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死後のスマホ、ロック解除します。~天才ハッカーのデジタル遺品整理人が見つけた、不器用な愛のパスワード~  作者: 伊達ジン


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第9話 海の底のドライブレコーダー

 抜けるような秋晴れの休日。

 秋葉原の地下にある事務所を抜け出した阿部と彩は、都内にあるスパイスの専門店や、プロ御用達の輸入食材店が立ち並ぶ問屋街を歩いていた。


「阿部さん、歩くのが速いです。もう少し待ってください」

「お前の歩幅が狭すぎるだけだ。遅れるなら置いていくぞ」


 阿部は振り返りもせず、両手に提げた巨大な紙袋を揺らしてスタスタと歩いていく。

 無地の黒いヘンリーネックシャツに、頑丈そうなカーゴパンツという相変わらずの無骨な装いだが、その紙袋の中身は、クミンシード、コリアンダー、ホールトマトの缶詰、そして見たこともないような珍しい岩塩など、料理用の食材でぎっしりと満たされていた。


「もう……本当に容赦ないですね」


 彩は小走りで阿部の背中を追いかけた。

 今日は事務所が休みだったが、朝早くに阿部から「荷物持ちが必要だ」という無愛想なメッセージが届き、彩は半ば強制的に買い出しに付き合わされていた。彩の手にも、ハーブティーの茶葉やコーヒー豆など、比較的軽い紙袋がいくつか握られている。


 問屋街を抜け、駅前の少し開けた通りに出たところで、阿部がふと足を止めた。


「……昼飯にしてから戻る。ついてこい」

「えっ? お昼、外で食べるんですか?」


 阿部が向かったのは、路地裏にひっそりと佇む、老舗の洋食屋だった。

 店内は落ち着いたレトロな雰囲気で、彩が案内されたテーブルには、チェック柄の清潔なクロスが掛けられている。阿部はメニューを一瞥しただけで、迷いなく特製のビーフシチューを二つ注文した。


「ここ、前から気になってたお店です。阿部さん、外食なんてするんですね。いつも事務所で手作りの完璧なご飯を食べているから、意外でした」

「……他人が作った料理の構造を分析するのも、俺の趣味の一つだ。この店のシチューは、デミグラスソースの酸味とコクの変数が絶妙に計算されている」


 阿部は運ばれてきた氷水を一口飲み、淡々と答えた。


「変数って……料理までデータみたいに言うんですね」


 彩はくすりと笑い、テーブル越しに阿部を見つめた。


「でも、休日にこうやって二人で買い物をして、お洒落なレストランでランチを食べるなんて。これって世間一般では、もしかしてデートって言うんじゃないですか?」


 彩が少しだけ悪戯っぽく首を傾げると、阿部はあからさまに嫌そうな顔をした。


「バカなことを言うな。ただの栄養補給だ。荷物持ちの労働に対する対価として、エネルギーを補填させているに過ぎん」

「はいはい、そういうことにしておきます」


 彩は嬉しそうに微笑んだ。

 素直に「いつも手伝ってくれている礼だ」とは絶対に言わない。この不器用な凄腕ハッカーなりの、遠回しな気遣いと優しさを、彩はもう十分に理解していた。


 やがて運ばれてきたビーフシチューは、阿部の言う通り絶品だった。彩が「美味しい!」と目を輝かせる向かいで、阿部は「なるほど、隠し味に赤味噌のログが残っているな」などとぶつぶつ言いながら、無心でスプーンを動かしている。

 平和で、穏やかな休日のお昼下がりだった。


★★★★★★★★★★★


 しかし、その平和な空気は、事務所に戻った瞬間に冷酷な現実によって打ち砕かれることになった。


 雑居ビルの地下へ続く階段を下りると、事務所の重厚な鉄の扉の前に二つの人影があった。一人は、すっかりこの場所に顔馴染みとなった女子大生、小川みずほ。そしてもう一人は、深く背中を丸めて立ち尽くす、スーツ姿の初老の男性だった。


「あ、師匠! 彩お姉ちゃん! お帰りなさーい!」


 みずほが大きく手を振る。


「小川……お前、なぜここにいる」

「講義が休講になったから遊びに来たんですけど、鍵が閉まってて。そしたら、このおじいさんがドアの前でずっと待ってたんですよ」


 みずほの言葉に、阿部は初老の男性へと鋭い視線を向けた。男性のスーツの生地はヨレヨレで、目の下には濃い隈が落ち、ひどく憔悴しきっている。年齢は60代半ばだろうか。


「株式会社デジタルクリーンの方ですね……?」


 男性は震える声で尋ねた。


「ああ。だが、ウチは表向きにはただのデータ復旧業者だぞ」

「はい。存じております。どんなに困難なデータでも、ここなら取り出せると……ネットの噂を頼りに、藁にもすがる思いでやって参りました。私は、高橋と申します」


 阿部は高橋を注意深く観察した後、無言で鉄の扉の鍵を開け、彼らを事務所の中へと招き入れた。

 ソファに腰を下ろした高橋に対し、阿部は買い物の紙袋を置くと、低い声で切り出した。


「話を聞く前に、確認しておくことがある。俺のルールは知っているか? 依頼は法定相続人からしか受けない。他人のプライバシーを暴くような真似は、法的な裏付けがなければただの犯罪だからな。……身分と関係を証明できるものはあるか?」

「はい。こちらに」


 高橋は鞄から戸籍謄本と運転免許証を取り出し、テーブルの上に置いた。阿部が書類に目を通し、対象者との関係が法的に問題ないと確認して無言で頷くと、高橋はようやく重い口を開いた。


