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あの日、君に渡せなかった栞

作者: 浅入燈馬
掲載日:2026/09/30

 高校二年の夏。


 僕は、クラスメイトの水野葵に恋をした。


 それは、たぶん、恋と呼ぶにはあまりにも静かな始まりだった。


「ねえ、神谷くん」


 昼休み。


 僕が一人で弁当を食べていると、前の席の葵が振り返った。


「何?」


「これ、読んだことある?」


 そう言って、彼女は一冊の文庫本を差し出した。


 表紙は少し擦れていた。


「ない」


「面白いよ」


「へえ」


「読んでみる?」


「うん」


 僕は本を受け取った。


 それだけだった。


 たったそれだけ。


 なのに、その日の帰り道、僕は何度も本の表紙を見た。


 別に本が欲しかったわけじゃない。


 彼女が触ったものだから、という理由で大切に思えた自分が、少し恥ずかしかった。


 僕は、そういう年頃だった。


 ◇


 水野葵は、クラスの中心にいるような女子ではなかった。


 いつも友達に囲まれているわけでもない。


 休み時間には窓の外を眺めていることが多い。


 でも、不思議と目立った。


 笑うとき、少しだけ目を細める。


 先生の話を聞くときは、髪を耳にかける。


 好きな本の話になると、普段より少しだけ早口になる。


 そういう小さなところを、僕はいつの間にか見つけるようになっていた。


「神谷くんって、本当に本読むんだね」


 数日後、返した文庫本を見て葵が言った。


「読むよ」


「意外」


「どういう意味?」


「なんとなく。神谷くん、放課後はすぐ帰ってそうだから」


「まあ、だいたい帰るけど」


「部活は?」


「帰宅部」


「青春してないね」


「水野さんに言われたくない」


「私は読書部」


「それは青春なの?」


「失礼だなあ」


 葵が笑った。


 僕も笑った。


 それだけの会話だった。


 でも、その日の僕は、家に帰ってからもずっと嬉しかった。


 スマホを開いて、閉じる。


 メッセージを送ろうとして、やめる。


『今日、楽しかった』


 そんな一文すら送れない。


 僕は、自分でも呆れるくらい臆病だった。


 ◇


 夏休みが終わる頃には、僕たちはよく話すようになっていた。


 朝、教室で会えば挨拶をする。


 昼休みには本の話をする。


 放課後、帰る時間が重なれば駅まで一緒に歩く。


 ただ、それだけ。


 付き合っているわけではない。


 もちろん、告白したわけでもない。


 それでも僕には、それで十分だった。


 ある日の帰り道。


 駅へ向かう坂道を二人で歩いていた。


 夕立の後だった。


 アスファルトが濡れていて、街灯の光が水たまりに反射している。


「雨、止んでよかったね」


「うん」


「神谷くん、傘持ってた?」


「折りたたみ」


「さすが」


「水野さんは?」


「忘れた」


「……よくそれで生きていけるね」


「失礼」


 葵が笑う。


 その笑い声を聞きながら、僕はふと思った。


 この時間が、ずっと続けばいいのに。


 そんなことを考えてしまった。


「神谷くん」


「何?」


「卒業したら、どうする?」


「急だな」


「なんとなく」


「大学」


「どこ?」


「まだ決めてない」


「そっか」


「水野さんは?」


「私も大学かな」


「どこ行きたい?」


「東京」


「東京?」


「うん。大きな図書館がある大学に行きたい」


「本好きだな」


「好きだよ」


 彼女は笑った。


「本を読んでると、自分じゃない人生を少しだけ生きられるから」


「……いいね」


「神谷くんは?」


「僕?」


「うん」


 僕は答えられなかった。


 大学のことより。


 その先のことより。


 今、隣を歩いている彼女のことばかり考えていた。


「……まだ、わからない」


 結局、それしか言えなかった。


 葵は「そっか」と言った。


 そして少しだけ前を向いた。


 夕焼けの中で、彼女の髪が赤く光っていた。


 ◇


 秋になった。


 文化祭が近づき、クラスは少しだけ浮かれていた。


 僕たちのクラスは喫茶店をすることになった。


 葵は実行委員になった。


