五十三歩のアンサンブル
1
スターティングブロックに足を置き、両手の人差し指と親指をラインにあわせる。
天沢法子はゆっくりと視線を上げた。
アンツーカー(赤茶の土)を白線で句切った九つのレーンがまっすぐに伸びていくのが目に入った。
見慣れた風景だ。
レーンはその先で左に切れ込んでいくのだが自分には関係ない。そこまでは走らない。
ちらりと左を見やる。
中学時代からのライバル、英優美の瞳がこちらに向けられていた。
小さく笑みをかわし、ふたたび前方に向きなおる。
一瞬目を瞑り、そしてひとつ深呼吸。
ここで集中できるかどうかで結果は決まる。
勝敗は戦う前に決まっている、そう言ったのは昔の中国の偉い人だったか。中国の、誰だっただろう。名前は思い出せないが、まあそれはどうでもいい。大切なのは、この、スタート前のわずかな時間こそが、自分にとってはレースのクライマックスということだ。
しかし、ふたたび目を開いた瞬間、失望が心を埋め尽くした。
法子が全力で百メートルを走るとき、歩数は五十三歩と決まっている。
意識してその歩数にしている部分もあるが、たとえ意識しなくてもその歩数になってしまう。足の長さ、体力などで自然とそうなってしまうのだろう。
最高に集中できたときは、スタート時点でこれから自分が奏でるその五十三歩のリズムを最後まで思い浮かべることができる。うまくは言えないが、頭の中ではそのときすでに百メートルを走り終えているのだ。
それができればたいていは自己最高タイムを更新するか、それに近い走りができる。
けれど、今は一歩目のイメージすら浮かんでこない。というよりも、走り方自体を思い出すことができない。
焦りの中、スタート位置に着くよう声がかかる。
オンユアマークス、セット。
――ダメだ――
思った瞬間、身体が動いていた。
直後、スターターピストルの音とフライングを告げる電子音が鳴り響く。
次いで、スターティングブロックを蹴る複数の足音が、むなしいリズムを打ち鳴らした。
フライング。
確認するまでもない、自分だ。
法子はスキップするように数歩前に進んで立ち止まると、自分の頬を両手のひらで強く叩き、気合いを入れなおす。
それにしてもルールに救われた。
すでに国際大会や一部の国内大会でもフライングは一回で失格となってしまう。この春期強化記録会やおよそ一ヶ月後に控えている高校総体県大会でも来年からそうなることが決まっているが、今はまだ各組で一回までは許されているのだ。
今回の場合、法子が一回フライングをしてしまったわけだが、次にフライングをして失格になるのは法子だけでない。この組の誰もがそのリスクを背負うことになってしまった。
ほかのランナーに目礼を送り、謝罪する。
みなはとくに反応は示さず、目をそらした。非難の目を向けるものはいない。
強化記録会に出てくるような選手はほとんどが顔見知りであり、こういう場合はお互い様という感覚が強いのだ。もちろん、普段からフライングばかりしていればそうもいくまいが。
スタート地点に戻ると優美が拳を突きだしてくる。
べつに喧嘩を売っているわけではない。単なる挨拶だ。
法子はその拳にかるく拳をあわせる。
優美は少し笑って大きく深呼吸をして見せた。リラックスしよう、ということだ。
申し訳ないと思う。これで次のスタートには一回目の何倍ものプレッシャーがかかることになるのだから。とはいえこれもレースだ。
再度スタートラインに着き、目を瞑る。深呼吸。そして。まぶたを開く。
刹那、胸が高鳴る。
見えた。
五十三歩の、すべてが。
2
「なんでそんなことわたしに聞くわけ?」
いつものまぶたを半分だけ開けているような表情で、間墨子が気怠そうに答えた。
こちらを見もせず、机の上に置かれたノートパソコンに見入っている。さらに、ノートパソコンにはもう一台モニターがつながれていて、そちらにもなにかの映像が映っているようだった。
「な、なんでって、ここは占術研究部の部室であなた占い師でしょう? だからわたしは占いを頼んだんじゃない」
