第一話 異世界帰還者
――夢から覚めた朝はいつだっていつも通りだ。
小鳥のさえずり、通学路の学生達の談笑、信号機が鳴る音。歩道を進む高校生は昨日までと同じ朝を過ごす。
だが彼にとっては懐かしいものだった。ブレザーの着心地も、踏みしめるアスファルトの硬さも。
変わったものがあるならば、
「あ、ネコが」
それは目の前で飛び出した白猫だけだった。
トラックは既に迫っている。ブレーキは確実に間に合わない。
「とりあえず、姿は見せないようにするか」
目撃していた彼は、高速回転する思考を言葉に直す。
「『※※※※※※※』、ステルス――加速、三メートル座標移動」
猫自身もトラックを目にして動揺した。
「ンニャ―!!」
だが、猫は小さな放物線を描いて道の反対まで着地した。宙をふわりと移動し、軽いボールパスのようにポスっと。それもいつの間にか。
「……ンナァ?」
「間に合って良かった」
何が起きたか分からず、ンニャ~と猫は鳴いて固まる。青年は微笑んだ。
猫の無事を確認し、青年は透明化を解除。
そのまま抱きかかて歩き始めた。高速移動で叩き割ってしまった歩道を、適当に砂で覆って誤魔化して。
「うん。怪我は無さそうだね」
青年は穏やかに微笑む青年は毛並みの触り心地を愉しむ。
「猫に触るなんて何年ぶりだろう……異世界に猫は居なかったんだよねぇ」
――彼、凛藤明日葉は元異世界転生者である。
助けた猫はすっかり懐き、撫でられるとゴロゴロ小気味良い声を鳴らしていた。
「ンナ~」
「頭だけ、それもMの字に毛が黒くなってる。面白い柄の野良だなぁ」
「あれ、今ネコが渡ってたような……あっ、そこの坊主」
その光景を僅かに見ていたのか、黒スーツの男がすれ違い様に声をかけてきた。
「飼い主か? 目ぇ離すと轢かれちまうから気ぃ付けとけー」
「はーい、すいません」
やり取りを終えると男性は何事もなかったように去っていく。
アスハは男の自然な反応にほっと胸を撫で下ろした。
「周りからもちゃんと見られてないみたいだね。さて、どうしようかな」
アスハは猫が痩せ気味なことに気付く。だが通学中だ。とても家や病院などにも行くことはできない。
「ま、このまま連れてけば良いか……けどそうすると時間ギリギリだ」
思案した結果、学校へ向かうことにした。
「先生に一回預けても良いかな。体育の先生が前にも犬を学校で保護してたような」
始業時間前までに探せるかは時間ギリギリ。
周囲に誰もいないことを再確認し、アスハは能力を使用する。
「――もう一回ステルス。足も強化して、今度は一メートル浮遊。体は空気でカバーして、行こうか……」
再び彼の姿は消え、突風が高校へ向かって駆け抜けた。
――奇しくもその一部始終は目撃されていた。
「咄嗟に隠れといて良かったな」
「そうね……アタシ達も解除するわよ、迷彩魔術」
同じ制服の男女二人組が近くの公園から彼を眺めていた。周囲の風景に全身を擬態させて。
男子は双眼鏡でアスハと猫を観察し、女子は魔法の杖を手にして固唾を呑む。
「ツムギ、今のってまさか……」
「間違いねェ、アイツもきっとそうだぜ」
ツムギと呼ばれた男子は双眼鏡をその場に落とす。地面に触れると、双眼鏡は割れて普通の石ころに戻った。
「あのアスハってのも同じ、異世界帰還者だ」
※
放課後を告げるチャイムが鳴り、アスハは筆記用具一式をスクールバッグにまとめる。頭の中は保護した猫の事でいっぱいだった。
「よっす凛藤、さっきの小テストどうだった?」
「九割は頑張っていけた。最後でケアレスミスしちゃって」
「マジかよお前、問三番解けたの!? あれ正解するってめっちゃ勉強してんじゃん」
「最近はちょっと勉強の調子が良くてさ」
「凛藤急に成績良くなったな。塾入ったん?」
「てか雰囲気も変わったし、なんか落ち着いたよな~」
(あっちじゃ勉強もゆっくり出来なかったからね……異世界行ってから気付くなんて遅いだろうけど)
他愛のない会話もほどほどに、アスハは教室を後にする。
「さてと、預けたあの猫はどうするんだろ。引き取り手がいなかったら俺の家で飼ってもいいんだけど」
その独り言を盗み聞くように、アスハの視界の端で白い何かが横切った。
「ッ……ん、紙飛行機?」
反射的に警戒した紙飛行機は螺旋状に旋回し、ゆっくりアスハの手に着陸した。
「一体、これは……」
紙飛行機を触れようとした次の瞬間、紙が自ら広がって展開された。
白紙だった紙に一文字づつボールペンの字が浮かび上がり、短い文章が完成する。
『凛藤君。これ読んだら、物理準備室、来て』
それだけが中身に記されていた。
アスハは廊下を見渡すも、誰かが投げた素振りはない。
「誰だ? そもそもあんな軌道で飛んで、ピンポイントで俺に届くなんておかしい」
いかにも不可解で胡散臭い代物。だがアスハは構わず手紙の場所へ向かう。わずかな警戒心だけを装備して。
※
「物理準備室、はここだね」
普通教室の三分の一程度しかない狭さ、死角になりやすい特別棟の角部屋。
(差出人はここに……定番の校舎裏とかじゃないのか)
奇妙な紙飛行機からアスハは警戒し、防御を固める。
(大気、壁、金属……いや、多過ぎる。鉄の盾で十分だ)
数秒の覚悟と集中力を持ち、アスハは扉を引く。
「失礼します。この手紙って――」
「あっ、本当に来てくれた!」
「マジで!? おっしゃあ!」
歓喜の声と同時に二発のクラッカーが鳴り響く。
彼の前にパーティー用の派手な紙テープが飛び出した。
「えっ、クラっ、え?」
予想外の反応にアスハは混乱していた。
そこへ紙の三角帽子と祝いの装飾をつけた男女二人がにじみ寄る。
「待ってたぜ。手紙ちゃんと読んでくれてありがとうな!」
「え、あっ」
金髪で気の良い男子は勝手に右手を取り、握手でブンブンと腕を上下させた。
「急に変な手紙出しちゃってごめんね〜。あれアタシの魔術で動かしたの。紙飛行機自体はツムギが」
「オレのスキルで広がったり探知したりは機能付けたんだぜ」
「魔術に、スキルって、まさか……」
「あ、アタシはリリね。こっちがツムギ。よろしくぅ凛藤君!」
薄紅色の髪の彼女も興奮してアスハが聞き返す隙もない。
アスハは既に二人のペースに飲まれていた。
アスハの理解を待たず、ツムギとリリは『歓迎!!』の文字とデコレーションしたホワイトボードを見せ付ける。
「ようこそ! アタシたち異世界帰宅部へー!」
「これで三人目の異世界帰還者だぜェ!」
「……はい?」
色紙と紙吹雪にまみれて呆然とする中、聞き覚えのある鳴き声がアスハに届く。
「ンニャ~」
「あっ、今朝の……」
クラッカーの紙テープと紙吹雪が散った床。その上をのそのそと白猫が歩いていた。




