あの日、君に渡せなかった栞
高校二年の夏。
僕は、クラスメイトの水野葵に恋をした。
それは、たぶん、恋と呼ぶにはあまりにも静かな始まりだった。
「ねえ、神谷くん」
昼休み。
僕が一人で弁当を食べていると、前の席の葵が振り返った。
「何?」
「これ、読んだことある?」
そう言って、彼女は一冊の文庫本を差し出した。
表紙は少し擦れていた。
「ない」
「面白いよ」
「へえ」
「読んでみる?」
「うん」
僕は本を受け取った。
それだけだった。
たったそれだけ。
なのに、その日の帰り道、僕は何度も本の表紙を見た。
別に本が欲しかったわけじゃない。
彼女が触ったものだから、という理由で大切に思えた自分が、少し恥ずかしかった。
僕は、そういう年頃だった。
◇
水野葵は、クラスの中心にいるような女子ではなかった。
いつも友達に囲まれているわけでもない。
休み時間には窓の外を眺めていることが多い。
でも、不思議と目立った。
笑うとき、少しだけ目を細める。
先生の話を聞くときは、髪を耳にかける。
好きな本の話になると、普段より少しだけ早口になる。
そういう小さなところを、僕はいつの間にか見つけるようになっていた。
「神谷くんって、本当に本読むんだね」
数日後、返した文庫本を見て葵が言った。
「読むよ」
「意外」
「どういう意味?」
「なんとなく。神谷くん、放課後はすぐ帰ってそうだから」
「まあ、だいたい帰るけど」
「部活は?」
「帰宅部」
「青春してないね」
「水野さんに言われたくない」
「私は読書部」
「それは青春なの?」
「失礼だなあ」
葵が笑った。
僕も笑った。
それだけの会話だった。
でも、その日の僕は、家に帰ってからもずっと嬉しかった。
スマホを開いて、閉じる。
メッセージを送ろうとして、やめる。
『今日、楽しかった』
そんな一文すら送れない。
僕は、自分でも呆れるくらい臆病だった。
◇
夏休みが終わる頃には、僕たちはよく話すようになっていた。
朝、教室で会えば挨拶をする。
昼休みには本の話をする。
放課後、帰る時間が重なれば駅まで一緒に歩く。
ただ、それだけ。
付き合っているわけではない。
もちろん、告白したわけでもない。
それでも僕には、それで十分だった。
ある日の帰り道。
駅へ向かう坂道を二人で歩いていた。
夕立の後だった。
アスファルトが濡れていて、街灯の光が水たまりに反射している。
「雨、止んでよかったね」
「うん」
「神谷くん、傘持ってた?」
「折りたたみ」
「さすが」
「水野さんは?」
「忘れた」
「……よくそれで生きていけるね」
「失礼」
葵が笑う。
その笑い声を聞きながら、僕はふと思った。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
そんなことを考えてしまった。
「神谷くん」
「何?」
「卒業したら、どうする?」
「急だな」
「なんとなく」
「大学」
「どこ?」
「まだ決めてない」
「そっか」
「水野さんは?」
「私も大学かな」
「どこ行きたい?」
「東京」
「東京?」
「うん。大きな図書館がある大学に行きたい」
「本好きだな」
「好きだよ」
彼女は笑った。
「本を読んでると、自分じゃない人生を少しだけ生きられるから」
「……いいね」
「神谷くんは?」
「僕?」
「うん」
僕は答えられなかった。
大学のことより。
その先のことより。
今、隣を歩いている彼女のことばかり考えていた。
「……まだ、わからない」
結局、それしか言えなかった。
葵は「そっか」と言った。
そして少しだけ前を向いた。
夕焼けの中で、彼女の髪が赤く光っていた。
◇
秋になった。
文化祭が近づき、クラスは少しだけ浮かれていた。
僕たちのクラスは喫茶店をすることになった。
葵は実行委員になった。
「神谷くんも手伝って」