法子は声を荒らげ、立ち上がった。
乱暴な扱いに抗議するかのように、イスがガタガタと音を立てる。それにつられたかのように、周囲の本棚がぎしぎしと軋むような音を立てた。
部室の壁をすっかり隠してしまうように設置されている本棚には見たこともない文字や記号、得体の知れないイラストが描かれた本が隙間なく納められており、さらにそのまわりには本棚に入りきらない本が所狭しと山積みにされている。おそらく占いに関係のある本に違いない。占術研究部らしいと言えばそうなのだろうが、少々乱雑すぎて神秘的な要素をまるで感じないのは少々期待はずれに思えた。もっとも、入り口からすぐのところに占いをするブースがあって、そこには魔方陣やら星座やらの模様が描かれたタペストリーなどが飾られており、それらしい雰囲気を醸し出しているのだが。
この同級生の占い師はよく当たると一部の生徒たちから信頼を集める一方で、まともに占ってもらえなかったという不平も少なからず耳に入っていた。さしあたって後者は事実のようだ。
「だって占うまでもないことだもの。英さんが高校総体で走れるかどうかなんて、あなたのほうがよく知ってるはずじゃない。同じ陸上部なんだから」
至極当然な言い分だった。
あの強化記録会でアキレス腱を断裂した優美はようやく退院の日取りが決まったばかりで、まだまともに歩ける状態ですらない。そんな状態で高校総体など、考えるだけでばかげている。
「……わたしたち、三年生だから……これが最後の総体なのよ」
墨子はまるで興味がないと言うかのように、こちらにまったく視線を向けずにノートパソコンのキーを叩いた。
「なんでそこで占いが必要になるの?」
「それは――」
実は墨子にはもうひとつ噂があって、それを頼らんがためにここに来たのだ。ただ、その噂はにわかには信じがたいものだけに、当の本人に向かってどう切りだしたものか。
言いよどむ法子に、墨子がたたみかける。
「言っておくけれど、わたしは魔法なんか使えないからね。もっと言えば占いだってニセモノだし」
ズバリと言われてしまった。まことしやかに伝えられる「墨子の魔法」で優美の怪我を治せないかと、藁にもすがる思いで彼女のもとを訪ねたのだが。
「そう……でも占いはみんながよく当たるって言ってるわ。今だってわたしが魔法をあてにしてここに来たのを当てたじゃない」
「当たったように思わせてるだけよ。ほら」
言いながら、墨子はノートパソコンとそれにつながっているモニターをこちらに向けてくる。
「情報を集め、分析しているだけ。ライバルが怪我をしてあなたが心を痛めているってことは噂になってるしね。ああ、一応内緒にしておいてね、これ。個人情報とか、いろいろ面倒くさいから」
ノートパソコン画面には法子の顔写真と全身写真に加えてプロフィール、べつのモニターには優美の写真とプロフィールが映し出されていた。
映し出されている情報自体はごく一部のようだが、かなりプライベートなことまで書かれていてどうやって調べたものか不思議に思えたが、それ以上に写真はどこから手に入れたのだろう。撮られた覚えのない写真だ。
「まさか、全校生徒のデータを持ってるの?」
「それと、教師全員の分ね」
墨子はこともなげに言いはなつ。
「放課後だっていうのに、部室にわたしひとりしかいないって、不思議に思わない? そもそも、わたし以外の占術研究部の部員、誰かひとりでも知ってる?」
「それは……」
「部員たちは正体を隠して情報を集めてるの。どう? おもしろいでしょ」
言葉もない。
「だいたい、悩んでる人間に占いなんて必要ないのよ。自分で判断するようにしむけてやれば勝手に納得してくれるから」
「どういうこと?」
「たとえばわたしがあなたに『あなたはここを出たら知人に会う。その人が運命を左右する助言をしてくれる』と言ったとするわね」
なんだかんだ言っても占ってくれてるのだろうかと思い、頷いておく。しかし。