「神谷くんも手伝って」


「なんで?」


「暇そうだから」


「ひどい理由だな」


「でも暇でしょ?」


「……まあ」


「じゃあ決まり」


 そう言って、葵は僕に仕事を押しつけた。


 文化祭の準備期間。


 僕たちは毎日のように放課後の教室に残った。


 机を運ぶ。


 ポスターを作る。


 段ボールを切る。


 くだらないことで笑う。


 窓の外が暗くなっても、誰も帰ろうとしない。


 そんな時間が、僕は好きだった。


 ある日のことだった。


 教室に二人だけになった。


 時計は午後七時を過ぎていた。


 窓の外には、校庭の照明だけがついている。


「疲れた」


 葵が机に突っ伏した。


「お疲れ」


「神谷くんは疲れないの?」


「疲れてる」


「顔に出ないね」


「水野さんは出すぎ」


「ひどい」


 彼女が顔を上げる。


 そして僕を見る。


「ねえ」


「ん?」


「神谷くんって、好きな人いる?」


 心臓が跳ねた。


「……なんで?」


「なんとなく」


「いない」


 嘘だった。


「本当に?」


「本当」


「そっか」


 葵はそれ以上聞かなかった。


 僕も聞けなかった。


 もし、あのとき。


 もし僕が、


「いるよ」


 と言えていたら。


 何かが変わっていたのだろうか。


 今でも、ときどき考える。


 ◇


 文化祭当日。


 校内は人で溢れていた。


 笑い声。


 焼きそばの匂い。


 体育館から聞こえてくる音楽。


 廊下を走る生徒。


 僕たちの喫茶店も、それなりに繁盛した。


 葵は忙しそうに動き回っていた。


「神谷くん、これお願い!」


「はいはい」


「それ終わったら、こっち!」


「了解」


 気づけば一日が終わっていた。


 夕方。


 片づけを終えた僕たちは、校舎裏の階段に座っていた。


「終わっちゃったね」


 葵が言った。


「うん」


「なんか寂しい」


「文化祭くらいで?」


「だって高校生活って、思ってたより短いよ」


 その言葉が、胸に刺さった。


 僕は彼女を見た。


 夕日が校舎の壁を赤く染めている。


「……そうだな」


「神谷くん」


「ん?」


「私たち、来年は受験だよ」


「そうだな」


「今みたいには遊べなくなるね」


「……うん」


 僕は何も言えなかった。


 言わなければならないことがある気がした。


 けれど、言えなかった。


 僕はいつもそうだった。


 言いたいことほど、言えない。


 大切なことほど、胸の奥にしまってしまう。


 ◇


 冬。


 僕たちは三年生になった。


 受験勉強が始まり、放課後に話す時間は減った。


 葵は図書室にいることが増えた。


 僕も自分の進路について考えるようになった。


 そんなある日。


 図書室で、葵を見つけた。


 窓際の席。


 一人で参考書を開いている。


「水野」


「神谷くん?」


「ここ、いたんだ」


「うん」


 僕は向かいの席に座った。


「どう?」


「何が?」


「受験」


「まあまあ」


「東京、行くんだろ?」


「うん」


 彼女は少し笑った。


「行きたい大学、決まった」


「そっか」


「神谷くんは?」


「僕も決まった」


「どこ?」


「県外」


「……そっか」


 彼女の笑顔が、一瞬だけ消えた。


 僕はその表情を見逃さなかった。


「水野」


「ん?」


「卒業しても……」


 言葉が止まった。


「何?」


「いや」


 僕は首を振った。


「なんでもない」


 葵は少しだけ笑った。


「そっか」


 その笑顔が、いつもより寂しく見えた。


 ◇


 卒業式が近づいていた。


 僕は、あるものを作っていた。


 栞だった。


 革を細く切って、穴を開け、糸を通した。


 表には、小さな青い花を刻んだ。


 葵が好きだと言っていた花。


 裏には、短い言葉を刻んだ。


『また、どこかで』


 何度も作り直した。


 文字が曲がれば捨てた。


 花の形が気に入らなければ、最初から作り直した。


 ようやく完成したのは、卒業式の前日だった。


 僕はそれを机の引き出しに入れた。


 明日、渡そう。


 そして言う。


 ずっと好きだった、と。


