第3話
無機質な電子音が事務所に響き、モニターに表示されていた強固なロック画面が崩れ去る。
そこには、1年前に彩に暴言を吐いて姿を消し、つい2週間前に冷たいアスファルトの上で短い生涯を閉じた兄の遺したデータが並んでいた。
「……解除完了だ」
阿部の手がキーボードから離れる。
彩は、ごくりと唾を飲み込んだ。ここから先は、パンドラの箱だ。親族の言う通り、借金とギャンブルと女に溺れた、救いようのないクズの頭の中。それを見せつけられる覚悟はしてここへ来たはずだった。
しかし、いざ扉が開かれると、彩の足は床に縫い付けられたように動かなくなった。
「見るのが怖いか」
阿部が、モニターから視線を外さずに言った。
「なら、このまま電源を落として物理フォーマットをかける。ハンマーで叩き割る手間すら省けるぞ。依頼は『ロックの解除』だ。俺の仕事はここで終わらせてもいい」
「……見ます」
彩は震える声を振り絞った。
「どんな真実でも、私は知らなきゃいけないんです」
彩はゆっくりと歩み寄り、阿部の斜め後ろからモニターを覗き込んだ。
阿部はマウスを操作し、スマートフォンの内部ストレージを独自の解析ツールで展開していく。画面には、一般的なスマートフォンの画面ではなく、フォルダの階層構造やファイル名がリスト化されて表示されていた。
「まずは基本のログから洗う。通話履歴、メッセージアプリのトーク履歴、ブラウザの検索履歴」
阿部の手が再びキーボードの上を滑る。
「……なるほどな。事前の予想通り、消費者金融からの督促の電話とメッセージが山のように残っている。『金返せ』『明日の昼までに振り込め』……絵に描いたような多重債務者の末路だ」
彩は目を伏せた。やはり、兄は借金取りに追われる惨めな生活を送っていたのだ。
だが、阿部のタイピングの手がピタリと止まった。彼はモニターに顔を近づけ、わずかに眉をひそめた。
「おかしいな」
「……何が、ですか?」
「ギャンブルの痕跡がない」
阿部は複数のウィンドウを素早く切り替えた。
「パチンコ、競馬、競艇、オンラインカジノ。ギャンブル依存症の多重債務者なら、必ずブラウザの履歴や専用アプリ、あるいはSNSにその痕跡が残る。だが、こいつのスマートフォンにはそれらが一切ない。ゲームアプリすら入っていない。通信履歴の大半は、日雇い労働の手配サイトか、送金アプリへのアクセスだけだ」
「送金……?」
彩は顔を上げた。
「兄は、ギャンブルのために借金を重ねていたんじゃ……。実家のお金を持ち出したのも、遊ぶ金欲しさだったはずです」
「それは親族が勝手にレッテルを貼っただけだろう。こいつはギャンブルなんてやっていない。むしろ……」
阿部は一際強くエンターキーを叩いた。
「見つけたぞ。標準のメモ帳アプリに見せかけた、ダミーの隠しフォルダだ。パスワードはさっきと同じ。……開くぞ」
モニターの中央に、テキストファイルといくつかの画像データ、そして一つの音声ファイルが展開された。
阿部がテキストファイルを開く。そこに羅列されていたのは、生々しい数字と日付の記録だった。
『201X年 4月 前期授業料 540,000円』
『201X年 9月 後期授業料 540,000円』
『毎月 家賃・仕送り 80,000円』
「これ、は……」
彩の呼吸が止まりそうになった。
記載されている金額。それは、かつて彩が通っていた私立大学の授業料と、一人暮らしの家賃、仕送りの額と完全に一致していた。
「……お前、大学の学費はどうしていたんだ?」
阿部が振り返らずに尋ねた。
「父の工場が傾いていたので、私は奨学金を借りて進学するつもりでした。でも、高校3年の冬に、父から『工場の資金繰りの目処が立ったから、学費は心配しなくていい』と言われて……。仕送りも、毎月実家から振り込まれていました」
阿部はテキストファイルの下部をスクロールした。そこには、別のアカウント情報が記されていた。
「お前の親父さん、見栄を張ったな。あるいは、こいつに口止めされていたか。この画像データを見てみろ」
阿部は画像データの一つを開いた。それは、およそ5年から9年前、彩が大学に入学した年から卒業するまでの間、定期的に行われていたネットバンキングの送金完了画面のスクリーンショットだった。
振込先は、見覚えのある父親の口座。金額は、ちょうど彩の半期分の授業料と同じ額。
振込人の名義は『イシカワ ケンタ』。
「兄が……私の学費を……?」
彩の声が震えた。
「それだけじゃない」
阿部は別のテキストファイルを開いた。そこには、兄がこなしていた仕事の記録が克明に記されていた。
『深夜・高所ビル清掃』
『医療系治験アルバイト(1週間拘束)』
『産廃処理・夜間運搬』
どれも、時給は高いが肉体的な負担やリスクが極めて高い、いわゆるグレーな仕事や過酷な肉体労働ばかりだった。