「それは占いなんかじゃないの。ここは学校なんだから知人に会うに決まってるし、その人はあなたが陸上で期待されていることを知っているはずだから、たぶん『高校総体頑張って』とか言うでしょうね。でもあなたはわたしの言葉の影響で、それを『英さんのことは忘れて自分のことに集中しろ』という『運命の助言』だと思うんじゃないかしら?」
思わずうっと声がもれた。
これでは占いというより、心理誘導ではないか。というか、そんなことよりも。
「間さんは占術研究部なのに、占いを否定するようなことを言うのね」
「わたしは占いのやり方じゃなくて、占いっぽく見える方法を研究してるのよ。そもそも占いなんて信じてないし」
衝撃発言だ。
なにも言われたわけではないが、これも秘密にしておいたほうがいいのだろうか。
「謙遜してるの? ここにある本って、やっぱり占いの本なんでしょ? 普段こういうのを読みあさっているのに、占いっぽく見える方法だけを研究しているなんておかしいわ」
墨子はこらえることもせず、大口を開けて笑った。
「なら、その辺の本、どれでもいいから手にとって見てみなさいよ」
法子は訝しみつつも、手近な本を一冊手にとり、開いた。
「こ、これ……」
更に二冊、三冊と確かめる。
そんな法子に、墨子が追い打ちをかける。
「そんな本で占いなんて研究できっこないでしょう? いや、うさんくさい星占いが乗ってる雑誌もどっかにあったかな」
呆れるしかなかった。
いかにもそれっぽい表紙の下は漫画やファッション雑誌などだったのだ。
これがよく当たる占い師の本当の姿か。思わず皮肉が口をつく。
「知らずに今まであなたに占ってもらった人が気の毒ね」
「そうでもないんじゃないかな。事前に一応説明はするもの。それでもやって欲しいって人にだけ占いのまねごとをしてあげるのよ」
まともに占ってもらえなかったという噂の真相もこれでわかった。せっかくだから、残るひとつの噂のことも聞いておこう。
「占いのことはわかったわ。じゃあ、あなたが使う魔法の秘密も教えてよ」
それを聞いたとたん、墨子は半眼のままだった目をさらに細めた。
「言ったでしょ。わたしは魔法なんて使えない。使えるのは魔法の『まねごと』よ」
その、芝居がかったしゃべり方のせいだろうか。墨子がとても魔法使いっぽく見えた。
3
それは占術研究部の部室を出て間もなくのことだった。
廊下を歩いてくるひとりの知人を見かけた。
――あなたはここを出たら知人に会う――
ふと、墨子の言葉が頭に浮かんだ。しかし、墨子自身が占いであることを否定していたのだ。偶然であることは間違いない。
次第に知人が近づいてくる。
かける言葉が浮かばないが、ともかく挨拶だけはしなくてはなるまい。
法子が迷いながら歩みを止めると、それとは対照的に知人はなんの躊躇もなく、清々しい笑顔で立ち止まった。
「ご無沙汰してます、天沢さん」
「こんにちは。優太くん。この間の記録会以来かしら」
優美の弟、優太だった。
優太はお姉ちゃん子で競技会などにはよく応援に来ており、中学時代から何度も顔をあわせているため気安く話せる存在ではある。先日の記録会でも、優美の荷物持ちとしてかり出されていた。
「こんなところでなにしてるんです? もう総体近いし、放課後はすぐに練習に行くのかと思ってた」
「ええ。今日はちょっとこっちに用があったから。優太くんこそ部活はいいの?」
「今日は出ないんだ。寄り道してから姉貴のところに行くから。さぼる口実ができて万々歳さ」
優美の弟の優太は今年高校に入ったばかりで、サッカー部に所属している。優美に似てかなり足がはやいからいずれはレギュラーになるに違いない。ただ、もう少し背が高くなったほうがいいだろう。サッカー選手としても、ひとりの男の子としても、だ。ただし、残念ながら今はまだ優美とほぼ同じくらいの身長しかない。
とはいえ、この年頃の男の子はどんどん成長する。もちろんそれは身長のことばかりではなく、精神面のことも含めてのことだ。
たとえば、さぼる口実云々はこちらに気を遣っているのに違いない。ふたつ年下だというのに如才ないことだ。
