第6話 猟犬の女子大生
翌日の午後。
秋葉原の地下にある『株式会社デジタルクリーン』の事務所に、再び佐々木美穂が訪れた。彼女の両手には、阿部が指示した通り、亡き夫・和也の私物が詰められた少し大きめの段ボール箱が抱えられていた。
「阿部さん、彩さん。言われた通り、夫の本棚にあった本や、手帳、レシートの束、それからよく着ていた服や小物を詰めてきました」
「ご苦労様です。重かったでしょう」
彩が段ボールを受け取り、テーブルの上に置く。
阿部は無言で立ち上がり、段ボールの中から次々と遺品を取り出しては、無造作に、しかし鋭い観察眼で仕分けを始めた。
ミステリー小説の文庫本、英語のビジネス書。
几帳面な字でスケジュールが書き込まれた革張りの手帳。
財布の中に残っていた、コーヒーショップのレシート。
休日によく身につけていたという、少し使い込まれた腕時計。
「手帳のスケジュールには、やっぱり日曜日の午後は何も書かれていません。ただの『空白』になっています」
美穂が不安げな声で言った。
「でも、阿部さんが昨日調べてくださったパソコンの同期記録では、毎週日曜日に新宿の雑居ビルに行っていたんですよね。……やっぱり、手帳に書けないような相手と会っていたんでしょうか」
「まだ何とも言えん」
阿部は手帳のページをパラパラとめくりながら、眉間に深いシワを寄せた。
「この男は、デジタル上でもアナログな記録でも、自分の『目的』に関わる決定的な情報を綺麗に隠蔽している。クレジットカードの明細にあった海外の怪しげな通販サイトの履歴も、検索ブラウザのキャッシュも、具体的な『モノ』や『人』には結びつかない」
阿部は革張りの手帳をテーブルに放り投げた。
「俺の得意なシステムへのクラッキングは、言わば『鍵のかかった金庫をこじ開ける』作業だ。だが、今の状況は違う。金庫の場所はわかっているが、その金庫を作った人間が『どこで、誰と、何のためにその金庫の素材を仕入れたのか』という足跡が、ネットワーク上に存在しない。こいつは巧妙にSNSを避け、ネット上に自分の顔や本音を一切残していない」
阿部は苛立たしげに自身のデスクへ戻り、無機質な光を放つモニターを睨みつけた。
「システムは嘘をつかないが、人間は意図的にシステムから姿を消すことができる。新宿の雑居ビルという座標はわかっても、そこに何百とあるテナントの中で、こいつが誰と接触していたのか……『裏の交友関係』が特定できない限り、パスワードの変数は絞りきれない」
地下室に、阿部の重い息が吐き出された。
生粋のハッカーである阿部にとって、システム上に存在しない「アナログな人間の繋がり」を物理的に追跡するのは、最も不得手とする領域だった。
その時だ。
「しーしょおっ!! 呼ばれて飛び出てみずほちゃん、ただいま参上しましたーっ!」
バァン! と、重厚な鉄の扉が勢いよく開け放たれた。
静かな地下室の空気を切り裂くような、底抜けに明るく、そしてひどく場違いな高い声。
入り口に立っていたのは、オーバーサイズのゆるい白いニットにデニムのショートパンツを合わせ、最新型のスマートフォンを片手に持った小柄な女性だった。
色素の薄い肌に、愛嬌のある丸い瞳。どう見ても今どきの「あざと可愛い」女子大生である。
「うわっ、びっくりした……」
突然の闖入者に、彩は目を丸くした。ソファで丸くなっていた子猫のマウちゃんも、驚いて「みゃっ」と身をすくめる。
「遅いぞ、小川。俺がメッセージを入れてから30分は経っている」
阿部は振り返りもせず、モニターを睨んだまま不機嫌に言い放った。
「遊び気分で来たなら帰れ」
「えへへー、ごめんなさい! だって師匠から直接呼び出しのメッセージが来るなんて、半年ぶりくらいじゃないですか? みずほ、講義サボって大急ぎで飛んできちゃいましたよ!」
女子大生――小川みずほは、阿部の冷たいプレッシャーを全く意に介さず、スキップを踏むような足取りで事務所の中へ入ってきた。
そして、彩の姿と、テーブルの上の段ボール、それに美穂の姿を交互に見る。
