第8話 猟犬の手綱
秋葉原の雑居ビルの地下にある『株式会社デジタルクリーン』の事務所に、小さな宅配便の箱が届いたのは、佐々木美穂が亡き夫の隠しフォルダの真実を知った日から、ちょうど1週間後の昼下がりだった。
「阿部さん、美穂さんから荷物が届きましたよ」
彩がカッターで丁寧に段ボールのテープを切り開きながら声をかけると、奥のデスクでモニターと睨み合っていた阿部が、面倒くさそうに顔を上げた。
「俺はデータの鍵を壊しただけだ。アフターサービスも、身の上相談に乗るオプションもこの事務所には存在しない。送り返せ」
「そんな冷たいこと言わないでください。……あ、手紙と、これは焼き菓子ですね」
彩は箱の中から、可愛らしいラッピングが施された手作りのクッキーの詰め合わせと、一通の淡いブルーの封筒を取り出した。便箋を開き、彩はそこにおさめられた美穂の几帳面な文字を目で追う。
『阿部様、彩様。先日は本当にありがとうございました。あの後、和也の残してくれたレシピノートを見ながら、見よう見まねで初めてクッキーを焼いてみました。塩分控えめで、少し不恰好になってしまいましたが、彼が一生懸命私のために残してくれた味です。
彼が遺してくれたあの失敗だらけのマジックの動画は、今でも毎晩見ては泣いて、そして笑ってしまいます。私、もう大丈夫です。彼がどれだけ私のことを愛してくれていたか、あの隠しフォルダが教えてくれたから。本当に、ありがとうございました』
手紙を読み終えた彩は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
浮気を疑い、隠しフォルダの存在に怯えていた美穂はもういない。彼女は今、夫が残した不器用で深すぎる愛情を胸に抱き、しっかりと前を向いて歩き出している。
データは嘘をつかない。
阿部がよく口にするその言葉は、最初はひどく冷たく、無機質なものに聞こえた。だが、彩は今ならわかる。嘘をつかないデータだからこそ、そこに遺された故人の「真実の想い」は、残された生者の心をこんなにも強く救い上げることができるのだ。
「阿部さん」
彩は手紙をテーブルに置き、タッパーに入ったクッキーを一つ取り出して、コーヒーを淹れ直した阿部のデスクの脇にそっと置いた。
「塩分控えめの手作りクッキーだそうです。血圧を気にする阿部さんにはぴったりですね」
「……余計な世話だ」
阿部は眉間に深いシワを寄せ、忌々しそうにクッキーを睨みつけたが、やがてそれを無言でつまみ上げ、一口で放り込んだ。そして、コーヒーで一気に流し込む。
「粉の配合が甘い。焼き時間もあと30秒足りないな」
阿部はそう悪態をついたが、その表情はどこか穏やかで、キーボードを叩く手つきもいつもより少しだけリズミカルだった。彩は小さく微笑み、自分もクッキーを一つかじった。素朴で、優しい味がした。
その時だった。
「しーしょおっ!! 彩お姉ちゃん! みずほちゃんが遊びに来ましたよーっ!」
またしても、重厚な鉄の扉が遠慮なく開け放たれ、地下室の静寂が底抜けに明るい声によって破られた。
入り口に立っていたのは、パステルカラーのカーディガンにミニスカートを合わせた、相変わらずあざと可愛い女子大生、小川みずほだった。彼女の片手には、猫じゃらしとマタタビの入った袋が握られている。
「みゃあ!」
ソファで眠っていた子猫のマウちゃんが、みずほの姿を見るなり嬉しそうに駆け寄っていった。みずほは「マウちゃーん!」と歓声を上げて床にしゃがみ込み、思い切り子猫をモフり始める。
「おい、小川」
阿部の低い、地を這うような声が響いた。
「俺の事務所を猫カフェか何かと勘違いしてないか。講義はどうした」
「今日は休講なんですよー。だから、師匠のお手伝いに来てあげました! 感謝してくださいね!」
みずほはマウちゃんを抱き抱えたまま立ち上がり、ズンズンと阿部のデスクの背後まで歩み寄った。阿部は深く重い息を吐き出し、完全に無視を決め込んでモニターに向き直る。
美穂の依頼を解決して以来、みずほはすっかりこの地下室に入り浸るようになっていた。彼女にとって、阿部の神がかったハッキング技術を間近で見られるこの場所は、最高にスリリングな遊び場なのだろう。
「ねえねえ師匠、今は何の仕事してるんですか? 新しい依頼?」
みずほが背後から阿部のモニターを覗き込む。
「……ただのスパム業者の足取りを追っているだけだ」
阿部はタイピングの手を止めずに答えた。
「最近、うちのサーバーに執拗に探りを入れてくる海外ドメインの詐欺サイトがある。踏み台にされているプロキシサーバーのIPアドレスは抜いたが、末端の実行犯が国内のどこに拠点を置いているのか、物理的な座標が特定しきれていない」
「えー、物理的な場所の特定? そんなの、みずほの得意分野じゃないですか!」
みずほはマウちゃんを彩にパスすると、自分のスマートフォンを取り出した。
「素人は黙ってろ。俺がシステム的に追跡しているのは、IPの偽装ルートと、仮想通貨のトランザクションだ。ネットの海に沈んだ暗号化通信のログから物理座標を割り出すには、あと数時間はかかる」
「師匠は頭が固いですねー。システムから追えないなら、公開情報から外堀を埋めればいいんですよ。その詐欺サイト、表向きのダミー会社とか、求人情報とか出してませんか?」