「そう……残念ね、優美。このところのぼり調子だったのに」
「天沢さんが気にすることじゃないよ。ウォーミングアップが足りなかったか、無理をしたのかはわからないけど、自己責任さ」
「でも、やっぱりわたしが――」
「やめてよ天沢さん。姉貴だって関係ないって言ってたじゃないか。たとえ天沢さんのフライングがなくたって走ってる途中で同じ結果になったに決まってるよ」
「うん……ありがとう。でもわたし、お見舞いにも行けなくて……」
「そんなことより、最後の高校総体なんだから頑張っていい記録出してください」
それだけ言うと、優太はぺこりと頭をさげ、早足に立ち去った。
苦笑いをする。
――まるで本当の占いね――
墨子の笑った顔が目に浮かんだ。
4
「天沢! なんだそのスタートは!」
顧問の罵声がとんできた。
今日の練習の仕上げに短距離の選手でスタートダッシュをしていたときのことだった。
無理もあるまい。何度やっても法子のスタートだけが遅れるのだ。
短距離の中でも百メートルはスタートダッシュがもっとも重要になる。むろん二百や四百でも同じなのだが、距離が短いだけにタイムへの影響がいちばん大きいのだ。まして、法子はスタートで飛び出してそのまま逃げ切るタイプなのだから、スタートの遅れは致命的であり、許されることではない。
「もういい。今日はこれまでにする。クールダウンとストレッチを充分にしておけ」
顧問はそう告げて、あきらめたようにトラックを去っていった。
指についた砂を落としつつ仲間のほうを振り返る。
「みんな、ごめん。迷惑かけて」
「気にしないで、法子。ライバルがいないから調子出ないのね。でも、大会までにはなんとかしなきゃだめよ」
そう言って仲間のひとりがタオルを渡してくれた。
優しい言葉はチョコレートバーのようなものだ
甘くて疲れを癒してくれるが、体が弱っているときには少々苦く、重たい。
「ありがとう」
更衣室に向かう仲間たちを見送りながら、法子はトラックに座り込んだ。
顧問の期待も、仲間の気遣いも、どちらも嬉しい。しかし気持ちが前に向いていかない。
あの日のことを思い出す。
自分のフライングで仕切りなおしたレース。
最高のスタートを切りながら、途中からどうしようもない違和感を覚えた。
聞こえてくるはずのものが聞こえてこなかったのだ。
それは、優美の足音だった。
法子と違って後半の加速で勝負するタイプの優美が、レース中盤には背後に迫ってくるはずなのだ。
そう。たいてい三十歩を過ぎた頃、彼女の気配を背後から感じ、四十歩から五十歩の間はほとんど並んで走ることとなる。その間、ふたりの足音は絶妙なアンサンブルを奏でるのだ。彼女が百メートルを走る歩数が、自分と同じ五十三歩であることが関係しているのかもしれない。
あくまで県内での話だが、中学の頃から法子と優美で常に優勝を分けあってくるほど力が抜きん出ていたし、決勝レースでは隣のレーンで走ることが多かったことがそれを気づかせてくれたのだと思う。
優勝することも自己記録を更新することも走る目的ではあるのだが、いつの頃からか、そのアンサンブルを楽しむことも、目的に加わっていた。
しかし、次のレースではそれを楽しむことができない。
二度目のスタートの直後、優美はアキレス腱を断裂し、倒れ込んだ。
もし自分がフライングをしなければ、スタートが一度であったなら、優美は無事だったのではないか。
そんなふうに自分を責めずにいられないのは、あのレースで県内の記録を更新してしまったのが大きいのだろうと思う。
走りたくない理由ができてしまった。
走る目的が、ひとつ足りない。
高校総体を辞退しようという思いが心に浮かぶ。
優美の走らない高校総体を走ることになんの意味があるというのだろう。
ふたりで最高のレースがしたかった。
魂がすり切れるような、ぎりぎりの勝負がしたかった。
誰にも邪魔されない、ふたりだけのアンサンブルを奏でながら。
だが無理なのだ。それは叶わぬ夢なのだ。
ならばどうすればいい?