「なんで?」
「暇そうだから」
「ひどい理由だな」
「でも暇でしょ?」
「……まあ」
「じゃあ決まり」
そう言って、葵は僕に仕事を押しつけた。
文化祭の準備期間。
僕たちは毎日のように放課後の教室に残った。
机を運ぶ。
ポスターを作る。
段ボールを切る。
くだらないことで笑う。
窓の外が暗くなっても、誰も帰ろうとしない。
そんな時間が、僕は好きだった。
ある日のことだった。
教室に二人だけになった。
時計は午後七時を過ぎていた。
窓の外には、校庭の照明だけがついている。
「疲れた」
葵が机に突っ伏した。
「お疲れ」
「神谷くんは疲れないの?」
「疲れてる」
「顔に出ないね」
「水野さんは出すぎ」
「ひどい」
彼女が顔を上げる。
そして僕を見る。
「ねえ」
「ん?」
「神谷くんって、好きな人いる?」
心臓が跳ねた。
「……なんで?」
「なんとなく」
「いない」
嘘だった。
「本当に?」
「本当」
「そっか」
葵はそれ以上聞かなかった。
僕も聞けなかった。
もし、あのとき。
もし僕が、
「いるよ」
と言えていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
今でも、ときどき考える。
◇
文化祭当日。
校内は人で溢れていた。
笑い声。
焼きそばの匂い。
体育館から聞こえてくる音楽。
廊下を走る生徒。
僕たちの喫茶店も、それなりに繁盛した。
葵は忙しそうに動き回っていた。
「神谷くん、これお願い!」
「はいはい」
「それ終わったら、こっち!」
「了解」
気づけば一日が終わっていた。
夕方。
片づけを終えた僕たちは、校舎裏の階段に座っていた。
「終わっちゃったね」
葵が言った。
「うん」
「なんか寂しい」
「文化祭くらいで?」
「だって高校生活って、思ってたより短いよ」
その言葉が、胸に刺さった。
僕は彼女を見た。
夕日が校舎の壁を赤く染めている。
「……そうだな」
「神谷くん」
「ん?」
「私たち、来年は受験だよ」
「そうだな」
「今みたいには遊べなくなるね」
「……うん」
僕は何も言えなかった。
言わなければならないことがある気がした。
けれど、言えなかった。
僕はいつもそうだった。
言いたいことほど、言えない。
大切なことほど、胸の奥にしまってしまう。
◇
冬。
僕たちは三年生になった。
受験勉強が始まり、放課後に話す時間は減った。
葵は図書室にいることが増えた。
僕も自分の進路について考えるようになった。
そんなある日。
図書室で、葵を見つけた。
窓際の席。
一人で参考書を開いている。
「水野」
「神谷くん?」
「ここ、いたんだ」
「うん」
僕は向かいの席に座った。
「どう?」
「何が?」
「受験」
「まあまあ」
「東京、行くんだろ?」
「うん」
彼女は少し笑った。
「行きたい大学、決まった」
「そっか」
「神谷くんは?」
「僕も決まった」
「どこ?」
「県外」
「……そっか」
彼女の笑顔が、一瞬だけ消えた。
僕はその表情を見逃さなかった。
「水野」
「ん?」
「卒業しても……」
言葉が止まった。
「何?」
「いや」
僕は首を振った。
「なんでもない」
葵は少しだけ笑った。
「そっか」
その笑顔が、いつもより寂しく見えた。
◇
卒業式が近づいていた。
僕は、あるものを作っていた。
栞だった。
革を細く切って、穴を開け、糸を通した。
表には、小さな青い花を刻んだ。
葵が好きだと言っていた花。
裏には、短い言葉を刻んだ。
『また、どこかで』
何度も作り直した。
文字が曲がれば捨てた。
花の形が気に入らなければ、最初から作り直した。
ようやく完成したのは、卒業式の前日だった。
僕はそれを机の引き出しに入れた。
明日、渡そう。
そして言う。
ずっと好きだった、と。
そう決めた。
◇
