰えるのか、ついつい待ち構えてしまう。
いつも驚かされるので、身構えてしまうのだ。
「ありがとう、お兄様。…今年は何をしてくださるの?」
「それは内緒だよ。…今年は今までで一番すごいけどね。」
クレメンテが琥珀色の瞳を細め、口元に人差し指を立てる。もしかすると、食事の席に着くまで教えてくれないのかもしれない。
ベアトリーチェの希望で、公爵令嬢には珍しく、毎年家族だけでささやかなお祝いをしている為、贈られたドレスや装飾品を身につけて食事するだけなのだ。
貴族としての体面で、また別の日に夜会は開くのだが。
「楽しみだわ。それで、どうして部屋にいらっしゃったの?もうそろそろ、準備をしようと思っていた所でしたのよ?」
「可愛い妹の姿が急に見たくなったんだ。」
「まぁ。お兄様ったら!」
ベアトリーチェが照れて頬を少し膨らませると、クレメンテはベアトリーチェの頬をさらりと撫でて、ふとした瞬間に見せるあの瞳を向けた。
__籠った熱を抑え付ける、苦しそうな男の瞳。
すぐにその瞳はなりを潜め、ベアトリーチェに微笑んでから部屋を出て行った。
(…クレムお兄様…)
ツキリと、僅かに痛む胸を押さえて、クレメンテの出て行った扉を見つめる。
クレメンテも、ベアトリーチェも、解っているのだ。この感情は、大切に胸の奥に仕舞い込んで、鍵を掛けるべきなのだと。
戸惑いを隠して服を着替え、家で食事をするには華やかに整える。
時間になったので部屋を移動して、皆の待つ食堂に向かった。
ささやかなベアトリーチェの誕生会は、何時もより気合の入った料理を和やかに食べ、食後のお茶を飲んでいた時に一変した。
兄達の怒声と混乱によって。
「何を考えている!?許せる訳がないだろう!」
「もう既に、限界なんだ。…邪魔をするなら、父上や兄上であろうと…、容赦はしないよ?」
クレメンテの琥珀色の瞳は仄暗い色を帯び、向けられた怒気に、微笑みを浮かべている。
ベアトリーチェの腰に回された手は、しっかりと逃げられない様に力が入っていた。
たとえ力が入っていなくとも、ベアトリーチェは振りほどけなかっただろう。
父やジェラルドに嫌われる以上に、クレメンテに嫌われる方が何よりも辛い。
「認めてくれとは言わない。この家からも出て行く。」
「だが、ビーチェはどうなる!ランディー二家との婚約の話も進んでいるのだぞ!」
ジェラルドが叫んだ、寝耳に水の、婚約の話にベアトリーチェは驚く。確かにベアトリーチェはそろそろ結婚や婚約してもおかしくない歳だ。
しかし、婚約の話などベアトリーチェは全く知らなかった。
「…だからこそ。ビーチェを失うくらいなら、死んだ方がまだいい。」
クレメンテの感情が読み取れない静かな声が食堂に響く。
「…ジェラルド、やめなさい。…そもそもベアトリーチェの為とはいえ、ベアトリーチェに黙って進めた方が間違いだったのだ。…クレメンテ、本気なのか?」
それまで黙っていた父が口を開き、ジェラルドを窘める。
父はクレメンテに鋭い視線を向け、質問した。
「もちろんですよ。でなければ、態々父上に報告などしません。」
「解った。…好きにするがいい。私は、お前達の誰一人として、失くしたくはない…」
「父上、兄上、感謝いたします。…申し訳ありません。」
クレメンテが父とジェラルドに頭を下げると、ベアトリーチェの腰に手を添えたまま食堂を後にする。
結局ベアトリーチェは一言も話さぬまま、クレメンテに促されるままに出て来てしまった。
困惑と背徳で、正常な考えが浮かばなかった所為でもある。
たった一言の、クレメンテの発言によって。
『私とビーチェは、愛し合っている。』
この気持ちを誰かに打ち明ける訳もなく、また、クレメンテに打ち明けられた事もない。
ベアトリーチェは兄のクレメンテに依存している。だとしても、それが愛なのかはわからない。
クレメンテにしても、今までずっと妹として扱ってくれていたのだ。
今後、ベアトリーチェにどう接するつもりなのだろうか。
それよりも、クレメンテはどこに向かっているのだろうか。
玄関ホールまで進んでも、止まる気配もなく、外へ繋がる扉を開けてしまった。
「お兄様、待って下さいませ!…お兄様!!」
外に出ようとするクレメンテにベアトリーチェはハッとして慌ててクレメンテの腕を引く。
先程から一度もクレメンテと目を合わせていない。
振り向いたクレメンテは、いつもベアトリーチェに見せる優しい微笑みを浮かべている。
だがいつもとは違い、琥珀色の瞳には確かな狂気の色が見て取れた。
__こんな兄は、知らない。
「大丈夫だよ。私が必ず幸せにしてあげるからね、ベアトリーチェ。」
「…いいえ、お兄様…。わたくしは今でも十分幸せですわ…?」
「ベアトリーチェは、何も気にしなくていいんだ。おいで、新しい家に行こう。私からのプレゼントだ。」
邸の前に止まっている馬車に、ベアトリーチェは後退る。
後退ったベアトリーチェを見て、クレメンテが目を細めた。
