第2話
地下室に並んだ6枚のモニターが放つ冷たい青光りが、阿部の精悍な顔の輪郭を鋭く浮かび上がらせていた。
彼の突き刺すような視線を受け、彩はトレンチコートのポケットの中で、ぎゅっと両手を握りしめた。
「あいつが吐いた『すべての嘘』についてだ」――その言葉が、彩の胸の奥底に沈めていた泥のような記憶を掻き回す。
「……兄が変わり始めたのは、私が中学生の頃でした」
静寂に包まれた事務所の中で、サーバーの冷却ファンの低い唸り音だけを背景に、彩の静かな声が響き始めた。
彩より5つ年上の兄は、かつては優しく、不器用ながらも妹思いの少年だった。両親が共働きで家を空けがちだったため、夕食の準備を手伝ってくれたり、彩が熱を出した時には一晩中そばにいてくれたりした。雨の日に、彩の通う小学校の校門前で、自分の肩をずぶ濡れにしながら傘を差し出して待っていてくれた兄の姿を、今でも覚えている。
「でも、父の経営していた小さな町工場が傾き始めた時期と重なるようにして、兄は家に寄り付かなくなりました。高校を中退し、怪しげな仲間とつるむようになって……。両親がいくら叱りつけても、兄はヘラヘラと笑うだけでした」
それからの兄の転落は早かった。定職に就かず、パチンコや競馬に明け暮れ、消費者金融からの借金が膨れ上がっていった。深夜に泥酔して帰宅し、壁を蹴り飛ばす音。借金の取り立てが実家に押し寄せた日、父親は怒りのあまり兄を殴りつけ、母親は泣き崩れた。
親戚の集まりでも、兄の存在は完全にタブー、あるいは嘲笑の的となっていた。
『あの子は昔から手癖が悪かったからね。石川家の恥だよ』
『彩ちゃんも可哀想に。あんな不良の兄貴を持ったせいで、進学や結婚にも響くんじゃないか?』
親族たちの冷ややかな視線。そして葬儀の場――厳密には、火葬場での数十分の待ち時間――においてすら、彼らの口から出たのは故人を悼む言葉ではなく、厄介者がいなくなったことへの安堵と、残された借金への懸念だけだったのだ。
「1年前、兄は両親に数百万円という借金の肩代わりを迫りました。泣きつくのではなく、まるで脅し取るような態度で。父はついに激昂し、実家との絶縁を宣言しました。……それが、私たちが実家で兄を見た最後です」
「なるほど」
阿部はモニターから目を離さず、感情の乗らない相槌を打った。彼の太い指先は、彩の話を聞きながらも休むことなくキーボードを叩き続けている。画面には、兄の名前や過去の住所、彩が委任状と共に持参した自己破産手続きの控えや督促状のデータから引き出された、様々な公開情報が流れていた。鍵のかかっていない過去のSNSの断片、破産宣告の官報記録、同級生の投稿に偶然写り込んだ画像。
「……最後に私が直接兄と話したのは、私が実家を出て一人暮らしを始めた直後でした。偶然、新宿の街で借金取りらしき男たちから逃げている兄を見かけたんです。思わず声をかけたら、兄は血走った目で私を睨みつけてこう言いました」
彩は小さく息を吸い込み、記憶の中の冷たい言葉を口にした。
『俺はお前たちのことなんか、最初からどうでもよかったんだ。もう二度と、俺に連絡してくるな』
「それが、兄の最後の言葉です。……だから、親族が言うように、あんなに冷酷で、どうしようもない人間だったんだと思います。情に流されてパスワードに家族の記念日を使うような、そんな人間じゃありません。彼の頭の中にあったのは、金とギャンブルと、自分のことだけです」
彩は語り終えると、ふう、と深く息を吐き出した。告白を終えた彼女の表情には、悲しみというよりは、長年背負ってきた重荷に対する疲労の色が濃く滲んでいた。
「……話は終わりか」
阿部はキーボードの上で手を止め、ようやく彩の方を向いた。
「立派なクズっぷりだな。親族が見放すのも無理はない。だが、一つだけ訂正しておこう。人間は、どれほど底辺に落ちぶれても『自分にとって一番価値のあるもの』を無意識のうちにパスワードにしてしまう生き物だ」
「だから、兄にとってそれはギャンブルの勝ち目か、お金に関する数字……」
「違うな」
阿部は低い声で彩の言葉を遮った。彼はモニターに映し出された、スマートフォンから吸い出したシステムログの画面を指差した。
「ご両親が適当に入力して弾かれた、この7回の失敗ログを見てみろ。あいつらは、本人にまつわる最も確率の高い数字をすでに試している」
阿部がキーを叩くと、失敗した入力履歴が展開された。
『123456』『000000』といった単純な数列。
兄自身の生年月日。