「あれ? 師匠、また新しいお客さんですか? それと……そちらの綺麗な女の人は?」
みずほは彩の前に立ち、首をこてんと傾けた。
「あ、私は……最近ここでお手伝いをしている、石川彩と言います」
「お手伝い? 助手さんですか! わー、師匠のところに人が定着するなんて奇跡ですね! みずほは小川みずほ、現役ピチピチの女子大生で、師匠の『一番弟子』です! 彩お姉ちゃんって呼んでもいいですか?」
「あ、ええと……はい。一番弟子、なんですね?」
彩が困惑しながら阿部を見ると、阿部は再び深いため息をついた。
「俺は弟子など取った覚えはない。勝手に名乗っているだけの、ただの近所のガキだ」
「ひどい! 師匠の依頼を、いつもノーギャラで手伝ってあげてるのに!」
みずほは頬を膨らませて抗議したが、すぐにソファの上のマウちゃんに気づき、「きゃー! 猫ちゃん! 可愛いー!」と撫で回し始めた。その自由奔放な振る舞いに、美穂も唖然としている。
「おい、小川。仕事だ」
阿部が低い声で凄んだ。
「お前の得意な『猟犬』の鼻が必要になった」
「猟犬だなんて、女の子に向かって失礼ですね! OSINTのスペシャリストって呼んでくださいよ」
みずほはマウちゃんを撫でる手を止め、ニヤリと小悪魔のような笑みを浮かべた。
「で? 今回のターゲットは?」
阿部はモニターの一つに、佐々木和也の顔写真と、PCに残された同期データが示す「新宿の雑居ビル周辺」の地図を表示した。
「佐々木和也、32歳。1ヶ月前に死亡。この男が亡くなる半年前から、毎週日曜日の午後に新宿のこのエリアに通っていた形跡がある。だが、こいつ自身のSNSアカウントは、会社の付き合いで作った本名のアカウント以外、全く更新されていない。裏アカウントの存在もすぐには確認できない。検索履歴にも女の影はない。……こいつが新宿で『誰と』会っていたのか、ネットの海から拾い上げろ」
「ふーん……なるほどなるほど」
みずほはスマートフォンを素早く操作しながら、テーブルの上に置かれた和也の遺品を鋭い目つきで観察し始めた。
さっきまでのキャピキャピとした女子大生の雰囲気から一変、獲物を狙う狩人のような集中力が彼女の全身から立ち上る。
「師匠、この人、デジタル上には自分の痕跡を残さない用心深いタイプみたいですけど……アナログな『癖』は結構わかりやすいですね」
「どういうことだ?」
みずほは遺品の段ボールから、一枚のレシートと、美穂が持参した和也の腕時計、そして一冊の文庫本を取り出した。
「このレシート、新宿のビルの近くにあるマニアックなスペシャルティコーヒーの専門店ですよ。それに、この腕時計。少しマイナーな海外ブランドのアンティークですね。文庫本にかけてあるブックカバーも、特定のオーダーメイド革製品のブランドのものです。和也さん、結構な『こだわり派』で、自分の好きなものにはお金をかけるタイプですよね?」
「はい……コーヒーの豆や、革小物、アンティーク時計にはこだわっていました」
美穂が頷く。
「よし、じゃあ方針決定! ターゲット本人のアカウントを闇雲に探すんじゃなくて、『場所』と『趣味』、それから『特徴的な所持品』を掛け合わせて外堀を埋めます!」
みずほは阿部の隣の空いている椅子に座り、自分のスマートフォンと、阿部のサブモニターをケーブルで繋いだ。
「師匠が調べたGPSのログ、日曜日の午後13時から16時。場所は新宿三丁目のこの雑居ビルの半径50メートル以内。これに、美穂さんがヒアリングで答えていた和也さんの趣味『マジック』というキーワードを掛け合わせます。……この条件で、InstagramやTwitter、TikTokの過去半年分の日曜日の位置情報付き投稿を、全部スクレイピングして解析にかけます」
みずほの細い指が、スマートフォンの画面を凄まじい速度でタップしていく。
モニターには、新宿三丁目周辺で日曜日に投稿された、無数のSNS画像やテキストが、次々と表示されては消えていく。
「彩お姉ちゃん、今から画像を絞り込みますから、画面よく見ててくださいね」
