第7話 完璧なサプライズ
秋葉原の地下に広がる『株式会社デジタルクリーン』の事務所。無数のサーバーが発する低い唸り音の中で、阿部はモニターに表示された膨大なテキストログを、恐ろしい速度でスクロールさせていた。
「師匠、抽出完了です! 和也さんの非公開アカウント『K.S』に向けて、マジックバーの店長や常連客が送った公開リプライ、過去半年分全部揃えましたよ!」
みずほが自分のスマートフォンを掲げ、得意げにピースサインを作る。
「ご苦労。……だが、うるさい。静かにしろ」
阿部はみずほを軽くあしらうと、モニターの一枚にそのテキストデータを展開し、もう一枚のモニターには和也のノートパソコンから復元したブラウザのキャッシュデータを並べた。
「和也さんの交友関係は、浮気相手じゃなくてマジック仲間だったんですよね……? じゃあ、どうしてわざわざ軍事レベルの暗号化ソフトなんて使って、隠しフォルダを作ったんでしょうか」
彩が、ソファで不安そうに座る美穂の隣から尋ねた。
「……プライドが高かったからだろうな」
阿部はモニターから視線を外さずに、淡々とログを読み上げながら答えた。
「このテキストログを見る限り、こいつは奥さんの誕生日に向けて、マジックと手料理の特訓をしていたようだが」
阿部は、テキストログの一部をハイライト表示した。
マジックバーの店長から、和也のアカウントへ向けられたリプライの数々だ。
『今週も日曜日の午後は貸し切りにしておきますね。例のコイン消失マジック、だいぶスムーズになってきましたよ!』
『奥さんの誕生日に向けて、仕上げ頑張りましょう!』
『あの手作りレシピ本とのコンボ、奥さん絶対に泣きますよ(笑)。うちの厨房、試作に自由に使ってくださいね』
その言葉の羅列を見て、美穂はハッと目を見開いた。
「私の、誕生日……」
「和也さんの不審な外出が始まったのは半年前。そして美穂さんの誕生日は、来月の頭ですよね」
みずほがスマートフォンを見ながら補足する。「和也さんは、美穂さんの誕生日に向けて、マジックの練習と手料理の特訓を兼ねて、毎週日曜日にあのマジックバーに通ってたんですよ。海外の怪しい通販サイトで大量に買っていたのも、日本では手に入りにくいプロ用のマジックギミックや、特別なスパイスなんかだったはずです」
「嘘……じゃあ、あの大量の使途不明金も、隠れるようにスマホを見ていたのも、全部……私のためのサプライズの準備だったの……?」
美穂の両目から、ふいに大粒の涙がこぼれ落ちた。浮気を疑い、理想的だった夫の裏切りに怯えていた自分自身を恥じるような、そんな痛切な涙だった。
「まだ泣くのは早いぞ、佐々木さん。隠しフォルダが開いたわけじゃない」
阿部が低い声で制した。
「VeraCryptによる暗号化の壁は健在だ。だが、これでこいつが隠したかった『目的』ははっきりした。あとは、この目的と、こいつのアナログな癖を掛け合わせて、パスフレーズをぶち抜くだけだ」
阿部は、テーブルの上に置かれた遺品の段ボールから、革張りの手帳を手に取った。
「彩。こいつが手帳の『空白の日曜日』の欄外に、いつも小さく書き込んでいたアルファベットの羅列があったな」
「はい。段ボールから出した時に見ました。ええと、『M_S_P』とか、『M_S_P_V2』とか……」
「それは暗号でも何でもない。プロジェクト名だ」
阿部は手帳をテーブルに放り投げ、キーボードに両手を乗せた。
「外資系コンサルの職業病だな。こいつは自分のサプライズ計画に名前をつけていた。『Miho Surprise Project』……その頭文字だ」
「じゃあ、それがパスワード……!」
彩が身を乗り出すが、阿部は静かに首を振った。
「いや、VeraCryptのパスワードとしては短すぎるし、単純すぎる。だが、こいつは手帳に『V2』などと更新バージョンをメモしていた。……彩、亡くなる直前の、最後の日曜日の欄には何と書かれている?」
阿部に言われ、彩は手帳の最後のページを開いた。
「ええと……『M_S_P_Final』です」
「隠しフォルダの名前は『ZZZ_Backup』。Zはアルファベットの最後を意味する。こいつの趣味であるミステリー小説やマジックの命である『最後のタネ明かし』。そして、コンサルタントが最終成果物につける名称だ。さらに、単語をアンダースコアで繋ぐのは、IT業界やコンサルがファイル名によく使う命名規則というアナログな癖だ。……変数は、これですべて揃った」
阿部の瞳の奥に、ハッカーとしての鋭い光が宿る。
彼の手が、流れるような速度でキーボードの上を舞い始めた。
無機質なタイピング音が、緊張感に包まれた地下室に響き渡る。
「愛する妻へのサプライズ。エリートのプライドが高い夫が、その準備期間を封印するために選んだ、絶対に忘れない一文。……答えはこれだ」
阿部は迷いなく、長い英語のフレーズを打ち込んでいく。
Miho_Surprise_Project_Final_0415
(美穂のサプライズプロジェクト、最終版。0415は美穂の誕生日)
エンターキーが、カチャリと冷たい音を立てて押し込まれた。
解析ツールがパスフレーズを読み込み、巨大な暗号鍵との照合を開始する。数秒の、永遠にも似た沈黙。
直後。
ピロリ、と事務所のスピーカーから、仮想ドライブがマウントされたことを知らせる軽快な電子音が鳴り響いた。
