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『それ』  作者: 次郎
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第四話


 医者が言うには、男は即死だった。だけれど、僕は、腑に落ちずにいた。あの男は、僕に向かってゆっくりと瞬きをして、笑ったのは確かなのだ。目を細めて、笑ったのを見ている。僕が、生きていた事に安心したかのように笑ったあの目は、僕の幻だったのだろうか。

 僕の生命に安堵をする位だったのなら、何故男は、人生を諦めてしまたのだろう。単なる、その場の勢いだったのか、迷って迷って考えた挙句の果てだったのだろうか。最後に、誰の顔も浮かべなかったのだろうか。僕が、あの時、茫然としていなければ、彼の自殺は止められいたのかも知れない。

『死』とは、あまりにも身近にあり過ぎるを初めて実感した。

 

 朝、一端着替えに帰り、寝ずに会社に行くと、僕が思っているよりも周りの人間は驚いた顔をしていた。

 上司は、僕が普通に出社してきたので、慌てて駆け寄ってきた。

「怪我は、大丈夫なのか?今日は、安静にしてろって言われなかったか?」

「え、誰にですか?」

「誰にって、昨日事故に巻き込まれて病院に運ばれたとニュースになっていたぞ。それに、ネットで動画が上がっててな。これ、そうだろ?」

 上司は携帯を取り出し、ネットを開いた。確かに、付近で取られた動画が拡散され、僕の所には流石にモザイクは入っていたが、僕を知っている人なら、分かる位だった。

「ニュースにもなっていたんですか。僕は、まあ、打撲と脳震盪だったんですけど、血を見てただ気を失っただけでしたので、目が覚めたら帰されました」

と何もなかったかのように誤魔化した。上司は、そんな僕の顔を見て安心したのか飽きれたのか分からない表情を浮かべていた。

「それはそうと、そんな事故に巻き込まれたんなら、連絡位寄越せよ。何回も電話したんだぞ」

「すみません。気が付いたら夜中で、その後も事情聴取があったので出来ませでした。それに」

 すっかり、昨日の衝撃で、僕は携帯の存在を忘れていた。

「昨日の事故で、携帯が壊れました」

 僕の身体と一緒に飛んで行った鞄は、色んな人に踏まれ、携帯も財布も踏み潰されていた。鞄から然もありなん状態の携帯を取り出すと、電源を入れてみたが点くはずもなかった。バキバキの僕の携帯から、昨日の事故の悲惨さを悟り、同情するように上司は僕の肩を叩いた。

「取り敢えず、ちゃんと検査してもらってこい。出社はそれからで良いから」

 僕は労わってくれているだろう手に、何故か虚しさを感じ僕は寂しく笑った。 


 言われた通り検査の為に病院に寄ったが、特に問題なく、すんなりと帰された。

 僕は病院の帰りに、あの駅のホームに行くと昼前だったからか、人は少なく昨日の事故は無かったかのように、しんと静まり返っていた。

 昨日の事は何もなかったかのように、そのホームで日常が繰り返されていた。それは、当然の事なのに、その当然が虚しく思える。

 この場所で、一人『死』と向き合い選んだ事。同じように、繰り返されていく日常が、男にはもう無い事。僕だけが、あの男の最後の顔を知っている事。他人は、やはり他人事でしかない。見渡しても、電車が来る時間を潰して何かに没頭している人間ばかりに、僕だけが昨日のまま取り残されているように思えた。

 僕は、疎外感を思いながら、あの男が死んだ場所に立った。すっかり、何事も無かったかのように、綺麗に掃除されている。少しだけ、赤い染みが残っているものの、それが、あの男の血である事など分からない程に薄い。

 人身事故など、乗客にとってみれば、迷惑でしか無い。自分一人死を選ぶのならば、他の場所ですれば良いのにとさえ思う。最後までも、他人に迷惑を掛けて死を選ぶような人生は疎まれるに違いない。僕も、今までなら、疎ましいと思う一人だったのは確かだろう。  

 しかし、僕は男と目があった方向を見つめた。

「疎まれると分かっているのに、電車で死ぬ事を選んだのか。最後は何を思って笑ったのか。どうして、生きる選択はなかったのか」

 僕は、もう、そこに跡形も無い男の形跡に、問いかけた。返って来ないとは、分かっていたとしても、問いかけらずにはいられなかった。

 僕までも、何もない日常に戻ってしまえば、それが、あの男にとっては『本当の死』であると感じたからだ。

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