「1ヶ月前、私の息子が……深夜の国道で、ひき逃げ事故に遭い、命を落としました」


 その言葉に、彩は息を呑む代わりに、足元にすり寄ってきたマウちゃんを抱き上げる手にぎゅっと力を込めた。


「犯人は逃走したんですが、数日後、現場に落ちていた車の塗膜片から、ある若い男が容疑者として浮上しました。……地元の県議会議員の、ドラ息子です」


 高橋の口調に、抑えきれない怒りと無念が滲み出る。


「ですが、警察の捜査はそこから急に及び腰になりました。目撃証言は曖昧だと言われ、周囲の防犯カメラの映像も『ちょうどメンテナンス中で録画されていなかった』などという、ふざけた理由で証拠不十分とされました。権力を使って、息子を殺した事実を揉み消そうとしているんです」


「それで、この透明な密閉袋の中身は何ですか?」


 彩が、高橋が鞄からテーブルの上に置いた袋を見つめながら尋ねた。


「息子の車に取り付けられていた、ドライブレコーダーです」


 高橋は唇を噛み締めた。


「事故の直後、息子の車からドラレコだけがもぎ取られ、消えていました。犯人が証拠隠滅のために持ち去ったんです。私は絶対に諦めきれず、探偵を雇い、容疑者の男の行動履歴を徹底的に洗いました。そして、事故の翌日に彼が友人のクルーザーで海に出ていたことを突き止めたんです」


 みずほが「うわぁ……」と小さく声を漏らした。


「それって、海に捨てたってことですか?」


「はい。私はダイバーを雇い、男のクルーザーが停泊していた海域の海底を、何日もかけて捜索させました。そして昨日、ようやくこれを見つけ出したんです。……息子の無念を晴らす、唯一の証拠です」


 彩とみずほは、テーブルの上の証拠品の袋を覗き込んだ。

 そして、その凄惨な光景に絶句した。


 それは、もはやドライブレコーダーという機械の原型を留めていなかった。

 1ヶ月近く海底に沈んでいたせいで、プラスチックの外装は腐食し、内部の金属パーツにはおびただしい緑青がこびりついている。

 それだけではない。犯人は海に捨てる前、あるいは捨てた後に、この機械を徹底的に破壊していた。レンズは粉々に砕け、内部の電子基板はハンマーか何かで何度も叩き潰されたように、無残にひしゃげて折り曲がっている。


「警察に持っていきましたが、科捜研でも『物理的に完全に破壊されており、海水による腐食も酷すぎるため、データの復旧は100パーセント不可能』と突き返されました。……でも、諦めきれないんです! どうか、どうかこの中から、息子を殺した犯人の映像を取り出してください!」


 高橋はテーブルに額を擦り付けるようにして、土下座をした。


「……顔を上げろ、高橋さん」


 阿部は袋を手に取り、無表情のまま、その無残な金属の塊を様々な角度から観察した。


「残酷な事実を言う。警察の判断は正しい。これはただのゴミだ」

「そんな……!」

「俺の専門は『ソフトウェア』のハッキングだ。強固な暗号化やパスワードという『鍵の掛かったドア』をこじ開けるのが仕事だ。だが、この状態では通電すらしない。ドアを開ける以前に、家そのものが基礎から爆撃されて粉々になっている状態だ」


 阿部は残骸をテーブルに戻した。


「海水によるショートで回路は焼き切れ、基板は割れている。ソフトウェアの力でどうにかなる次元じゃない。俺には手が出せない」


 冷徹な宣告に、高橋の肩がガクリと落ちた。その目から、絶望の涙がこぼれる。


「そうですか……やはり、権力者を裁くことなど、不可能なんですね……息子は、殺され損だと……っ!」


「阿部さん! なんとかならないんですか!?」


 彩がたまらず声を上げた。ランチの時の穏やかな空気は完全に消え去り、彼女の瞳には理不尽な悪意に対する静かな怒りが燃えていた。


「データは嘘をつかないんでしょう? この中には、息子さんを殺した人間の真実が記録されているはずです。それを、権力と物理的な破壊で隠蔽するなんて、絶対に許せません!」


 阿部は彩の悲痛な訴えを聞き流し、もう一度、袋の中の基板の破片を見つめた。

 やがて、彼は険しい目つきで残骸を睨み据え、重い口を開いた。


「勘違いするな。俺は『俺には手が出せない』と言っただけだ。……直せないとは言っていない」

「えっ?」


 阿部は立ち上がり、壁に掛かっていた黒いウインドブレーカーを羽織った。


「基板が折れ曲がり、回路が死んでいようと、記録領域である『フラッシュメモリのチップ』そのものが物理的に粉砕されていなければ、データは残っている可能性がある」


「でも、どうやって通電させるんですか?」


 みずほが首を傾げる。


「物理的な破損は、物理屋の仕事だ。……彩、小川。事務所の留守番を頼む」


 阿部は残骸の入った袋を掴み取ると、鉄の扉へ向かって歩き出した。


「阿部さん、どこへ行くんですか?」

「秋葉原のジャンク通りの裏だ。……厄介な女に頭を下げに行く」


 阿部の瞳に、凄絶な戦いに赴くような鋭い光が宿る。

 権力によって海の底へ葬られ、物理的に粉砕された真実。

 絶対に復旧不可能と宣告されたドライブレコーダーからデータを引きずり出すための、泥沼のサルベージ作業が、今まさに始まろうとしていた。

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