第八話(最終話)
子供の頃は、僕にとっての『死』は空想的なものであり、本物では無かった。
しかし、両親が亡くなった時、本物になった『死』は、漠然としたものとしか思えなかった。
子供の時と同じように、空想的であり現実味が無かった。それは、何の前触れもなく、目の前に置かれた骨壷の中身が、両親のものだと言われ、それが本当に両親なのか見ても分かりようもなかった。人は亡くなると骨だけになって、こうして誰だったかなんて証明も出来なくなる。
生きた証など何処にもなかった。
だけれど、僕は男の『死』に、人がどんな風に、亡くなっていくのかを目の当たりにし、本来、僕が知るべきだった『死』が、こんなにも明確にあるものだとは思っても居なかった。
徐々に生きる意志だけが消えて行く目を見ていると、目の前にある身体は人形のようになって、心はもう此処には無いのだと思い知らされる。
想像をしていたよりも、『死』は身近であっと言う間なものだった。
その明確さが、僕の『恐れ』を呼んだ。
『恐れ』は『死』を連れ立って、僕の前を通り過ぎて行く。
『死』は、震える僕を嘲笑うでも、慰めるでもなく、傍観者のようにただ僕を見下ろしていた。
『死』を考えるようになってから、その反対の『生』も考えるようになった。
今までは、なんとなく生きているだけで、産まれたからと深く考える事もせず、ぼんやりとしか『生』の意味を考えて来なかった。
だけれど、産まれた事、生きている事は、人生の殆どに関わりあって来るもので、考え出すと『生』は何処に居ても、何故、産まれて、何故、生きているのかを問いかけてくるようになった。そして、答えを出しても、本当にそれで良いのかと、プレッシャーを与えて来る。
ただ、生きていたいだけが出来ず問答無用に、『生』は答えを求めてきては、その答えを跳ね退ける。
僕の生きる場所は、ここで良いのか。僕のこれから生きて行く道は、この道で間違っていないかと、不安や迷いを生じさせては、生きるってだけでは納得させて貰えないようになった。
それに、誰だって一度は思った事はあるだろう。
何の意味があって、自分と言う存在がこの時、この世界で産まれたのか、何か意味があって生きているのか、それは自分でなくとも良かったのではないか。そもそも産まれても来なければ、自分という存在はない訳で、初めから居ないのなら、今まで出会った人とも出会わなかった同じ事。
自分が居る事で、悲しむ人も、喜ぶ人も、恨む人も存在はしない。
だったら、何故自分はここで生きているのか、存在もしなければ、意味が無いのと同じなのではないのかと。
でも、その答えに正解など本当は無いのだ。生きるもの全てが選択して行く道に、どの道が正解かなんて、自分で決めるしか出来ない。
後からこの道が正解だったなんて思っていても、また、後には分岐点が出てくるものだ。
答えも出口も無い問いをこれから生きていく間分永遠と問われ、その都度、自分で答えを決めて行かなければならない。
『生』は、生きていくのに、色んな事を考えて自分なりの答えを出して行かなければならない。
でも、『死』は問いかける事もせず、答えも求めては来る事もしないかわり、常に側に居て、いつでも明確に『死』がある事を焚き付ける。
ただ、それだけの事。
『それ』と共存する道など、道理も無いように思うけれど、『それ』が常に側にある事を知っているのなら、自ずと生きる理由が見えてくるものだ。
あの男にもあったはずだ。明確な『生』と『死』が。
だからこそ、男は最後に笑ったのだろう。




