第10話 泥沼のサルベージ
秋葉原の雑居ビルの急な階段を上り、地上へ出ようとした阿部の背中に、バタバタと慌ただしい足音が迫ってきた。
「ちょっと待ってくださいよ、師匠!」
振り返ると、息を切らした小川みずほが階段を駆け上がってくるところだった。
「彩お姉ちゃんにおじいさんの相手は任せました! みずほも一緒に行きます!」
「遊びじゃない。留守番してろと言ったはずだ」
阿部は立ち止まらずに冷たくあしらったが、みずほは全く意に介さず、阿部の横にピタリと並んで歩き始めた。
「遊びじゃありませんよ! OSINTの専門家として、現場百回、師匠の背中を見て学ぶためです!」
「お前の技術に現場は必要ないだろうが」
阿部は眉間に深いシワを寄せたが、それ以上は追い払うことをしなかった。先日の詐欺グループのアジト特定の一件以来、阿部の中でみずほの扱いは「ただの近所のガキ」から「目障りだが使える手駒」くらいには昇格している。
休日の秋葉原は、メイドカフェの客引きや外国人観光客でごった返していた。
無骨な作業着のような出で立ちで大股に歩く阿部と、流行りのパステルカラーのカーディガンを羽織った小柄なみずほの組み合わせは、どう見ても不釣り合いだ。だが、みずほは嬉しそうにスマートフォンで自撮りをしながら、阿部の歩幅に合わせるように小走りでついてくる。
「わー、なんかこういうの新鮮ですね。師匠と二人で秋葉原の街を歩くなんて。これってもしかして、デートってやつですか?」
「くだらんことを言うな。俺は厄介な同業者に会いに行くだけだ。人の命が懸かった証拠品のサルベージだぞ、遠足気分なら今すぐ帰れ」
阿部の鋭く冷たい声に、みずほは一瞬だけ口をつぐんだ。彼のウインドブレーカーのポケットには、ひき逃げ事故で命を落とした青年の無念と、海の底で無残に破壊されたドライブレコーダーの残骸が入っているのだ。阿部が纏う空気は、先ほど彩とランチを食べていた時のそれとは別次元の、冷酷で研ぎ澄まされた刃のような緊迫感を帯びていた。
「えー、彩お姉ちゃんとはこの前、お洒落な洋食屋さんでランチしたって言ってたじゃないですか。みずほも何か美味しいもの食べたいです!」
それでも引き下がらずに頬を膨らませて抗議するみずほに対し、阿部は呆れたように息を吐き、路地の角にあった自販機の前で急に足を止めた。
無言のまま硬貨を投入し、栄養補給用のゼリー飲料を二つ買うと、その一つをみずほの胸元に押し付けた。
「さっさと飲め。歩きながらだ。立ち止まるなよ」
「えっ! ほんとに買ってくれた! わーい、師匠のおごりだ! クレープじゃないけど、これも実質デートのプレゼントですよね!」
「ただの栄養補給だ。糖分を入れて脳を回しておけ。次おかしな口を利いたら置いていくぞ」
阿部は足早に歩き出す。みずほは「待ってー!」とゼリー飲料を吸い込みながら、嬉しそうにその後を追った。不器用な男なりのギリギリの気遣いを、彼女はちゃんと理解している。
大通りを外れ、ジャンク部品や中古PCを扱う店舗が立ち並ぶ裏通りへ入る。
さらにそこから、人もまばらな細い路地へと阿部は迷いなく進んでいった。陽の光が遮られ、室外機の駆動音とカビの匂いが漂う、秋葉原の裏の裏。
阿部が足を止めたのは、看板すらない、シャッターが半分だけ閉まった古い店舗の前だった。
彼は迷わずシャッターを潜り抜ける。みずほもゼリー飲料を空にして、慌てて後に続いた。
店内は、足の踏み場もないほど無造作に積まれたジャンクパーツの山だった。剥き出しの基板、ブラウン管モニターの残骸、用途不明のケーブルの束。
そして、部屋の最も奥にある作業机で、煌々としたデスクライトの光を浴びながら、顕微鏡を覗き込んでいる人影があった。
「いらっしゃい、と言いたいところだけど。今は忙しいんだ。ジャンク漁りなら表の箱から勝手に持っていきな。代金はそこの空き缶に入れておくこと」
顔を上げずに、低くしゃがれた、それでいてどこか艶のある女の声が響いた。
「相変わらず、空調の死んだカビ臭い店だな」
阿部が声をかけると、顕微鏡から顔を上げた女が、気怠げに首を鳴らして振り返った。
後藤かほり。29歳。
油汚れのついた作業用のツナギを着込み、無造作に髪を後ろで束ねた彼女は、パーツの山に埋もれるには不釣り合いなほど整った顔立ちをしていた。しかし、その手には細かい火傷や切り傷が絶えず、漂ってくるハンダの松脂と機械オイルの匂いが、彼女が本物の職人であることを証明している。