 そう決めた。


 ◇


 卒業式の日。


 体育館は暖房が効きすぎていて、少し暑かった。


 校長先生の話。


 在校生の送辞。


 卒業生の答辞。


 僕はぼんやり聞いていた。


 隣の席には葵がいる。


 でも、一度も話せなかった。


 卒業証書を受け取る。


 担任が泣いていた。


 クラスメイトも泣いていた。


 僕は泣かなかった。


 たぶん。


 まだ実感がなかったからだ。


 式が終わる。


 教室に戻る。


 黒板には、みんなが書いた寄せ書き。


 机には花。


 窓の外には、少しだけ暖かくなった空。


「神谷くん」


 葵が声をかけてきた。


「ん?」


「今日、時間ある?」


「ある」


「じゃあ、学校の裏庭行こう」


「……うん」


 二人で歩いた。


 廊下。


 階段。


 昇降口。


 僕たちが何度も歩いた道。


 そして、裏庭。


 桜の木が一本だけ立っていた。


 まだ蕾だった。


「もうすぐ咲くね」


 葵が言った。


「うん」


「私たち、卒業しちゃったね」


「そうだな」


「なんか変な感じ」


 彼女が笑う。


 僕はポケットの中の栞を握った。


 今だ。


 今しかない。


「水野」


「なに?」


「これ」


 僕は栞を差し出した。


 葵が目を丸くする。


「……栞?」


「うん」


「作ったの?」


「そう」


 彼女は両手で受け取った。


 裏を見る。


 刻まれた文字を読んだ。


『また、どこかで』


「……神谷くん」


「うん」


「これ、どういう意味?」


 僕は息を吸った。


 喉が乾いていた。


 心臓がうるさい。


「また会いたいってこと」


「……うん」


「大学が別になっても」


「うん」


「卒業して、離れても」


「うん」


「僕は、水野と会いたい」


 葵は黙っていた。


 僕はもう逃げられないと思った。


「僕、水野のことが好きだった」


 過去形にしてしまった。


 今も好きなのに。


「ずっと好きだった」


 葵が栞を握る。


「……ずっと?」


「うん」


「いつから?」


「たぶん、二年の夏」


「あの本を貸したとき?」


「そう」


 葵は俯いた。


 肩が小さく震えている。


 泣いているのかと思った。


「ごめん」


 彼女が言った。


 胸が締めつけられる。


「……そっか」


「違う」


 顔を上げた。


 葵は笑っていた。


 でも、目には涙が浮かんでいた。


「私も好きだった」


「……え?」


「神谷くんのこと」


 頭が真っ白になった。


「嘘だろ」


「嘘じゃない」


「いつから?」


「二年の夏」


「……同じじゃん」


「同じだね」


 二人で笑った。


 なんだか、おかしかった。


 一年以上。


 僕たちは同じ気持ちを抱えたまま。


 お互いに言えずにいた。


「じゃあ、なんで言わなかったの?」


「神谷くんが言わなかったから」


「それは……」


「私だって怖かったよ」


 葵が栞を見る。


「もし嫌われたらどうしようって」


「嫌いになるわけない」


「今はね」


「今も、これからも」


 言ってから、恥ずかしくなった。


 葵も少し頬を赤くした。


「……じゃあ」


「うん」


「これからも会おう」


「うん」


「大学が遠くても」


「うん」


「忙しくても」


「うん」


「たまにでいいから」


「毎日でもいい」


「それは無理」


「ですよね」


 また笑った。


 風が吹いた。


 まだ咲いていない桜の枝が揺れた。


 そのとき。


 校舎の時計から、チャイムが鳴った。


 卒業式の日には似合わない、いつもと同じチャイムだった。


 僕たちは顔を見合わせた。


「最後のチャイムだね」


「そうだな」


 少しだけ寂しかった。


 でも。


 不思議と怖くなかった。


 終わるものがある。


 その代わりに、始まるものもある。


 僕はそう思った。


 ◇


 それから三年が経った。


 大学生活は忙しかった。


 葵とも、毎日会えるわけではなかった。


 電話をする日もあれば、何週間も会えないこともあった。


 喧嘩もした。


 お互いに忙しくて、すれ違った。


