理想の家
建築家の男は思い悩んでいた。師の下を去り、独立して忙しい日々を送る中、癒しが無い事に気がついたのだ。それもそうだろう。大した趣味も持たず、休日は残った仕事を片付ける日々。そんな男の日常の中に息抜きが一切無いのだ。腕が良い事が返って災いしてか、次から次へと依頼が舞い込む日々。やり甲斐を感じないでもなかったが、それとは無関係に疲れが溜まっていく。マッサージを試しても、ジョギングをしてみても、何処か疲れが抜けないのだ。癒しが欲しい。男は切実にそう思った。
そうだ。疲れを癒せる場所が無いのなら、自分で作ってしまえば良いのだ。幸い男には思い描いた通りの家を作る腕があったし、今まで何に使う訳でもなく蓄えてきた金もある。理想の家を作ろう。思い立ったは良かったが、拘りだすと止まらない男の性分もあって、作業は難航を極めた。
リビングは大きすぎても駄目、小さすぎても駄目、部屋は多すぎると野暮、窓は部屋によってそれぞれ丁度良い高さに。一つ問題を潰せば、新たな問題が顔を出す。それを潰せば今度は過去の決定に粗が見える。新たに沸いたアイデアを詰め込もうとすれば、立地から見直しと、中々思うように行かない。幸い仕事に支障をきたす事は無かったが、休日一日かけて出来上がったのが、設計図の出来損ないの山というのも珍しくなかった。家の完成が見えて来た頃には、構想し始めてから既に十年が経っていた。
ついに男の家が完成した。広々としつつも主張の激しくない庭、利便性とデザインを両立させた玄関、自然の光を取り入れたリビング、調理器具全てに手が届くキッチン、足を伸ばしてくつろげる風呂、一人で落ち着けるトイレ。どれ一つ取っても男に合わせた作りとなっており、男にとって正に理想の家と言えた。
男の友人達の間では、男の「理想の家造り」は最早名物となっており、完成した事を知った友人達が祝いに男の家へとやってきた。訪れた友人達は口々に男の家を褒め、また男も大いに誇った。
そのまま男の家で完成パーティが催される事になった。良い友人達を持てたと喜んだ男であったが、あることに気がついて驚き震えた。友人達の訪れにより、自分が作り出した調和や拘りが崩れているのだ。玄関は靴で溢れかえって足の踏み場が無くなり、リビングでは友人達が煩く、キッチンは友人達の祝いの品で溢れ返っている。男が十年かけて作り上げた聖域が、いとも簡単に霞み、色褪せている。男は頭を抱えた。これでは駄目だ。理想の家にしなければ。邪魔になるものは取っ払わなければ。壁を削ったように。柱の位置を変えたように。男はキッチンの包丁を手に取った。