法子は己に問う。
ふたりだからこそのアンサンブルを、ひとりで奏でる意味がどこにあるのだ。
優美と同じように自分も……。
ひっきりなしに車が行き来している学校前の道路、そして、校舎の屋上を順に見やる。
頭からすっと血の気がひいていくのがわかる。
なにを馬鹿なことを考えているのだ。
それは怪我ではなく、命を落とすための方法ではないか!
叫びたいような気持ちで、顔を上げる。
そのとき、はじめて気づいた。
人の気配など感じなかった。もちろん誰かが歩いて近づいてくれば気づかぬはずなどない。目を瞑っていたのではないのだから。
だのに。
いつの間にか、本当にいつの間にか、彼女がそこにいて、立ったままこちらを見おろしていた。まぶたを半分だけ開けてるような、気怠い表情で。
満月の逆光の中、短めの癖のある黒髪が、風でさわさわと揺れていた。
「間……さん?」
墨子は半眼の目をさらに細め、にっと笑った。
「ひどい顔してるわねえ。でもわたし、人間のそういう顔、好きなのよ」
「なんですって? あなた、いったいなにをしに来たのよ。まさか喧嘩でも売ってるつもり?」
自分でも驚くくらい、声に険がこもった。が。
「本気で悩んでる人間は、そんな顔をするものよ。この間うちの部室に来たときは、本気で悩んでなかったんじゃない?」
一瞬言葉につまるが、必死で絞り出す。
「あなたに……なにがわかるっていうの」
「わかるわよ。たとえば……あなたがさっき考えた、ろくでもないこととか、ね」
心臓をわしづかみにされたような感覚を覚えた。
「なぜ、それを……」
「使ってあげるわよ? 魔法の『まねごと』でよかったら」
墨子は、まるで本物の魔女のような風格を纏っていた。
5
早朝、誰もいない校庭は、いつも見ているそれとは違って見えた。
朝練などではやく来ることはよくあるが、その場合はほかにも何人か生徒が来ているし、顧問の教師がついていることが多い。だが、さすがに六時前ともなるとグラウンドには誰ひとり見あたらない。
ジョグとストレッチで充分にほぐれた体を、短いダッシュを繰り返していじめた。
アンツーカー舗装されたレーンを叩く足音が、ことのほか大きく響き渡る。
人のいない校庭がこんなにも心細いものだとは思ってもみなかった。
普段であれば、いくら生徒といえどもこんな時間に校庭に入れてもらえなかっただろう。
けれど、今日は高校総体の当日。教師たちがはやめに登校していろいろ準備をするらしく、本番に向けて練習したいと言ったら大目に見てもらうことができた。
墨子と待ち合わせしたのだ。
いや、正確には墨子と優美、か。
魔法の『まねごと』を使って、最上のコンディションに仕上げてきたこの日に勝負させてくれるというのだ。未だ、まともに歩くことすらできずにいるだろう優美と。
ただし、優美が走るのは一度きり。
怪我をして走れないはずの優美が公式の場で走るのはいくらなんでもまずい。それゆえ高校総体ではなく、誰もいない場所でふたりきりで走ることになったのだ。
そして、優美はこの勝負に条件をつけた。
勝ち負けにかかわらず法子は高校総体に出場し、全力を尽くす、というものだ。
むろん、本来の望みは高校総体で優美と競うことではあるのだが、魔法を使って出場することはある意味不正と言えるだろうから、やむを得ないことではある。
だからこそ、それで納得して欲しい、それが優美の意志なのだと言われてしまえば引き下がらざるを得なかった。
とはいえ、優美は本当に走れるのかと、どうしても疑念が頭をもたげる。
墨子の魔法はそれほどのものなのだろうか。いや、魔法の『まねごと』だったか。
法子はスタート地点を見やる。
そこには、ふたつのスターティングブロックが用意されていた。すでに位置と角度は法子と優美用に調整されているようだった。
「優美、本当に、来るの?」
思わず独り言つ。が。
「あなたがわたしを信じるのなら、ね」
背後から予期せぬ返事が返ってきた。