「……一応、フロント企業と思われる架空のWEBコンサル会社のホームページは見つけた。だが、記載されている住所はバーチャルオフィスだ。使われている写真はどれもEXIFデータが完全に削除されたオリジナル画像だが、観葉植物や手元のアップばかりで、システム的な位置情報の手がかりは何もない。ただのイメージ画像だ」
「本当に手掛かりゼロですか? ちょっとそのホームページのURL、みずほのスマホに送ってくださいよ」
みずほの執拗なウザ絡みに、阿部は深いため息をつきながら、URLをみずほの端末に転送した。
「どれどれ……」
みずほの目の色が、一瞬で「猟犬」のそれに変わった。
彼女は迷いのない指先で画面をスクロールさせ、ダミー会社のホームページを隅々まで舐めるように確認していく。
「あー、なるほど。確かに風景や人物が特定できないように工夫されてますね。でも……この『代表挨拶』のページの一番下にある、小さな観葉植物の写真。師匠はこれ、ただのイメージ画像だと思いました?」
「観葉植物の写真がどうした。そんなもの、何の証拠にもならん」
「甘い甘い。師匠、この観葉植物の奥、窓ガラスにわずかに外の景色が反射してるのわかります?」
みずほは画像を極限まで拡大し、彩にも見えるように画面を傾けた。
「この反射してる赤いネオンサインの一部。『……ス、カラ……』。文字のフォントと色合い、それから下に見える高架線の角度。……ちょっと待ってくださいね」
みずほは画像検索ツールとSNSの検索画面を同時に立ち上げ、恐ろしい速度で情報をクロスチェックしていく。
「赤いネオンサイン、高架線が見える位置、窓の高さは3階か4階。……はい、ビンゴ!」
みずほがスマートフォンの画面を阿部の前に突き出した。
「東京都台東区、〇〇駅南口のガード下にあるパチンコ店『ヴィーナス・カラー』の巨大ネオン看板です。窓ガラスに反射していたのはその一部。そして、その看板がこの角度と高さで見える雑居ビルは、向かいにあるこの古いビルの4階しかありません。ここが、詐欺グループの物理的な拠点です」
阿部のタイピングの手が、ピタリと止まった。
彼が数時間かけてシステムから追跡しようとしていた相手の物理座標を、みずほはたった数分、一枚の観葉植物の画像に反射した光という「アナログな視覚情報」から論理的に特定してしまったのだ。
地下室に、数秒の静寂が落ちる。
阿部はモニターに表示されたIPアドレスの追跡ルートと、みずほが特定したビルの住所を頭の中で照合しているようだった。やがて、彼はゆっくりと息を吐き出した。
「……小川。お前のその悪趣味な覗き見スキル、ただのストーカーの余興かと思っていたが、どうやら少しは実用性があるようだな」
それは、プライドの高い阿部が、みずほのOSINT(公開情報調査)能力を、自分に欠けている「アナログな情報を束ねる力」として、実戦レベルで明確に認めた瞬間だった。
「えへへー! やった! 師匠に褒められた! 猟犬じゃなくて、これで正式に一番弟子ですよね!」
「調子に乗るな。たまたま運が良かっただけだ」
阿部はすぐに視線を逸らし、不機嫌を装って再びキーボードに向かい始めた。だが、その耳の裏がわずかに赤くなっているのを、彩は見逃さなかった。
「はいはい、みずほちゃん、すごいすごい。お疲れ様」
彩は微笑みながら立ち上がり、戸棚から新しくマグカップを取り出した。
「美穂さんからいただいた手作りクッキーがあるから、一緒に食べましょう。みずほちゃんは、お茶にする? それとも甘いココア?」
「わーい! クッキー! 絶対ココアがいいです!」
みずほはあっさりと阿部へのウザ絡みをやめ、ソファのテーブルへと飛んでいった。
彩は手際よく温かいココアを淹れ、クッキーのタッパーと一緒にみずほの前に置く。みずほは「美味しいー!」と歓声を上げながら、マウちゃんを膝に乗せてくつろぎ始めた。
「……彩お姉ちゃんって、なんかお母さんみたいですよね」
クッキーを頬張りながら、みずほがふと言った。
「え? 私が?」
「うん。師匠みたいな偏屈で怖くて絶対言うこと聞かない人を、うまいこと転がしてるっていうか。みずほの扱いも手慣れてるし。この事務所の裏のボスは、絶対に彩お姉ちゃんですよ」
彩は苦笑しながら、阿部のデスクに目を向けた。
阿部は相変わらずモニターを睨みつけながら、先ほどみずほが特定した住所の情報を元に、詐欺グループのルーターへ向けてハッキングの準備を進めている。その横顔は冷徹で隙がないが、彩の淹れたブラックコーヒーのマグカップは、すでに空になっていた。
「阿部さん。コーヒー、お代わり淹れますね。それと、夕食の買い出しは私が行ってきますから、今日は少し早めに作業を切り上げてください。あまり根を詰めると、また血圧が上がりますよ」
彩が声をかけると、阿部はわずかに肩をすくめた。
「……お前、完全にこいつらの猛獣使いになってるな」
「誰かさんが、人間関係に不器用すぎるからです」
彩は空になったマグカップを受け取りながら、小さく笑った。
嘘をつかないデータと向き合い続ける、不器用な凄腕ハッカー。
息をするように他人の情報を丸裸にする、自由奔放な女子大生。
そして、その二人の間で、いつの間にかすっかり手綱を握るポジションに収まってしまった自分。
「みゃあ」
マウちゃんが、彩の足元にすり寄ってきた。
秋葉原の地下にある、デジタル遺品整理室。忌まわしい死者のデータと向き合うこの暗い部屋は、いつの間にか彩にとって、誰よりも人間らしくて温かい、大切な居場所になりつつあった。




