第5話 完璧な夫の隠しフォルダ
秋葉原の雑居ビルの地下にある『株式会社デジタルクリーン』の事務所は、朝から甘いミルクの匂いに包まれていた。
彩は、ソファの上に広げた専用のフリース毛布の上で、小さな哺乳瓶を傾けていた。その先には、一心不乱にミルクを飲むスコティッシュフォールドの子猫がいる。
「よしよし、いっぱい飲んで偉いね……」
彩が目を細めて呟くと、子猫は満足げに「みゃあ」と鳴き、丸くなって眠り始めた。
数日前、阿部が「ネズミ捕り」という苦しい言い訳でブリーダーから譲り受けてきたこの子猫は、結局、彩の提案により『マウ』と名付けられた。阿部は「ふざけた名前だ」と文句を言ったが、代案を出さなかったためそのまま定着している。
彩がマウちゃんの背中を優しく撫でていると、奥のデスクから阿部の低く不機嫌な声が響いた。
「おい。いつまで遊んでるつもりだ。経理ソフトへの入力は終わったのか」
「遊んでいません。マウちゃんの健康管理は助手の重要な業務です」
彩は立ち上がり、エプロンの埃を払った。
「それに、阿部さんの机の上のブラックコーヒー、これで本日3杯目ですよね? カフェインの過剰摂取です。後でノンカフェインのハーブティーを淹れますからね」
「余計な世話だ」
阿部は舌打ちをし、6枚のモニターに向かって再びキーボードを叩き始めた。
彩が強引に助手として居座るようになってから、数日が経過していた。
最初は彩を鬱陶しがっていた阿部だったが、彼女が事務所を徹底的に掃除し、煩雑だった書類仕事や経理を完璧にこなし、何より依頼人への「人当たりの良い接客」を引き受けてくれるため、今では半ば黙認するようになっていた。
カラン、と入り口のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
彩が明るい声で出迎えると、そこには上品なネイビーのワンピースを着た、彩と同年代か少し上くらいの女性が立っていた。
彼女は不安げに薄暗い地下室を見回し、奥に座る阿部の巨躯とモニターの群れを見て少し身をすくませた。
「あの……こちらで、パソコンのパスワード解除をお願いできると伺って……」
「はい、承っております。どうぞ、こちらへ」
彩は女性をソファへ案内し、温かいお茶を出した。
女性は佐々木美穂、28歳。
彼女はハンドバッグから、シルバーのスタイリッシュなノートパソコンを取り出してテーブルに置いた。そして、阿部の要求に従い、自分と故人との関係を証明する戸籍謄本と、自身の運転免許証をテーブルの上に提示した。
「1ヶ月前、夫が突然亡くなりました。急性心不全でした……」
阿部が書類を確認し、法定相続人としての要件を満たしていると無言で頷くと、美穂は震える手でお茶のカップを握りしめながら語り始めた。
「夫の和也は32歳で、外資系のコンサルティング会社に勤めていました。仕事熱心で、優しくて、私にはもったいないくらい、本当に完璧な夫でした。……でも、遺品整理をしていて、この私用のパソコンを開いた時に、見つけてしまったんです」
「見つけてしまった、とは?」
彩が優しく尋ねる。
「パソコンのログインパスワード自体は、私たちの結婚記念日だったので、すぐに開きました。でも……デスクトップの隅に『ZZZ_Backup』という名前のフォルダがあって。それだけが、専用のソフトで暗号化されていて、絶対に開かないんです。思いつく限りのパスワードを試しましたが、全部ダメでした」
奥のデスクから、阿部が丸椅子を回転させてこちらを向いた。
「つまり、その『隠しフォルダ』を開けてほしいと」
「はい……」
「やめておいた方がいい」
阿部は立ち上がり、コーヒーカップを片手にソファへと歩み寄った。
「ご主人には、どうしても奥さんに見られたくないデータがあった。だからこそ、二重に鍵をかけたんだ。見ちゃいけない深淵だぞ。開けたら最後、生前の綺麗な思い出が台無しになるかもしれない。そのままパソコンごと物理破壊して捨てるのが、一番賢い遺品整理だ」
冷徹な阿部の言葉に、美穂は唇を噛み締めた。
彩は、少し前の自分自身を見ているような気がした。兄の醜い真実を知るのが怖くて、それでも知らずにはいられなかったあの日の自分を。
「それでも、開けたいんですか?」
彩の問いかけに、美穂は涙を浮かべながら強く頷いた。
「亡くなる半年前から、夫の様子がおかしかったんです」
美穂はハンドバッグから、クレジットカードの利用明細書のコピーを取り出した。
「週末になると『急な仕事が入った』と言って一人で出かけることが増えました。それに、このクレジットカードの明細。毎月、数万円単位の使途不明金があるんです。何を買ったのか、どこで使ったのか、お店の名前も決済代行会社になっていてわかりません。……それに、最近は私の前でスマホの画面を見せないように、コソコソしていました」
美穂の言葉に、彩はハッとした。
「それって、もしかして……」
「はい。夫は、浮気をしていたんだと思います」
美穂は震える声で告げた。
「あの隠しフォルダの中には、きっと浮気相手との写真や、やり取りの記録が入っている。……見たくない気持ちはあります。でも、完璧だと思っていた夫に裏切られていたかもしれないという疑念を抱えたまま、この先の人生を生きていくのは、あまりにも辛いんです。中身をはっきりさせて、もし本当に浮気なら、相手を特定して慰謝料を請求したい。そうじゃないと、私、前に進めません」