実家の固定電話の下4桁に『00』を足したもの。
兄が所有していたバイクのナンバー。
「ギャンブル狂なら設定しそうな『777777』や、よく使っていたキャッシュカードの暗証番号のパターンも、すでにご両親が試して潰されている。それでも開かなかった。残りのチャンスはあと3回しかない」
阿部は椅子を半回転させ、彩の真正面に向き直った。
「いいか。親族全員から見放され、社会の底辺を這いずり回っていた男が、家族が思いつくような数字を弾き返す強固なパスワードを、毎日持ち歩くスマートフォンに設定していた。これは何を意味すると思う?」
「……意味、ですか」
「パスワードは、そいつの『核』だ。誰にも知られたくない、だが自分だけは絶対に忘れたくないもの。クズならクズなりに、そいつが最後まで手放さなかった執着の形だ」
阿部は再びキーボードに向き直ると、カタカタと規則的な音を立てて何かのスクリプトを走らせ始めた。
「俺は、人間が口にする建前や悪態なんて一切信じない。信じるのは、そいつが残した行動の痕跡だけだ」
モニターの一つに、彩が持ち込んだ督促状の束から読み取った金融機関の記録と、SNS上で兄の目撃情報を拾い集めた「OSINT」の断片が、時系列順に並べられていく。阿部の凄まじいタイピング速度によって、ロックされたスマートフォンの中身を直接覗き見ることなく、外堀から「兄」という人間の輪郭が浮かび上がろうとしていた。
「お前が最後に兄貴と会ったのは、1年前だと言ったな。正確な日付はいつだ?」
阿部が突然尋ねた。
「え……? 確かな日付は覚えていませんが、夏頃でした。私が26歳になる直前だったから、8月の……」
「お前の誕生日は?」
「8月22日です。西暦なら1999年の」
阿部はわずかに顎を引いた。そして、モニターに表示された情報の一つを指で弾くように拡大した。
「ビンゴだ」
「え……?」
「1年前の8月21日。お前の誕生日の前日だ。お前の兄貴は、新宿の繁華街にある消費者金融の無人機を利用している形跡がある。この日付の督促記録が、お前が持ってきた書類の中にある。お前が兄貴に会って暴言を吐かれたのは、この直後だな」
「はい……たぶん、その日です」
「そして、もう一つのデータだ」
阿部は別のウィンドウを開いた。そこには、特殊な解析機器を経由して読み取られた、スマートフォンの表面的なシステムデータが示されていた。
「この端末にはロックがかかっているが、メタデータ……つまり『パスワードが最後に設定・変更された日時』だけなら、システムファイルから外からでも読み取れる。このスマートフォンのロックパスワードが変更されたのは、ちょうど1年前の8月21日の深夜23時55分だ。つまり、お前に『もう二度と連絡してくるな』と吐き捨て、完全に縁を切った数時間後ということになる」
彩は言葉を失った。兄が自分に冷酷な言葉をぶつけた、その直後にパスワードが変更されている。
「お前の兄貴は、お前の誕生日の直前に、お前との関係を自ら断ち切った。そして、その直後にこのスマートフォンの鍵を掛け直したんだ。親族から見放され、妹にも暴言を吐いて絶縁した。そんな孤立無援のクズ野郎が、最後に設定した6桁の数字」
阿部の手が、テンキーの上でピタリと止まった。
「普通の人間なら、自分から縁を切った相手の誕生日なんてパスワードにはしない。だが、データは嘘をつかない。あいつがパスワードを変更したタイミングと、お前との決別の瞬間は見事にリンクしている」
阿部は彩を見据え、静かに告げた。
「ひねくれている奴ほど、大切なものは直球で隠す。あいつは、社会的な意味での『家族との繋がり』が死んだあの夜に、決して忘れてはいけない数字を刻み込んだんだ」
阿部の指が、迷いなくテンキーを叩いた。
9・9・0・8・2・2――。
彩の生まれた年、1999年の下2桁と、誕生日である0822を組み合わせた6桁の数字。
エンターキーが、カチャリと冷たい音を立てて押し込まれた。
直後。
接続された解析機器のランプが赤から緑へと変わり、無機質な電子音が事務所に響いた。
モニターに表示されていた強固なロック画面が崩れ去り、故人の残した無数のデータフォルダが、白日の下に晒された。
「……解除完了だ」
阿部は短く告げると、キーボードから手を離した。
彩は震える瞳で、モニターに広がる兄の遺した世界の扉を見つめていた。その奥に、自分が想像もしていなかった真実が眠っていることなど、この時の彼女はまだ知る由もなかった。