振り向くと、いつの間に現れたのか墨子が真っ黒なケープのようなもので身を包んで佇んでいた。よく見れば、ケープの隙間から見えるシャツやスカート、ストッキングも黒のようだった。露出している顔や手が、やけに白く感じる。
「で、一度だけ走れる、というのね?」
「ええ。それがわたしの限界だから」
「短時間だけ、怪我を治すってこと?」
「いいえ。わたしができるのは、一度だけあなたに優美と走らせてあげることだけよ」
言っていることが理解できない。なにが違うというのか。
けれど、こちらを見ているようでどこか遠くを見ているような視線に気圧され、指摘できない。今日の墨子はいつもと違う。あの、気怠い雰囲気を漂わせてはいないのだ。
その原因はすぐにわかった。
墨子の目はいつものように半眼ではなく、大きく見開かれている。それだけではない。その瞳は、左目だけ虹彩がなくなっていて、瞳孔だけの小さな黒い点のように見えた。カラーコンタクトでもしているのだろうか。いや、それとも前からこんな目をしていただろうか。
「……それで優美の怪我がひどくなったりとか、しないんでしょうね?」
「ええ。それは絶対にないわ」
「そう……一度だけ走れるって言っても、その前にウォーミングアップはできるのよね? わたしもその間に体が冷えないようにしないと――」
「済ませてくるそうよ……そろそろ、来るみたいね」
言いながら、墨子がゆっくりと人差し指一本だけを立てた手を顔の前に持ち上げ、ぴたりと止めた。
その爪は、黒の下地に赤の六芒星のネイルアートが施されていた。
その指をこれ見よがしに大きく振りながら、墨子はカウントダウンをはじめた。
「九、八、七、六……」
十からではなく九からはじめるのがなんとも中途半端に思えた。
カウントが進むたび、墨子の小さな黒目に吸い込まれていくような感覚に襲われる。
「二、一、零……来たわよ、あなたが心待ちにしていた人が」
墨子が、振っていた指を校門のほうに向けた。指の爪に描かれた六芒星がやけに目立った。赤の下地に、黒の六芒星だ。
ぞくり、と背筋に冷たいものを感じた。
たしか、さっきは色が逆だったような。
――魔法――
思う間もなく、視界の中にはっきりと像を結ぶ人影。
それは、怪我をしたことが嘘であったかのように、かろやかな足取りで駆けてくる優美の姿だった。
「優美!」
胸に、熱いものがこみ上げる。
「優美! 本当に走れるのね!」
呼びかける法子に、優美は無言のまましっかりと頷いて見せた。
法子は優美に歩み寄ろうとするが、それを阻むかのように、墨子が横から自分と優美を結ぶ直線上に入りこみ、視線をふさぐ。
「天沢さん、魔法の効き目には限界があるの。それに、英さんも病院を抜け出してきているだけに、あまり時間はかけられない。早速だけど、はじめてくれる?」
こちらを向きもせず、つっけんどんな口調で告げてくる墨子に強い視線を向けて抗議の意を示すが、墨子はそれに気づきもしないのかじっと遠くを見つめている。
ちらりと墨子の向こう側にいる優美の顔をのぞく。
それを見た優美が小さく微笑み、もういちど頷いた。
そうだ。
もう舞台は整っているのだ。無駄な時間を使う必要などない。墨子の言うとおり、早速はじめよう。ふたりだけの競技会を。
もちろん墨子の事情、優美の事情も考えればそうするのが当然だ。
けれどそんなことを抜きにしても、走ればいい。それですべて伝わる。優美の気持ちも、自分の気持ちも。
アスリートの会話とは、そんなものだ。
6
「タイムは計測しないわ。そして、勝負の判定も自分たちでしなさい。わたしができるのはスタートの合図をすることだけよ」
墨子が手に持ったスターターピストルを示して見せる。
爪の六芒星は黒字に金に変わっていた。
だが、もう気にならない。
「ええ。それでかまわないわ。素人の計測なんてあてにならないから」
「それもそうね。ふふ。まあ、ここでスタートの合図をしてから、ストップウォッチを押すためにあなたたちよりはやくゴール地点に移動するなんて無理な話だしね。それこそ、魔法でも使わない限りは」