卒業式の日。
体育館は暖房が効きすぎていて、少し暑かった。
校長先生の話。
在校生の送辞。
卒業生の答辞。
僕はぼんやり聞いていた。
隣の席には葵がいる。
でも、一度も話せなかった。
卒業証書を受け取る。
担任が泣いていた。
クラスメイトも泣いていた。
僕は泣かなかった。
たぶん。
まだ実感がなかったからだ。
式が終わる。
教室に戻る。
黒板には、みんなが書いた寄せ書き。
机には花。
窓の外には、少しだけ暖かくなった空。
「神谷くん」
葵が声をかけてきた。
「ん?」
「今日、時間ある?」
「ある」
「じゃあ、学校の裏庭行こう」
「……うん」
二人で歩いた。
廊下。
階段。
昇降口。
僕たちが何度も歩いた道。
そして、裏庭。
桜の木が一本だけ立っていた。
まだ蕾だった。
「もうすぐ咲くね」
葵が言った。
「うん」
「私たち、卒業しちゃったね」
「そうだな」
「なんか変な感じ」
彼女が笑う。
僕はポケットの中の栞を握った。
今だ。
今しかない。
「水野」
「なに?」
「これ」
僕は栞を差し出した。
葵が目を丸くする。
「……栞?」
「うん」
「作ったの?」
「そう」
彼女は両手で受け取った。
裏を見る。
刻まれた文字を読んだ。
『また、どこかで』
「……神谷くん」
「うん」
「これ、どういう意味?」
僕は息を吸った。
喉が乾いていた。
心臓がうるさい。
「また会いたいってこと」
「……うん」
「大学が別になっても」
「うん」
「卒業して、離れても」
「うん」
「僕は、水野と会いたい」
葵は黙っていた。
僕はもう逃げられないと思った。
「僕、水野のことが好きだった」
過去形にしてしまった。
今も好きなのに。
「ずっと好きだった」
葵が栞を握る。
「……ずっと?」
「うん」
「いつから?」
「たぶん、二年の夏」
「あの本を貸したとき?」
「そう」
葵は俯いた。
肩が小さく震えている。
泣いているのかと思った。
「ごめん」
彼女が言った。
胸が締めつけられる。
「……そっか」
「違う」
顔を上げた。
葵は笑っていた。
でも、目には涙が浮かんでいた。
「私も好きだった」
「……え?」
「神谷くんのこと」
頭が真っ白になった。
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「いつから?」
「二年の夏」
「……同じじゃん」
「同じだね」
二人で笑った。
なんだか、おかしかった。
一年以上。
僕たちは同じ気持ちを抱えたまま。
お互いに言えずにいた。
「じゃあ、なんで言わなかったの?」
「神谷くんが言わなかったから」
「それは……」
「私だって怖かったよ」
葵が栞を見る。
「もし嫌われたらどうしようって」
「嫌いになるわけない」
「今はね」
「今も、これからも」
言ってから、恥ずかしくなった。
葵も少し頬を赤くした。
「……じゃあ」
「うん」
「これからも会おう」
「うん」
「大学が遠くても」
「うん」
「忙しくても」
「うん」
「たまにでいいから」
「毎日でもいい」
「それは無理」
「ですよね」
また笑った。
風が吹いた。
まだ咲いていない桜の枝が揺れた。
そのとき。
校舎の時計から、チャイムが鳴った。
卒業式の日には似合わない、いつもと同じチャイムだった。
僕たちは顔を見合わせた。
「最後のチャイムだね」
「そうだな」
少しだけ寂しかった。
でも。
不思議と怖くなかった。
終わるものがある。
その代わりに、始まるものもある。
僕はそう思った。
◇
それから三年が経った。
大学生活は忙しかった。
葵とも、毎日会えるわけではなかった。
電話をする日もあれば、何週間も会えないこともあった。
喧嘩もした。
お互いに忙しくて、すれ違った。
一度だけ、本気で別れようと言いかけたこともある。
でも、そのたびに僕たちは話した。