「あんたか、ソフト屋。……と、そっちの派手な子は?」
かほりの視線がみずほに向く。
「みずほは、師匠の一番弟子です!」
「へえ。あんたが弟子なんか取るなんてね。世界も終わるんじゃないの」
かほりは呆れたように鼻で笑い、手元のハンダゴテを台に置いた。
「で? うちに来たってことは、どうせまたロクでもないものを持ち込んできたんでしょ」
「ああ。厄介な仕事だ。お前の腕が必要になった」
阿部は上着のポケットから透明な密閉袋を取り出し、かほりの作業机の上に無造作に置いた。
かほりは袋越しに中身を一瞥した瞬間、その端正な顔を険しく歪ませた。
「……はあ? なにこれ」
「車のドライブレコーダーだ」
「見りゃわかるよ。私が言ってるのは、なんでこんな酷い状態なのかってこと。海水に何週間浸かってたの? おまけに、ハンマーか何かで物理的に叩き潰されてるじゃない。あんた、私を魔法使いか何かと勘違いしてない?」
かほりはピンセットを手に取り、袋の中から腐食した基板の残骸を慎重に引きずり出した。
「警察の科捜研では、復旧不可能だと突き返されたそうだ」
「科捜研の連中の判断は正しいよ。バカじゃないの。基板は完全に死んでる。海水の塩分で回路はショートして焼き切れてるし、銅箔パターンは腐食でボロボロだ。通電させた瞬間に火を吹くね」
かほりはルーペを目に当て、残骸を様々な角度から睨みつけた。彼女の目が、ただの職人から、怒りを秘めた機械愛好家のそれへと変わる。
「……機械をこんな目に遭わせたヤツ、絶対に許せない。証拠隠滅だか何だか知らないけど、やり方が下品すぎる」
「直せるか?」
阿部が静かに問う。かほりはルーペを外し、深く息を吐いた。
「直す、なんてレベルの話じゃない。でも……」
かほりは残骸の一部をピンセットの先でコツコツと叩いた。
「運がいいのか悪いのか。データを記録している『フラッシュメモリ』のチップ自体は、叩き割られずにギリギリ形を留めてる。……問題は、チップと基板を繋いでいる足が、サビで完全に使い物にならなくなってることだね」
「じゃあ、やっぱりダメなんですか?」
みずほが不安そうに尋ねた。
かほりはみずほをちらりと見上げ、フッと口角を上げた。
「誰に聞いてるの。私の店に直せない機械はないよ」
かほりは机の引き出しを開け、見たこともないような極細のワイヤーの束と、特殊な形状のメスを取り出した。
「チップオフ復旧だ。この死んだ基板から、メモリチップだけを熱で引っ剥がす。そして、腐食した足の代わりに、私がこの0.1ミリのワイヤーで新しい足を一本ずつ繋ぎ直す。それができりゃ、直接リーダーに繋いでデータを吸い出せる。……あとはそっちのソフト屋の仕事だ」
「何時間かかる?」
阿部の問いに、かほりは実体顕微鏡の電源を入れた。
「状態が最悪だからね。ピンの数は数十本。顕微鏡越しで一本でもハンダ付けが狂ったら、あんたの欲しいデータはショートして宇宙の塵になる。……徹夜コースだ。そこに座って見てるつもりなら、表の自販機でブラックコーヒー買ってきな」
「みずほが買ってきます!」
みずほは弾かれたように店を飛び出していった。
残された阿部は、スマートフォンを取り出すと、短いメッセージを打ち込んだ。
『復旧の土台作りには時間がかかる。高橋さんには一旦帰宅して待機するよう伝えろ。俺は明日まで事務所に戻らない』
彩への的確な指示の送信を完了し、スマートフォンをポケットにしまうと、阿部は作業机の傍らの丸椅子に無言で腰を下ろした。
「科捜研がお手上げのものを引き受けるなんて、あんたも物好きだね」
かほりがヒートガンを手に取り、基板に熱を当てながら言った。
「俺は頼まれた仕事の準備をしているだけだ。物理的な土台がなきゃ、キーボードは叩けない」
「言うね。私の仕事に泥塗ったら承知しないからね」
フラックスの焦げる独特な匂いが、狭い店内に立ち込める。
かほりの手元は、信じられないほどの精密さで動いていた。呼吸の震えすら許されない、極限の集中力が要求される作業。
阿部はそれを、腕を組みながら静かに見つめている。彼が絶対的な信頼を置く、ハードウェアの天才職人。
権力によって海の底へ葬られ、物理的に粉砕された真実。
絶対に不可能とされたドライブレコーダーからのデータ抽出。その泥沼のサルベージ作業が、今まさに始まっていた。