いったん目を細めて墨子は笑ったが、すぐに真顔に戻り宣する。
「では、はじめましょう。ふたりのアスリートが繰り広げるマスカレードを」
マスカレードとは、仮面舞踏会のことだったか。なんの意味があるのだろうかと一瞬悩むが、まあそれはどうでもいいことだ。今は優美と走れればそれでいい。
法子はスタートラインに着き、スターティングブロックに足を置く。
まるで約束事のように、優美のほうに目をやる。
目があった。
笑みをかわして、前方に向きなおる。
本当に、このときが来たのだ。
高校の競技生活のすべてをかけて勝負すべき瞬間。
たとえ公式のレースでなくとも、自分にとってはこれが決勝レースなのだから。
墨子にはどんなに感謝しても、し過ぎるということはないだろう。
目を瞑る。深呼吸。そして。まぶたを開く。
見えた。
五十三歩の、すべてが。
反応は、ほぼ同時だった。
スターターピストルの発砲音と同時にふたりがスタートを切ったのだ。
けれど。
一歩、二歩、三歩。
法子は少しずつ優美を引き離す。
優美は後半勝負のタイプなのだから、ここで前に出ておかなければ話にならない。
十歩。二十歩。
おそらくここで優美には五十センチメートル程度の差をつけているはずだ。
そして、二十七歩目。
背後からじわじわと迫る優美の気配を感じた。
――こんなにはやく?――
かつてないスピードで追ってくる優美に、焦りを感じる。しかし、それを走りに影響させるわけにはいかない。焦って力めばフォームがくずれる。フォームがくずれればスピードにのれない。
三十五歩。
優美がほぼ並ぶ。
だが、こちらもトップスピードにのっている。簡単に抜かせはしない。
焦りを克服し、フォームとリズムを崩さなかったことが幸いした。
四十五歩。
全くの並走状態。
大地を蹴る足音、生きている証である心音、限界を知らせてくる肉体の軋み。すべてがメロディーを奏でている。
が、そのとき。
どうしようもない違和感を覚えた。
――違う! リズムが違う! このアンサンブルじゃない!――
全身の力が抜け落ちていくのを感じた。
とはいえ急に止まるのは足に負担がかかるので、ゆっくりと惰性で進む。
もっとも、頭ではそんなことは考えていなかったが。
それができたのは、競技者の習性としか言いようがない。
失速する法子の目の前で、ひとりの男の子がゴールラインを通過していく。
法子は、生まれてはじめてフルマラソンを走ったランナーのようなのろのろとしたスピードでゴールラインを越えると、呆然として立ち止まった。
それを見た男の子が焦ったような顔をして、駆けよってくる。
「天沢さん! 大丈夫? 怪我でもした?」
なにが起こったか把握できない。
「優太……君?」
そこに立っていたのは優美の弟、優太だった。
7
「催眠術?」
「ええ、そうよ」
カラーコンタクトをはずしながら墨子が答えた。ノートパソコンの隣には六芒星が描かれたつけ爪がいくつか転がっている。それが魔法の正体か。
レースのあと、占術研究部に移動して墨子に説明を求めたのだ。
墨子は自分の席に座っていた。
自分と優太は机を挟んで墨子と正対するように席に着いている。。
そしてもうひとりは。
窓際で、杖を片手にじっと外を眺めていた。
「じゃあ、グラウンドで、わたしの心を読んだのは?」
むろん、ふらふらと死のにおいに近づこうとしてしまったときのことである。
「人の心の中なんて、読めるわけないでしょ。超能力者じゃないんだし。ま、超能力も信じてないんだけどね」
「で、でも――」
「わたし、あのとき具体的なことはなにも言わなかったはずだけど? あなたにはわたしの占いもどきの方法、教えてあげたじゃない。悩んでる人間は、たいていろくでもないことを考える。それがどんな内容かは、本人しかわからないけどね」
墨子はくっくっと笑った。
最初に占術研究部を訪れたとき、墨子が言っていたことを思い出す。
――自分で判断するようにしむけてやれば勝手に納得してくれるから――