ちゃんと話すようになった。
高校生の頃にはできなかったことを。
言いたいことを言う。
寂しいなら、寂しいと言う。
会いたいなら、会いたいと言う。
好きなら、好きと言う。
それは思っていたより難しいことだった。
でも。
言わなければ伝わらないことも、たくさんあった。
大学を卒業した春。
僕は久しぶりに母校を訪れた。
校門を抜ける。
桜が満開だった。
「遅い」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
葵が立っていた。
「ごめん」
「十分遅刻」
「三年ぶりに会うんだから許してよ」
「毎月会ってるじゃん」
「そうだった」
二人で笑う。
僕たちは、あの裏庭へ向かった。
桜の木の下に立つ。
あの日は蕾だった。
今は満開だ。
「覚えてる?」
葵が言った。
「何を?」
「卒業の日」
「もちろん」
彼女は鞄から何かを取り出した。
僕が作った栞だった。
少し傷がついている。
それでも大切に使ってくれていた。
「まだ持ってたんだ」
「当たり前でしょ」
「もうボロボロだよ」
「だから?」
葵は笑った。
「大事だから」
胸が熱くなった。
僕はポケットから小さな箱を取り出した。
「じゃあ、これ」
「何?」
「開けて」
葵が箱を開ける。
中には、新しい栞が入っていた。
今度は二つ。
同じ形のものが、二つ。
「お揃い?」
「うん」
葵はしばらく黙っていた。
そして。
「ずるい」
「何が?」
「こういうの、泣くじゃん」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「……泣いていいよ」
「神谷くんも泣けば?」
「僕は泣かない」
「高校の卒業式も泣かなかったね」
「そうだっけ」
「そうだよ」
桜の花びらが一枚、葵の髪に落ちた。
僕はそれを取った。
「ねえ」
「ん?」
「あのとき、もし神谷くんが告白してくれなかったら」
「うん」
「私たち、どうなってたかな」
僕は少し考えた。
「たぶん、後悔してた」
「私も」
「だから、あの日言ってよかった」
「うん」
風が吹いた。
桜の花びらが舞う。
高校を卒業して。
大学を卒業して。
僕たちは少しだけ大人になった。
でも。
桜の木の下で笑っている葵を見ていると。
あの日の自分に戻ったような気がした。
好きなのに言えなかった。
会いたいのに言えなかった。
大切なのに、大切だと言えなかった。
そんな僕に。
あの日の僕がいたから、今の僕がいる。
僕は隣にいる彼女の手を取った。
「これからも、よろしく」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
葵が笑った。
その笑顔は、高校二年の夏から何も変わっていなかった。
ただ。
今度は僕も、ちゃんと笑えた。
桜が舞っている。
春の匂いがする。
遠くで電車の音が聞こえる。
あの日、渡せなかった言葉。
あの日、渡せなかった栞。
もし人生に、やり直せない瞬間があるのだとしたら。
僕はたぶん、それを後悔し続ける。
だからこそ。
これからは、伝えようと思う。
好きな人に。
大切な人に。
言葉にしなければ届かない気持ちを。
僕は葵の手を握り直した。
「帰ろうか」
「うん」
二人で歩き出す。
桜の花びらが、僕たちの後ろに落ちていく。
それはまるで。
高校生だった僕たちに、
「もう大丈夫」
と告げているようだった。
僕は一度だけ振り返った。
満開の桜。
あの日と同じ場所。
でも、もう寂しくない。
僕たちは、これから先へ進んでいく。
あの日、言えなかった言葉を胸に抱えたままではなく。
ちゃんと伝えながら。
好きだと。
会いたいと。
大切だと。
これからも、一緒にいたいと。
何度でも。
何度でも。
僕は、君に伝えていこうと思う。




