夕焼けを置いて、母は消えた
親子という関係は、不思議だ。
世界でいちばん近いはずなのに、
誰よりも分かり合えないことがある。
「愛してる」と言えないまま、
「ごめんね」ばかりが積み重なる。
この物語は、そんな不器用な親子の話です。
読んだあと、あなたが誰かに少しだけ優しくなれたなら、
きっとこの物語には意味があります。
夕方六時。
スーパーの半額シールが貼られた弁当を電子レンジへ入れながら、蒼は時計を見た。
また遅い。
母からの連絡はない。
けれど、それは珍しいことではなかった。
スーパーのレジを終えたあと、清掃の夜勤へ向かう日もある。
蒼はもう慣れていた。
「いただきます」
誰もいない部屋で手を合わせる。
返事はない。
テレビをつけても、音がうるさいだけだった。
だからすぐ消した。
静かな部屋は嫌いじゃない。
感情を持たなくて済むから。
食べ終えた頃、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー……」
母の声は掠れていた。
蒼は立ち上がり、キッチンへ向かう母の背中を見る。
「ご飯、食べる?」
「ううん、いいや。疲れちゃって」
由紀は笑った。
けれど、その笑顔は薄かった。
蒼は気づいていた。
母が最近、よく咳をしていること。
立ちくらみで壁に手をつくこと。
洗濯物を畳みながら、ぼんやりしていること。
でも、言わなかった。
言ったところで、母は「大丈夫」と笑うから。
「蒼、今日学校どうだった?」
「普通」
「そっか」
会話はいつも短い。
本当は聞きたいことがあった。
“なんでそんなに働くの”
“苦しくないの”
“私、邪魔?”
でも、聞けなかった。
聞いた瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。
由紀は冷蔵庫から水を取り出し、一口飲んだ。
その瞬間だった。
ガシャン――。
コップが床に落ちた。
「お母さん!?」
振り返ると、由紀が倒れていた。
蒼の頭が真っ白になる。
「お母さん! お母さん!!」
返事はない。
震える手でスマホを掴む。
119を押す指がうまく動かなかった。
病院の待合室は、妙に白かった。
蛍光灯の光が冷たい。
蒼は椅子に座ったまま、ずっと自分の爪を見ていた。
“もし死んだらどうしよう”
その言葉だけが、頭の中を回る。
今まで考えないようにしていた。
母がいなくなる未来を。
考えたら、本当にそうなりそうで怖かったから。
「水瀬さん」
呼ばれて顔を上げる。
医師はカルテを見ながら言った。
「過労です。栄養状態もかなり悪いですね」
蒼は何も言えなかった。
「しばらく入院になります。あなた、お母さんが無理していたこと、気づいていましたか?」
その言葉が胸に刺さる。
気づいていた。
気づいていたのに、見ないふりをした。
“私はいい子でいればいい”
そう思っていた。
迷惑をかけなければ、母は幸せになれると思っていた。
でも違った。
母は、一人で壊れていた。
病室へ入ると、由紀は眠っていた。
点滴の管。
青白い顔。
小さい。
こんなに小さい人だったんだ、と蒼は思った。
子どもの頃は大きく見えた背中が、今はひどく頼りなく見えた。
ふと、ベッド横のバッグからノートが落ちた。
拾い上げる。
開くつもりはなかった。
けれど、ページの隙間から見えた文字が目に入った。
『母親失格だと思う』
蒼の指が止まる。
気づけば、ページをめくっていた。
『蒼は優しい子だ』
『優しいから、我慢ばかりする』
『私はあの子に甘えてしまっている』
『本当はもっと笑わせてあげたい』
『でも疲れて、余裕がなくて、いつも寝顔に謝っている』
文字が滲む。
涙だった。
蒼はノートを抱えたまま、声を殺して泣いた。
“苦しかったのは私だけじゃなかった”
そう気づいた瞬間、胸が壊れそうになった。
翌日、陽菜が病院へ来た。
「お前、学校来ないから心配した」
蒼は苦笑した。
「別に平気」
「嘘つけ」
陽菜はため息をつく。
「蒼ってさ、ずっと平気なフリするよね」
図星だった。
「泣いた?」
「……泣いてない」
「また嘘」
陽菜は真っ直ぐ蒼を見た。
「ちゃんと怖がれよ」
その言葉で、蒼の目から涙が落ちた。
止まらなかった。
「怖い……」
声が震える。
「お母さん死んじゃったら、どうしたらいいか分かんない……!」
初めてだった。
誰かの前で、本音を言ったのは。
陽菜は何も言わず、ただ隣に座っていた。
それだけで救われた。
数日後、由紀は目を覚ました。
「……蒼?」
「お母さん」
由紀は少し笑った。
「ごめんね、心配かけた」
また謝る。
蒼は唇を噛んだ。
「なんで……」
「え?」
「なんで、そんなになるまで頑張るの」
由紀は黙った。
蒼は涙を堪えながら言う。
「私、お母さんに迷惑かけないように生きてきた」
「蒼……」
「でも、お母さん全然幸せそうじゃなかった」
由紀の目が揺れる。
「私、邪魔だった……?」
その瞬間、由紀は泣いた。
声を上げて泣いた。
「違う……!」
震える声だった。
「違うの……蒼がいたから、生きてこれたの……!」
由紀は泣きながら続ける。
「でも、お母さんになるの下手で……ずっと不安で……」
「ごめん、ごめんね……」
蒼は初めて母を抱きしめた。
小さかった。
ずっと強いと思っていた人は、こんなにも弱かった。
でも。
弱いまま、必死に自分を育ててくれたのだ。
窓の外は夕焼けだった。
赤く染まる空が、病室を優しく照らしている。
蒼は母の背中を撫でながら、小さく言った。
「……もう、二人で無理するのやめよう」
由紀は泣きながら頷いた。
親子なのに、分かり合えなかった。
でもきっと。
分かり合おうとすることはできる。
それだけで、人は少し救われるのだと思った。
親子は、近すぎるからこそ傷つけ合います。
「言わなくても分かる」
そう思ってしまう関係だからです。
けれど本当は、
言葉にしなければ伝わらない想いがたくさんあります。
この物語の親子は、完璧ではありません。
それでも、不器用なまま互いを愛していました。
もし今、あなたに大切な人がいるなら。
「大丈夫?」でも、
「ありがとう」でもいい。
たった一言を、届けてみてください。




