第二話
『それ』が、僕の心を支配し出したのは、7年前の暑い夏の日だった。夏の照りつける太陽が、漸く終息に向かって、空を赤く染め上げる夕方の事だった。僕は、夏の暑さにやられて、仕事を途中で切り上げ、帰宅するべく、駅のホームで空の赤さに脳内を眩ませられ、ぼんやりとしていた。ぼやけた目のまま僕は、反対のホームをじっと眺めていると、視線の端に、チラリと人影が映った気がした。それは、近くでなのか、遠くでなのか、分からなかったが、チラリと動く影に、少しだけ首を振った。しかし、電車の汽笛が僕の近くで鳴り響き、脳が一気に掻き回され、大声で叫ぶような声が耳をつんざいた。電車は、汽笛を鳴らしながら、僕の横を通り過ぎて行き、電車の風圧でだろうか、僕はどんと強く身体に衝撃を感じると同時に身体は宙を浮いた。そして、強い力で後方へ飛ばされ、支柱で背中を強打した。僕の脳内はパニックになり、一時的に、何もかもがシャットダウンした。何が起こったか理解出来ず、茫然としていると、たらりと、生ぬるい雫が頭上から落ちて来て、顔を伝って行くのを感じた。自然にそれを拭うと、霞む視界でも、手の平が、赤く染まっているのが見えた。顔に手を近付けると、鼻先を鉄の香りがくすぐった。
茫然とした脳でも、直ぐにそれが血である事を理解した。そして、僕は自分が死ぬのだなと一瞬で悟った。自分の頭に触れながら、冷静さが戻って来るのを感じた。そして、ホームに広がる悲鳴にも、動揺しない程、気持ちは穏やかであり、これで漸く両親に会える等と単純に考えていた。
だが、一向に私の意識は消えなかった。
寧ろ、ぼんやりとしていた脳みそが起き上がってくる感覚がした。それと同時に、身体中が震えてくる程の痛みが襲ってきた。何度も流れてくる血に、僕は頭を何度も触ってみたが、その血の出先は、自分のモノで無いとはっきりと分かった。
消えない悲鳴と共に見上げる人の視線を辿ると、自然と僕の頭上に向けられている。視界は、霞んでいたが、僕は恐る恐る頭上に顔を向けた。それだけが、はっきりと、目の奥に入り込んで来るのが分かった。
僕の視界から外れてしまった人影は、僕の頭上で頭を逆さにして、僕を見つめていたのだった。僕の神経はぞわっと全身に鳥肌を立てた。ただ、じっと、目を血で染めながら、決して離さないようにと、僕を見つめていた。
たった、数秒だったのかも知れないが、僕とその男の目が合っていた時間は、とても、長く、永遠に続くのでは無いかと思える程で、目を離す事が出来なかった。動かない身体で、何度か瞬きを繰り返すと、男は、僕の真似をしてかゆっくりと瞬きを繰り返した。そして、ふっと何処か物悲しそうでありながらも、赤く染まる目に笑みを浮かべている。徐々に男の目から瞼を閉じると言う意思がこの世から消え、それ以上動く事は無かった。僕ともう動かない目の同線には静寂があるようだった。 人間としての意識を無くし、今はその笑みも消え、白目になっていく人の形をした得体の知れない何かのように思えた。
そして、僕は、その静寂にあるものが、先程悟った『死』とは別次元のモノであり、今まで、何モノでも無かった『本物の死』である事に総毛立った。