デスクトップの隅で頑なに閉ざされていた『ZZZ_Backup』のアイコンが解錠され、中身のフォルダ群がモニター上に展開された。
「……解除完了だ」
阿部はキーボードから手を離し、小さく息を吐いた。
「ほら、佐々木さん。あんたの旦那の『秘密』だ。何が隠されているのかは、自分で開けてみろ」
阿部に促され、美穂は震える足でモニターの前に立った。
彩とみずほも、言葉を失ってその画面を見つめる。
美穂がマウスを握り、震える手で『Miho_Surprise_Project』と名付けられたメインフォルダをダブルクリックした。
中には、数十個の動画ファイルと、一つのPDFファイルが入っていた。
一番日付の新しい動画ファイルを開く。
画面に映し出されたのは、マジックバーの薄暗い照明の下、ネイビーのカーディガンを着てカメラの前に立つ、和也の姿だった。
『えー……美穂。これを見てるってことは、俺のサプライズは成功したのかな。それとも、大失敗して笑われてる頃かもしれないな』
スピーカーから流れてきた夫の生の声に、美穂の肩がビクッと跳ねた。
動画の中の和也は、どこか照れくさそうに頭を掻いている。外で纏っているような隙のないオーラはなく、どこにでもいる、妻を愛する不器用な青年の顔だった。
『結婚して3年。仕事ばっかりで寂しい思いをさせてごめん。今年の誕生日は、何か特別なことをしたくてさ。学生時代にちょっとだけやってたマジック、一から猛特訓してみたんだ』
和也が両手を広げ、手のひらに一枚の銀貨を乗せる。
『いくよ。このコインが……スリー、ツー、ワン!』
彼が手を握り、パッと開く。
しかし、消えるはずのコインは、手の中で滑り、チャリンという情けない音を立てて床に転がり落ちた。
『あーっ! くそっ、また落とした! 店長、今のカットで! カットでお願いします!』
画面の外からマジックバーの店長の笑い声が聞こえ、和也も耳まで真っ赤にして崩れ落ちる。それは、誰もが羨むエリートコンサルタントである佐々木和也の、「泥臭くて無様な、失敗の連続」の記録だった。
フォルダの中には、そんな失敗動画が何十本も保存されていた。
コインを落とす動画。カードの手品で種が丸見えになってしまう動画。そして、エプロン姿でフライパンを焦がし、頭を抱えている動画。
どれもこれも、彼が美穂の笑顔を見るためだけに、仕事の合間を縫って、休日の時間をすべて注ぎ込んで積み重ねてきた、途方もない努力の痕跡だった。
「……そっか。和也くん、失敗ばっかりしてる姿、私に見られたくなかったんだ」
画面を見つめながら、美穂の口からポツリと本音が漏れた。
「いつもかっこいい、理想の夫でいたかったんだね……あなたって人は、ほんとに……バカなんだから……」
美穂は両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。
浮気を疑い、隠しフォルダに怯えていた自分が情けなかった。同時に、これほどまでに自分を愛し、不器用なまでに最高のサプライズを用意してくれようとしていた夫の深い愛情が、胸を締め付けて離さなかった。
彩は無言で歩み寄り、美穂の背中を優しくさすりながら、そっとティッシュの箱を差し出した。彩の目にも、光るものが浮かんでいる。
「もー、最高に愛されてるじゃないですか、美穂さん。こんな旦那さん、ズルすぎますよ」
みずほも、少し鼻を啜りながら明るい声で言った。
「あ、美穂さん。このPDFファイルも見てください」
彩がマウスを操作し、唯一のドキュメントファイルを開く。
タイトルは『美穂のための特製レシピノート』。
開くと、そこには美しいレイアウトで、数々の料理のレシピが写真付きで綴られていた。美穂がかつて「美味しい」と言ったレストランの味を再現するための試行錯誤の記録だ。
『美穂は少し薄味が好きだから、塩はレシピより少なめに』
『このスパイスは彼女の体質に合わないから絶対に抜くこと』
几帳面な文字で添えられたメモの一つ一つに、妻への愛が溢れ返っていた。
「……阿部さん。本当に、ありがとうございました」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、美穂は深く頭を下げた。
「私、彼が遺してくれたこの不器用な愛情と一緒に、前を向いて生きていきます。……この隠しフォルダのパスワード、一生忘れません」
「感謝には及ばん」
阿部はモニターの電源を落とし、冷たく突き放すように言った。
「俺はデータの鍵を壊しただけだ。パスワードを解除したパソコンはそのまま持ち帰れ。慰謝料を請求する相手がいなくて残念だったな」
その口調は相変わらず無愛想で冷徹だったが、彩は知っていた。阿部が美穂にノートパソコンを渡す時の手つきが、いつもよりずっと丁寧で、壊れ物を扱うように優しかったことを。
「師匠ってば、またそうやって悪ぶるー! 素直に『よかったですね』って言えばいいのに!」
「うるさいぞ、小川。仕事が終わったならさっさと大学に戻れ」
みずほのからかいを鬱陶しそうに払いのけながら、阿部は自分のマグカップにコーヒーを注ぎ直した。
ソファの上では、マウちゃんが目を覚まして「みゃあ」と欠伸をしている。
完璧な夫が命を懸けて守ろうとした、不器用で愛おしい真実。
それを解き明かしたデジタル遺品整理室の地下室には、いつもの騒がしくも温かい日常が戻ってきていた。