クレメンテがベアトリーチェの腕を掴み、緩く腕を引く。それだけで、ベアトリーチェは抵抗できずにクレメンテにされるがまま、腕の中に収まる。
「ダメだよ、ビーチェ。私を悲しませないでくれ。」
腕の中に収まったベアトリーチェの、銀の髪を愛おしそうに梳いてエスコートする様に手を取る。
指先に口付けを落として、馬車に促した。
「…どこに、行くんですの?」
馬車は箱型で、小窓にはきっちりとカーテンが引かれている。これでは外が見えそうにない。
御者によって閉められた扉を見て、ベアトリーチェは不安になってクレメンテに伺った。
クレメンテは小さく首を傾げてから、無言で口元に人差し指を立てる。
(…あぁ、お兄様が何も言わない…教えては、もらえないのね…)
クレメンテの無言のままの仕草を見て早々に諦め、目を伏せて意味もなく手元を見る。
すぐに馬車は動き出し、クレメンテも腕を組んで目を閉じてしまった。
ベアトリーチェは今までクレメンテと過ごしてきた日々を想っていた。
幼い時からずっと自分を優先し続けてくれていた兄。
母が亡くなった時も、ずっと泣き続けるベアトリーチェから離れずに、励まし続けてくれていた。
デビュタントも、その後の貴族の集まりも、すべてクレメンテのエスコートだった。
気付いた時にはもう、自分達は道を踏み外していたんじゃないだろうか。
「ビーチェ、私が嫌いになったかな。でも…離しはしないよ…」
クレメンテの呟いた言葉が耳に掠める。
この優しい兄が、自分に恋慕を感じさせる瞳を向けて来たのは、何時の事だっただろうか。
その時に離れていたのなら、こんな事にはならなかったのだろうか。
(…いいえ、もう手遅れだった。…だって、わたくしも…)
呟かれた言葉には反応を示さず、伏せた目を閉じる。
馬車の中は沈黙に満たされたまま走り、ゆっくりと減速して止まった。
正確な時間は解らないが、体感的には1時間半ほどだろうか。
「着いたようだね。ビーチェ、手を。」
御者がノックをしてから扉を開け、クレメンテが手を差し出す。
その態度が、仕草が、いつもと変化がなさ過ぎて切なくなる。
差し出された手に自分の手を重ねて、促されるまま馬車から降りた。
「ベアトリーチェ、プレゼントだ。」
眼前に現れたのは、鳥籠の形をした巨大な温室。
温室の中には家が建ち、温室の四方は高い塀があり、森に囲まれている様だ。
温室の扉が開けられ、中に入る様に示される。
抗えないまま、温室の中に入った。
色とりどりの花に出迎えられ、内部には芳しい花の香りが漂っている。
「気に入ってくれたかな?」
「…ええ、お兄様…」
「部屋は、今までのビーチェの部屋と同じ造りになっているからね。」
クレメンテの優しさなのだろう。ベアトリーチェを省みない事も出来るのに、クレメンテは必ずベアトリーチェの好みに合わせてくれる。
温室の奥のソファに座る様に促され、ゆっくりと腰を掛けた。
ソファもベアトリーチェが気に入っている、ベアトリーチェの自室に置いてあるものを模したものの様だ。
ベアトリーチェの誕生日の食事会は、父とジェラルドの都合で昼食だったので、今はまだ空には蒼が広がっている。
「ビーチェ、私は中を整えて来るから、待っているんだよ。」
ごく自然に額に口付けが落され、小さく頷いて返す。
こういうスキンシップはいつもの事なのだ。兄妹にしてはスキンシップが多いと、いつも貴族女性に目の敵にされていたが。
クレメンテは黒に近い濃紺の髪に、琥珀色の瞳の端正な顔立ちの美青年で、外見とは裏腹に柔らかい態度で老若男女問わず好かれている。
独身と言う事もあってか、貴族の集会に参加すれば挙って女性が話し掛けに来た。本人はベアトリーチェがいるからと、まったく相手にしていなかったが。
それに、さり気なくベアトリーチェに近付く男性にはきっちり牽制していた。
見上げれば、硝子越しの空に鳥が飛んでいる。あの鳥達は自由なのだろうか。
ベアトリーチェは、鳥籠に自分から入ってしまったけれど。
(わたくしには、初めから翼なんてなかったのだもの…)
戻って来たクレメンテは、ベアトリーチェに微笑みかけて隣に座る。
僅かに肩が跳ねたが、気付かれなかっただろうか。
「ビーチェ、中に入ろうか。それとももう少しここにいるか?」
「…もう少し…ここに居させて欲しいわ…」
クレメンテに微笑み返して、もう一度空を見上げる。
視線を感じるが、無視して無言で空を見続けた。
__解ってる。自分ももう、狂ってしまっている事くらい。
「ねえ、クレメンテお兄様…これからもずっと、わたくしの傍にいて下さるかしら…?」
「ああ。もちろんだよ、ベアトリーチェ。」
「嬉しい。…約束よ、お兄様。」
「愛してるよ、ベアトリーチェ。そう、永遠に…ね。」
__如何してこんな事になったかなんて、どうでもいい。ただ、貴方さえいれば。
全然ヤンデレにならなかったorz
また機会があったら挑戦します…