彼女の悲痛な訴えに、地下室に重い沈黙が落ちた。
阿部は手元の明細書を無表情で見つめ、それからノートパソコンを片手で掴み上げた。
「……依頼は引き受けよう」
阿部はモニター群の並ぶ自分のデスクへ戻りながら言った。
「だが、俺のルールは前に言ったな。中身を見て泣き喚こうが、俺は一切関知しない。慰謝料の請求も自分の弁護士を雇って勝手にやれ。俺はただ、データの鍵をぶち壊すだけだ。……彩、一応ティッシュの箱を用意しておけ」
「はい」
阿部なりの不器用な気遣いに、彩は小さく頷き、美穂の肩にそっと手を置いた。
阿部はノートパソコンを開き、電源を入れた。
専用の解析機器のケーブルを繋ぎ、システム内部の構造を読み取っていく。
「OSは最新。ログインは突破済みか。……問題のフォルダは、これだな」
阿部の手が、流れるような速度でキーボードを叩き始めた。無機質なコンソール画面に、緑色のコードがすさまじい速度で流れていき、解析ツールが仮想ドライブの暗号化方式を特定していく。
「厄介だな」
数分後、阿部は舌打ちをした。
「フォルダのロックに使われているのは、VeraCryptという軍事レベルの強固な暗号化ソフトだ。パスワードをブルートフォースで解読しようとすれば、スーパーコンピュータを使っても宇宙の寿命が尽きるほど時間がかかる」
「そんな……。じゃあ、開けられないんですか?」
彩が不安げに尋ねると、阿部は鼻で笑った。
「俺を誰だと思ってる。暗号の壁がどれほど高くても、結局鍵をかけたのは『人間』だ。必ず心理的な隙がある」
阿部は手を止めずに、画面越しの記録と向き合いながら言った。
「……佐々木さん、ご主人について知っていることをすべて話せ」
阿部の指示を受け、彩はノートとペンを取り出し、美穂に丁寧なヒアリングを開始した。
「ご主人のご趣味は? 好きな数字や、特別な思い入れのある場所はありますか?」
「趣味は……読書と、コーヒーを淹れることくらいでした。仕事が忙しくて、アウトドアなことはほとんどしていません。休日は家で静かに過ごすのが好きな人でした」
「読書というと、どんなジャンルですか?」
「ミステリー小説や、歴史の本が多かったです。あとは……あ、学生時代に少しだけマジックをかじっていたと言っていました。でも、結婚してからは一度も見たことがありません」
「マジック……」
彩はペンを走らせながら、美穂の言葉を記録していく。
その間、阿部はノートパソコンのロックされていない領域のデータから、佐々木和也という男のデジタルな痕跡を徹底的に洗い出していた。
ブラウザのキャッシュ、削除されたファイルの断片。そして、このノートパソコンでログインされていたGoogleアカウントから、クラウド上に同期されている様々なアクティビティ履歴を紐解いていく。
「おい、彩」
阿部が呼びかけた。
「奥さんが言っていた『週末の外出』のログが見つかった。このパソコンに同期されているスマートフォンのロケーション履歴だ。亡くなる直前までの半年間、毎週日曜日の午後、こいつのスマートフォンが、新宿にある雑居ビル周辺に数時間ほど滞在している記録が残っている」
「やっぱり……浮気相手のマンションか、ホテルでしょうか」
「そう考えるのが普通だが……」
阿部は怪訝な顔で、もう一つのモニターに視線を移した。
「検索履歴と、削除されたブラウザのキャッシュを復元した結果だが……嘘をつけない記録に、妙な空白があるな」
「空白、ですか?」
「浮気をしている男なら、レストランやホテルの予約、プレゼントの検索、あるいは相手のSNSをチェックした痕跡が残るはずだ。だが、こいつの検索履歴には、そういう女の影を感じさせるものが一切ない」
「じゃあ、何を検索していたんですか?」
阿部はキーボードから手を離し、腕を組んだ。
「『動画編集ソフト 使い方』『サプライズ 演出』……それと、謎のネット通販サイトでの大量の購入履歴だ。決済代行会社を使っていたのは、この海外の怪しげなサイトで買い物をしていたからだ」
「海外の通販サイト……? 何を買っていたんですか?」
「商品の詳細は暗号化通信で保護されていて、ブラウザのキャッシュからはわからない。だが、購入している頻度と金額が異常だ」
阿部は深く息を吐き出した。
「軍事レベルの暗号化フォルダ。毎週日曜日の謎の外出。大量の使途不明金。そして、女の影がない検索履歴……。この『完璧な夫』は、一体何を隠していたんだ?」
阿部の瞳に、ハッカーとしての冷たい探究心が灯る。
「この情報だけじゃ、パスワードをプロファイリングするにはピースが足りない」
阿部は丸椅子を回転させ、美穂の顔を真っ直ぐに見据えた。
「奥さん。こいつの私物……本棚の本、レシート、手帳、なんでもいいからアナログな遺品を段ボールに詰めてここへ持ってこい。ヒントになる『変数』がもっと必要だ」
「は、はい……!」
美穂が慌てて頷く。
そして阿部は、再びモニターに向き直ると、不敵な笑みを浮かべた。
「それと、日曜日にこいつが通っていた新宿のビル。そこのネット上に落ちている情報を徹底的に洗う必要がある。……こういう泥臭い公開情報調査にうってつけの『猟犬』が、ちょうどいるな」
エリート夫が命を懸けて守ろうとした「隠しフォルダ」。
ただの浮気調査で終わるはずだった依頼は、阿部と彩の前に、予測不能な謎を提示していた。
静かな地下室で、マウちゃんが小さく寝言を言う。
デジタル遺品整理室の、新たな謎解きが始まろうとしていた。




