第1話 クズな兄の遺したスマホ
秋葉原の中央通りから路地を3本抜け、メイドカフェの客引きも姿を見せない薄暗い雑居ビル街。電子部品のジャンク品を扱う小さな店舗や、何かの問屋が並ぶその一角にある、築40年は経っていそうなコンクリートビルの地下へと続く階段を、石川彩は静かに下りていた。
足音だけが反響する狭い階段は、湿った空気と、微かに漂うカビの匂いに満ちていた。地上はまだ夕暮れ時だというのに、ここはすでに深夜のような薄暗さに包まれている。階段の突き当たりには、すりガラスの嵌まった古びた鉄の扉があった。そこには黒いカッティングシートで『株式会社デジタルクリーン』とだけ、素っ気なく印字されている。
表向きはパソコンの修理やデータ復旧を請け負う零細企業。しかし、ここは裏の界隈で密かに囁かれている「ある特殊な依頼」を受けてくれる場所だという。
彩は小さく深呼吸をして、27歳の自分には少し不釣り合いな、クラシカルなトレンチコートの襟を正した。そして、ハンドバッグの中に硬いスマートフォンが入っていること、そしてもう一つ、重要な書類が挟まれていることを指先で確認してから、迷いなく扉を開けた。
扉を開けた瞬間、彩の嗅覚を刺激したのは、およそIT企業らしからぬ強烈なスパイスの香りだった。クミン、コリアンダー、ターメリック、そしてカルダモン。本格的なインドカレー店も顔負けの複雑な香りが、事務所の奥から低く唸り続けるサーバーラックの冷却ファンの音と混ざり合っている。
「……ん?」
部屋の奥にある小さなIHコンロの前に立っていた男が、扉の開く音に気づいて手を止めた。無地のカーキ色のTシャツに、黒のカーゴパンツ。背を向けて寸胴鍋を木べらでかき混ぜていたその男は、ゆっくりと振り返り、闖入者である彩を頭の先から足元まで値踏みするように見つめた。
「……いらっしゃいませ。と言いたいところだが、あいにく今日は営業終了だ。PCの修理ならメーカーのサポートセンターにでも送ってくれ」
男――この事務所の代表である阿部邦彦は、ひどく無愛想な声でそう告げた。30歳前後だろうか。鋭く、どこか底冷えのするような暗い瞳が彩を射抜く。ITエンジニアというよりは、非番の特殊部隊員か肉体労働者のような体格をしていた。Tシャツの上からでもわかる分厚い胸板と、丸太のように太い腕。無造作に伸びた髪と無精髭が、彼の無骨さをさらに強調している。
「修理の依頼ではありません」
彩が凛とした声で告げると、阿部はわずかに眉を動かした。彼はIHコンロの火を止め、傍らにあったタオルで手を拭きながら、彩の前に歩み寄ってくる。近づくと、その巨躯がさらに際立った。180センチを超える長身から見下ろされると、並の人間なら威圧感で言葉に詰まってしまうだろう。
だが、彩は一歩も引かずに阿部の目を真っ直ぐに見返した。色素の薄いブラウンの瞳には、静かだが決して揺るがない決意が宿っている。
「じゃあ、なんだ」
「『デジタル遺品』の整理をお願いできると伺って来ました」
阿部は鼻で短く笑うと、カウンター越しにドカッと丸椅子に腰を下ろした。
「誰の紹介だ?」
「ネットの掲示板です。深い階層にある、パスワード解除の専門家が集まるフォーラムで、あなたの『仕事』の噂を見つけました」
「……素人がよく辿り着いたな。だが、俺のルールは知っているか? 依頼は法定相続人からしか受けない。他人のプライバシーを暴くような真似は、法的な裏付けがなければただの犯罪だからな。そして、ロックを解除した後のデータに対する責任は、すべて依頼人が負うことだ」
「承知しています」
彩はハンドバッグを開け、1枚の書類と、1台のスマートフォンを取り出してカウンターの上に置いた。画面の右下には、蜘蛛の巣のようなひび割れが走っている。
「2週間前に事故で死んだ、私の兄のものです。両親は健在ですが、兄の遺品には一切関わりたくないと言って、相続に関する一切の手続きを私に一任する委任状にサインしました。これで、法的な要件は満たしているはずです」
阿部は差し出された委任状に軽く目を通すと、納得したように頷いた。
「なるほどな。俺は開けるだけだ。中身を見て泣こうが喚こうが、俺は一切関知しない。……で? なぜご両親は実の息子の遺品を避ける」
彩は淡々と語り始めた。
兄は、親族の誰もが口を揃えて「クズ」と呼ぶ人間だった。定職に就かず、ギャンブルに溺れ、実家に金の無心に来ては両親と諍いを起こしていた。3年前には数百万円の借金を作ったまま姿を消し、実家とは完全に絶縁状態になっていた。
そんな兄が、深夜の国道でバイクを運転中にガードレールに激突し、即死した。警察からの連絡を受けて遺体安置所に向かった両親は、冷たくなった息子の顔を見るなり「最後まで迷惑をかけて」と吐き捨てるように言ったのだ。