 一度だけ、本気で別れようと言いかけたこともある。


 でも、そのたびに僕たちは話した。


 ちゃんと話すようになった。


 高校生の頃にはできなかったことを。


 言いたいことを言う。


 寂しいなら、寂しいと言う。


 会いたいなら、会いたいと言う。


 好きなら、好きと言う。


 それは思っていたより難しいことだった。


 でも。


 言わなければ伝わらないことも、たくさんあった。


 大学を卒業した春。


 僕は久しぶりに母校を訪れた。


 校門を抜ける。


 桜が満開だった。


「遅い」


 聞き慣れた声がした。


 振り返る。


 葵が立っていた。


「ごめん」


「十分遅刻」


「三年ぶりに会うんだから許してよ」


「毎月会ってるじゃん」


「そうだった」


 二人で笑う。


 僕たちは、あの裏庭へ向かった。


 桜の木の下に立つ。


 あの日は蕾だった。


 今は満開だ。


「覚えてる?」


 葵が言った。


「何を?」


「卒業の日」


「もちろん」


 彼女は鞄から何かを取り出した。


 僕が作った栞だった。


 少し傷がついている。


 それでも大切に使ってくれていた。


「まだ持ってたんだ」


「当たり前でしょ」


「もうボロボロだよ」


「だから?」


 葵は笑った。


「大事だから」


 胸が熱くなった。


 僕はポケットから小さな箱を取り出した。


「じゃあ、これ」


「何?」


「開けて」


 葵が箱を開ける。


 中には、新しい栞が入っていた。


 今度は二つ。


 同じ形のものが、二つ。


「お揃い?」


「うん」


 葵はしばらく黙っていた。


 そして。


「ずるい」


「何が?」


「こういうの、泣くじゃん」


 彼女の目に涙が浮かんだ。


「……泣いていいよ」


「神谷くんも泣けば?」


「僕は泣かない」


「高校の卒業式も泣かなかったね」


「そうだっけ」


「そうだよ」


 桜の花びらが一枚、葵の髪に落ちた。


 僕はそれを取った。


「ねえ」


「ん?」


「あのとき、もし神谷くんが告白してくれなかったら」


「うん」


「私たち、どうなってたかな」


 僕は少し考えた。


「たぶん、後悔してた」


「私も」


「だから、あの日言ってよかった」


「うん」


 風が吹いた。


 桜の花びらが舞う。


 高校を卒業して。


 大学を卒業して。


 僕たちは少しだけ大人になった。


 でも。


 桜の木の下で笑っている葵を見ていると。


 あの日の自分に戻ったような気がした。


 好きなのに言えなかった。


 会いたいのに言えなかった。


 大切なのに、大切だと言えなかった。


 そんな僕に。


 あの日の僕がいたから、今の僕がいる。


 僕は隣にいる彼女の手を取った。


「これからも、よろしく」


「うん」


「ずっと?」


「ずっと」


 葵が笑った。


 その笑顔は、高校二年の夏から何も変わっていなかった。


 ただ。


 今度は僕も、ちゃんと笑えた。


 桜が舞っている。


 春の匂いがする。


 遠くで電車の音が聞こえる。


 あの日、渡せなかった言葉。


 あの日、渡せなかった栞。


 もし人生に、やり直せない瞬間があるのだとしたら。


 僕はたぶん、それを後悔し続ける。


 だからこそ。


 これからは、伝えようと思う。


 好きな人に。


 大切な人に。


 言葉にしなければ届かない気持ちを。


 僕は葵の手を握り直した。


「帰ろうか」


「うん」


 二人で歩き出す。


 桜の花びらが、僕たちの後ろに落ちていく。


 それはまるで。


 高校生だった僕たちに、


「もう大丈夫」


 と告げているようだった。


 僕は一度だけ振り返った。


 満開の桜。


 あの日と同じ場所。


 でも、もう寂しくない。


 僕たちは、これから先へ進んでいく。


 あの日、言えなかった言葉を胸に抱えたままではなく。


 ちゃんと伝えながら。


 好きだと。


 会いたいと。


 大切だと。


 これからも、一緒にいたいと。


 何度でも。


 何度でも。


 僕は、君に伝えていこうと思う。

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