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夕焼けを置いて、母は消えた

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/03

親子という関係は、不思議だ。


世界でいちばん近いはずなのに、

誰よりも分かり合えないことがある。


「愛してる」と言えないまま、

「ごめんね」ばかりが積み重なる。


この物語は、そんな不器用な親子の話です。


読んだあと、あなたが誰かに少しだけ優しくなれたなら、

きっとこの物語には意味があります。

夕方六時。

スーパーの半額シールが貼られた弁当を電子レンジへ入れながら、蒼は時計を見た。


また遅い。


母からの連絡はない。


けれど、それは珍しいことではなかった。

スーパーのレジを終えたあと、清掃の夜勤へ向かう日もある。

蒼はもう慣れていた。


「いただきます」


誰もいない部屋で手を合わせる。

返事はない。


テレビをつけても、音がうるさいだけだった。

だからすぐ消した。


静かな部屋は嫌いじゃない。

感情を持たなくて済むから。


食べ終えた頃、玄関の鍵が回る音がした。


「ただいまー……」


母の声は掠れていた。


蒼は立ち上がり、キッチンへ向かう母の背中を見る。


「ご飯、食べる?」


「ううん、いいや。疲れちゃって」


由紀は笑った。

けれど、その笑顔は薄かった。


蒼は気づいていた。

母が最近、よく咳をしていること。

立ちくらみで壁に手をつくこと。

洗濯物を畳みながら、ぼんやりしていること。


でも、言わなかった。


言ったところで、母は「大丈夫」と笑うから。


「蒼、今日学校どうだった?」


「普通」


「そっか」


会話はいつも短い。


本当は聞きたいことがあった。


“なんでそんなに働くの”

“苦しくないの”

“私、邪魔?”


でも、聞けなかった。


聞いた瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。


由紀は冷蔵庫から水を取り出し、一口飲んだ。


その瞬間だった。


ガシャン――。


コップが床に落ちた。


「お母さん!?」


振り返ると、由紀が倒れていた。


蒼の頭が真っ白になる。


「お母さん! お母さん!!」


返事はない。


震える手でスマホを掴む。

119を押す指がうまく動かなかった。


病院の待合室は、妙に白かった。


蛍光灯の光が冷たい。


蒼は椅子に座ったまま、ずっと自分の爪を見ていた。


“もし死んだらどうしよう”


その言葉だけが、頭の中を回る。


今まで考えないようにしていた。

母がいなくなる未来を。


考えたら、本当にそうなりそうで怖かったから。


「水瀬さん」


呼ばれて顔を上げる。


医師はカルテを見ながら言った。


「過労です。栄養状態もかなり悪いですね」


蒼は何も言えなかった。


「しばらく入院になります。あなた、お母さんが無理していたこと、気づいていましたか?」


その言葉が胸に刺さる。


気づいていた。


気づいていたのに、見ないふりをした。


“私はいい子でいればいい”


そう思っていた。


迷惑をかけなければ、母は幸せになれると思っていた。


でも違った。


母は、一人で壊れていた。


病室へ入ると、由紀は眠っていた。


点滴の管。

青白い顔。


小さい。


こんなに小さい人だったんだ、と蒼は思った。


子どもの頃は大きく見えた背中が、今はひどく頼りなく見えた。


ふと、ベッド横のバッグからノートが落ちた。


拾い上げる。


開くつもりはなかった。


けれど、ページの隙間から見えた文字が目に入った。


『母親失格だと思う』


蒼の指が止まる。


気づけば、ページをめくっていた。


『蒼は優しい子だ』


『優しいから、我慢ばかりする』


『私はあの子に甘えてしまっている』


『本当はもっと笑わせてあげたい』


『でも疲れて、余裕がなくて、いつも寝顔に謝っている』


文字が滲む。


涙だった。


蒼はノートを抱えたまま、声を殺して泣いた。


“苦しかったのは私だけじゃなかった”


そう気づいた瞬間、胸が壊れそうになった。


翌日、陽菜が病院へ来た。


「お前、学校来ないから心配した」


蒼は苦笑した。


「別に平気」


「嘘つけ」


陽菜はため息をつく。


「蒼ってさ、ずっと平気なフリするよね」


図星だった。


「泣いた?」


「……泣いてない」


「また嘘」


陽菜は真っ直ぐ蒼を見た。


「ちゃんと怖がれよ」


その言葉で、蒼の目から涙が落ちた。


止まらなかった。


「怖い……」


声が震える。


「お母さん死んじゃったら、どうしたらいいか分かんない……!」


初めてだった。


誰かの前で、本音を言ったのは。


陽菜は何も言わず、ただ隣に座っていた。


それだけで救われた。


数日後、由紀は目を覚ました。


「……蒼?」


「お母さん」


由紀は少し笑った。


「ごめんね、心配かけた」


また謝る。


蒼は唇を噛んだ。


「なんで……」


「え?」


「なんで、そんなになるまで頑張るの」


由紀は黙った。


蒼は涙を堪えながら言う。


「私、お母さんに迷惑かけないように生きてきた」


「蒼……」


「でも、お母さん全然幸せそうじゃなかった」


由紀の目が揺れる。


「私、邪魔だった……?」


その瞬間、由紀は泣いた。


声を上げて泣いた。


「違う……!」


震える声だった。


「違うの……蒼がいたから、生きてこれたの……!」


由紀は泣きながら続ける。


「でも、お母さんになるの下手で……ずっと不安で……」


「ごめん、ごめんね……」


蒼は初めて母を抱きしめた。


小さかった。


ずっと強いと思っていた人は、こんなにも弱かった。


でも。


弱いまま、必死に自分を育ててくれたのだ。


窓の外は夕焼けだった。


赤く染まる空が、病室を優しく照らしている。


蒼は母の背中を撫でながら、小さく言った。


「……もう、二人で無理するのやめよう」


由紀は泣きながら頷いた。


親子なのに、分かり合えなかった。


でもきっと。


分かり合おうとすることはできる。


それだけで、人は少し救われるのだと思った。

親子は、近すぎるからこそ傷つけ合います。


「言わなくても分かる」

そう思ってしまう関係だからです。


けれど本当は、

言葉にしなければ伝わらない想いがたくさんあります。


この物語の親子は、完璧ではありません。

それでも、不器用なまま互いを愛していました。


もし今、あなたに大切な人がいるなら。


「大丈夫?」でも、

「ありがとう」でもいい。


たった一言を、届けてみてください。

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