「えっ、はい」
「画像認識アルゴリズムのフィルターに、『トランプ』や『コイン』などのマジックアイテム、それに加えてさっきの『アンティーク時計』と『特徴的な革のブックカバー』を追加して……絞り込み!」
みずほがエンターキーを叩くと、数万枚あった画像が、一瞬にして数十枚にまで絞り込まれた。
「えっ……嘘……」
彩は思わず言葉を失った。IT知識のない彩でも、今みずほが行っていることの異常さは理解できた。無関係な一般人が無意識にネットに放流した膨大な画像の中から、ターゲットの「所有物」が写り込んでいるものを論理的に探し出しているのだ。
「あー、惜しい。これは時計の型番が違う。これもカバーの色が違う……」
みずほはモニターを食い入るように見つめながら、次々と画像を弾いていく。
そして。
「……ビンゴォ!」
みずほが声を上げ、一枚の写真を大画面に映し出した。
それは、どこかの薄暗いバーのカウンターで、数人の男女がグラスを片手に笑い合っている写真だった。店舗の公式アカウントが「日曜昼下がりのマジック練習会!」というテキストと共に投稿したものだ。
みずほが注目したのは、写真の端で、顔を伏せるようにしてトランプをシャッフルしている男性の手元だった。その腕には、遺品と全く同じアンティーク時計が光り、カウンターの隅にはあの特徴的な革のブックカバーが置かれている。
「美穂さん、これ、和也さんの時計とブックカバーに間違いないですか? それに着ているこのカーディガンも」
みずほが尋ねると、美穂はハッとして画面に顔を近づけた。
「……はい。この時計の傷の入り方、間違いありません。間違いなく、夫です」
「よっしゃ! じゃあ、この写真が投稿されたアカウントと場所を特定します」
みずほは写真の投稿元から、新宿三丁目にある特定の店舗を瞬時に割り出した。
「新宿三丁目、〇〇ビルの4階。……『マジックバー・イリュージョン』。ここだ」
「マジックバー……?」
彩が美穂の顔を見る。美穂は「学生時代に少しだけマジックをかじっていた」と言っていた。
「さらに行きますよー。このマジックバーの店長アカウントと、常連客のSNSネットワークを解析します」
みずほはさらに指を走らせ、マジックバーの店長のTwitterアカウントを特定。その公開されているやり取りの履歴をさかのぼり、頻繁に会話をしている相手をいくつか抽出した。
「和也さんの本名アカウントは更新が止まってましたけど、このマジックバーの店長と頻繁にやり取りしている、この『K.S』っていう鍵垢。アイコンはデフォルトのままですが、アカウント作成時期が半年ちょっと前。和也さんの様子がおかしくなった時期と一致します」
みずほはドヤ顔で阿部を振り返った。
「師匠、この鍵垢の持ち主、十中八九、和也さんですよ。休日は女の人と会ってたんじゃなくて、ここで店長さんやマジック仲間と会ってたんです」
阿部はわずかに口角を上げ、満足げな表情を見せた。
「上出来だ。パスワードをかけるほど強固な秘密の交友関係が、女絡みの浮気ではなく、『マジックバーの仲間』だということがわかった」
阿部は自分のデスクのキーボードに両手を乗せた。
「小川。お前はその非公開アカウントの持ち主『K.S』宛てに送られた、店長や他の常連客からの『公開されているリプライ』のログを全部洗え。俺は、こいつのパソコンのブラウザキャッシュに残っていた断片データと、その会話の文脈を照合する。軍事レベルの暗号を解くための『変数』が、その会話の中に隠されているはずだ」
「了解です、師匠!」
みずほの神業的なOSINT(公開情報調査)によって、完璧な夫が隠していた秘密の輪郭が、一気に鮮明になり始めていた。
女の影はない。浮気でもない。
ではなぜ、和也は軍事レベルの暗号化ソフトを使ってまで、何かを隠し、毎週日曜日にマジックバーへ通い、そして謎の海外サイトで大量の買い物をしていたのか。
すべての謎を解くための「変数」が、いま、阿部の手元に集まりつつあった。