「借金取りが実家に来るかもしれないと、両親は怯えています。兄の持ち物は、住んでいた安アパートの荷物も含めて、このスマートフォン以外はすべて処分されました。親族はみんな、こんなものの中にろくなデータが入っているわけがない、早く捨てろと言っています」
「親族の言う通りかもしれないぞ」
阿部は置かれたスマートフォンを顎でしゃくった。
「ギャンブルと借金まみれの男の遺品だ。中身は闇金の連絡先か、違法なギャンブルサイトの履歴、あるいは見知らぬ女との下品なやり取りくらいだろう。知らなくていいことの方が多い。そのままハンマーで叩き割って、不燃ゴミに出すのが一番賢い選択だ」
「それでも」
彩の声が、地下室に響いた。
「それでも、私は知りたいんです。兄が最後に、誰と繋がり、何を考えて生きていたのか。どんなに醜い真実でも、それが『真実』なら、目を逸らしたくありません」
彩の言葉には、ただの好奇心や感傷ではない、切実な熱がこもっていた。彼女自身も兄を軽蔑していた。最後に会った時の、金に困って荒んだ兄の目は今でも脳裏に焼き付いている。だが、幼い頃に自分を庇ってくれた不器用な兄の掌の温もりを、どうしても完全に忘れ去ることができなかったのだ。彼が本当に、骨の髄まで腐りきった人間だったのか。それを確かめなければ、彼女は自分自身の人生を前に進めない気がしていた。
阿部は無言のまま、彩の目をじっと見つめ返した。数秒の沈黙の後、彼はカウンターの上のスマートフォンを掴み上げた。
「……人間は平気で嘘をつく」
阿部はぽつりと呟いた。
「愛していると口にしながら別の人間と寝るし、平気な顔で他人の金も盗む。口から出る言葉なんて、その場しのぎのノイズに過ぎない」
彼は丸椅子から立ち上がり、部屋の奥に鎮座する、6枚のモニターが並んだ巨大なデスクへと向かった。
「だが、データは嘘をつかない。検索履歴、位置情報のログ、決済の記録。そこには、そいつの本当の姿が残酷なまでに克明に記録されている」
阿部がモニターの前に座り、キーボードに手を乗せた瞬間。
彼の纏う空気が、劇的に変貌した。
先程までの気怠げな雰囲気は消え失せ、冷徹で研ぎ澄まされた刃のようなオーラが全身から立ち上る。
カチャチャチャチャチャッ……!
彩は息を呑んだ。阿部の両手が、信じられないほどの速度でキーボードの上を舞っていた。まるで複雑なピアノの独奏曲でも弾いているかのような、滑らかで暴力的なタイピング音。巨大なデスクに並んだモニターのうち3枚に、黒い背景に緑色の文字列が滝のように流れ始める。
阿部はデスクに備え付けられた専用のケーブルで兄のスマートフォンと特殊な解析機器を繋ぐと、素早く画面に表示されるシステムの内部情報を読み取っていった。
「機種は2年前のアンドロイド。OSは最新バージョンにアップデートされている。……厄介だな。生体認証は通電しないからアウト。PINコードは6桁の数字だ」
阿部はモニターから目を離さずに言った。
「問題は、この端末に『10回連続で入力を間違えると、内部のデータを完全に消去する』というセキュリティ機能がオンになっていることだ。ご丁寧なことに、すでに7回もデタラメに入力して失敗した履歴がある」
「……両親です。警察から遺品として返却された後、兄の交友関係や借金の額を調べようとして、思いつく数字を適当に入力してしまったと聞きました。端末に警告文が出たので、慌てて私に押し付けてきたんです」
彩が説明すると、阿部は舌打ちをした。
「最悪の素人仕事だ。残りの入力チャンスは、あと3回しかない」
「3回……」
彩の顔が強張る。6桁の数字の組み合わせは100万通り。その中からたった3回で正解を引き当てるなど、不可能に近い。
「ここからは、総当たりのギャンブルは通用しない。パスワードを解析するソフトウェアを使うのもリスクが高すぎる」
阿部はキーボードから手を離し、ゆっくりと彩の方へ振り返った。その瞳の奥には、ハッカーとしての冷たい炎が灯っている。
「俺は、お前の感傷や家族の事情に付き合う気はない。中身を開けたら、あとは勝手にしろ」
阿部は感情の乗らない声でそう前置きをしてから、言葉を続けた。
「だが、この強固なロックをたった3回でこじ開けるには、持ち主の人間性という『変数』が必要だ。パスワードってのは、ただの数字の羅列じゃない。そいつの『執着』の表れだ。忘れてはいけないもの、心の底にこびりついている数字を、人間は無意識に選んでしまう。俺がこれから行うのは、プログラムによる解析じゃない。お前の兄貴の脳内をハッキングする」
彼は彩に向かって、真っ直ぐに視線を向けた。
「さあ、始めようか。パスワードの割り出しに必要な情報をよこせ。お前の兄貴について、知っていることをすべて話すんだ。あいつの趣味、嫌いなもの、記念日、昔飼っていた犬の名前……そして、あいつが吐いた『すべての嘘』についてだ」