「お前の兄貴は、傾いた実家の代わりに、お前の大学の学費と生活費を全額捻出していたんだ」
阿部は淡々とした声で事実を告げた。
「記録によれば、あいつが実家に送金していた時期と、親戚が『金の無心に来た』と騒いでいた時期が完全に一致するな」
「そんな……嘘です。だって兄は、1年前の夏に、私に……っ!」
『俺はお前たちのことなんか、最初からどうでもよかったんだ。もう二度と、俺に連絡してくるな』
あの時、血走った目で彩を睨みつけた兄の顔がフラッシュバックする。
阿部は静かに首を振った。
「その時期の記録を見てみろ」
阿部が指し示した日付。1年前の8月。
「お前の学費をすべて払い終え、お前が社会人になった後も、あいつが背負った借金の利子は膨れ上がっていた。そして1年前の夏、いよいよ闇金のようなヤバい連中が絡み始めていた痕跡がある。……だから、縁を切った」
「縁を……切った……?」
「借金取りがお前に接触するのを防ぐためだ。あいつは、自分が完全に『孤立した悪党』になることで、実家とお前に借金の火の粉が及ばないようにした」
彩の両目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
クズだと思っていた。軽蔑していた。早く縁を切りたいとすら思っていた。
だが、兄は泥水の中を這いずり回り、自分の身を削って、彩の未来を守り抜いていたのだ。
何も知らずに、のうのうと大学に通い、就職し、兄を蔑んでいた自分がひどく醜く、愚かに思えた。
「あああああっ……!」
彩はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き咽んだ。
静かな地下室に、彩の号泣が響き渡る。阿部は何も言わず、ただ黙ってモニターを見つめていた。
数分後。
彩の泣き声が少しだけ落ち着いた頃、阿部はマウスを操作し、最後のファイルを選択した。
「……最後に、これを聞け」
それは、隠しフォルダの最深部に保存されていた、一つの音声ファイルだった。
録音日時は、2週間前。兄がバイク事故で死ぬ、わずか数時間前のものだった。
阿部が再生ボタンをクリックする。
スピーカーから、バイクのアイドリング音と、風の音が聞こえてきた。そして、微かに震える、しゃがれた男の声。
『あー……彩。聞いてるか? いや、聞かせちゃダメなんだけどな、こんなもん』
兄の声だった。
1年前のあの険しい声ではない。幼い頃、雨の中で傘を差し出してくれた時の、優しくて不器用な兄の声。
『今日な、やっと、最後の借金を返し終わったんだよ。これで俺も、やっと普通の生活に戻れる。……長かったな。マジで、死ぬかと思ったわ』
スピーカーの向こうで、兄が自嘲気味に笑う声がする。
『お前、もう社会人になって5年目だろ? 仕事、頑張ってるか? 変な男に騙されてねえか? ……親父とお袋は、相変わらずか。俺が死んだら、あいつらホッとするんだろうな』
バイクのエンジン音が少し大きくなる。
『彩。お前は、俺みたいになるなよ。俺は頭が悪かったから、こんな方法でしかお前を守れなかった。お前は頭がいいんだから、俺の分まで、真っ当に、幸せに生きてくれ。……あの時、ひどいこと言って、ごめんな』
鼻をすする音が聞こえ、最後に小さく言葉が紡がれる。
『……お前が俺の妹で、本当によかった。誕生日、おめでとう』
そこで、音声はプツリと途切れた。
彩の誕生日。8月22日。事故に遭った日は、彩の27歳の誕生日の前日だったのだ。
長年にわたる借金をついに完済し、ようやく妹の誕生日を遠くから祝う余裕ができたその直後に、彼は帰らぬ人となった。
「お兄ちゃん……! お兄ちゃん……っ!!」
彩はモニターにすがりつくようにして、枯れるまで泣き続けた。
どんなに醜い真実でも知りたいと言った。だが、そこに隠されていたのは、醜さとは対極にある、あまりにも不器用で、深すぎる家族への愛だった。
残された記録が証明している。世間からどれほどゴミ屑のように扱われようと、彼はたった一人の妹を愛し抜いた、立派な兄だったのだ。
阿部は椅子から立ち上がると、コンロの横に置いてあったティッシュ箱を無言で彩のそばに置き、再びキッチンスペースへと戻っていった。
彼が再びIHコンロの火をつけ、カレーの鍋をかき混ぜ始める音が、彩の泣き声を優しく包み込んでいた。
こうして、彩が「株式会社デジタルクリーン」の扉を叩いた最初の依頼は終わった。
だが、この日を境に、彩の人生は大きく変わることになる。兄の本当の想いを知り、前に進む力を得た彼女は、数日後、再びこの地下室の扉をこじ開けることになるのだ。
阿部という、無愛想で不器用な天才ハッカーの「押しかけ助手」として。