ようするに、それっぽいことを言われて、心を読まれたと勝手に思い込んでいただけということか。
「ずいぶんと手間暇かけたいたずらね。なんでそんなことを」
「オレが相談したんです」
優太が申し訳なさそうに口を挟んでくる。
「優太くんが?」
「天沢さんの調子が悪いって聞いた姉貴が、すごく心配してたから。クラスメイトに相談したら、噂の魔法使いに頼んでみたらって言われたんです」
――あなたはここを出たら知人に会う――
墨子に相談に行った日に言われた言葉を思い出す。
あの日、墨子は優太が相談に来ることを予想していたのではないだろうか。なにせ、優太に占術研究部に行けと勧めたクラスメイトがここの部員である可能性すらあるのだから。
で、あれば、法子が知人(優太)に会うのは、単に確率の問題になっていく。そして、もし会わなかったとしても、なんの問題もない。あれはたとえ話という建前だったし、自分のやっていることは占いではないと言っているのだから。
「そう……」
法子は巧妙なやり口に呆れながら、窓際に目を向けた。
視線の先には相変わらず窓の外をじっと見つめている優美がいた。法子の走りを見るために病院を抜け出してきたのだという。それにしては、久しぶりの再会だというのにさきほどからひと言も口をきいていない。
「可愛い男の子の依頼なら、請けなきゃウソでしょ? 優太くんが優美さんと同じくらいのタイムで走るっていう情報があったし、顔も背格好も似てたから催眠でごまかせるはずだったのよ。なんでばれたのかしらね。条件はそろってたし、うまくいくと思ったんだけどなー」
ノートパソコンのキーを叩きながら墨子がこぼす。
「走りが違うから、わかるわ。だって優太くんは短距離のアスリートじゃないもの」
法子が反論した瞬間、優美がはじめて口を開いた。
「じゃあ、あなたはアスリートなの?」
みなの視線が、優美に集中する。
「優美?」
「アスリートなら、なぜまともに走れなくなったの?」
「それは――」
口ごもる法子に、優美が追い打ちをかける。
「あなたのフライングとわたしの怪我はなんの関係もないわ。わたしの怪我は、わたしの油断が招いたことよ。わたしだってアスリートだもの。アスリートだから、他人のフライングに影響されたりしない! 自分の怪我を、他人のせいにしたりしない!」
優美の頬を、胸のうちに収めきれなくなった感情の結晶が、一筋二筋とこぼれ落ちる。
「悔しいわ、わたしだって。優勝したかったもの。あなたと走りたかったもの。でも、だから……あなたが優勝してよ。ほかの誰かが優勝するなんて堪えられない……」
そうだ。優美は走りたいのに走れないのだ。
だのに自分は――
走れるのに走らないのはアスリート失格ではないか。
優美のそばに行って思いきり抱きしめてやりたい、そんな衝動が身を焦がす。
だが。
走れる限り走れ。
踏み出そうとする足を、アスリートに課せられた宿命によって縒り上げられた荒縄で痛みを感じるほど強く縛りあげ、踏みとどまる。
今優美のそばに行くのは簡単なことだ。だが、ここで足を踏み出せばそれはフライングだ。自分が優美の隣に立てるとすれば、それは今日の百メートル決勝をトップでゴールしたあとに決まっている。
すでにあの日のスタートで一度、失敗しているのだ。二度目は許されない。
法子はきびすを返し、迷いなく言いはなつ。
「優勝してくる。だから、あなたははやく怪我を治して、優美」
それだけ言ってドアへと向かう。
その背中に、墨子がひと言。
「今日の陸上競技場、短距離のスタート地点あたりは追い風微風よ。記録が出そうね」
それは占いなのだろうか。それとも、激励のつもりなのか。判断はつかなかった。
その日、高校総体県大会の陸上競技、女子百メートルで、大会記録がひとつ、生まれた。
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https://twitter.com/suikyout/status/265784207429738496