シミュレーションゲームは高級志向品
「当たり前の家庭」を、僕は知らない。
だからこそ、知ろうとしている。
自分にとっての“家族”が何なのか、
どこまでが真実で、どこからが欠落なのか。
静かな朝と、ふいに出会う“名前”。
小さな違和感が、やがて世界を動かしていく。
これは、そんな静かで騒がしい朝の物語。
──何を思ったのか。
僕の部屋には、今、布団が3つ敷かれている。
それが意味することは、ただひとつ。
「葵くんとひまりちゃんが隣同士にいる!」
灯の言葉が、暗闇の中で弾けた。
「なぜ、そうなる。」
「兄貴ぃ……春だねえ。」
ひまりが、どこか意味深に言う。
「今は初夏だ。」
「ひまりちゃんってさ……下ネタ、好きなの?」
電気を消した部屋の中。
多分、顔を赤くしたであろう灯が、探るように尋ねる。
すると──ひまりは、迷いなくこう返した。
「“下ネタ”という一括りで、“子孫繁栄行為”を表現してほしくはないんだよ。
人がここに存在しているのは、先人たちの“営み”のおかげであって、
恥じらうことをやめるべきだと、あたしは思うんだよ。」
「……申し訳ないが、“春”から“下ネタ”に飛躍するのが、意味が分からない。」
「なんか……現代社会に対して喧嘩売ってない?」
灯の鋭いツッコミが、夜の空気を軽く弾いた。
──3人の影が、天井の明かりの残像の中で、微かに揺れていた。
さて。
疲れているときの人間は、例外なくノンレム睡眠に徹する生き物である。
そして──僕もその例に漏れず、夢ひとつ見なかった。
……別の部屋で。
なぜかと言えば、理由は単純だ。
アラームが朝早く鳴るのを、二人に聞かせたくなかったから。
変な感情があったわけじゃない。
でも、“隣で寝ている誰かが寝にくい”という状況が、
どうにも僕は、少しだけ嫌だった。
ピーッ。
朝方の、4時半。
まだ世界が寝ている静寂の中、アラームが鳴った。
「……少し、二人の様子でも見てみるか。」
小声でそう呟いて、僕はそっと部屋を覗く。
ひまりは、布団を完全に蹴飛ばして、
灯は、小さく縮こまって、毛布の端を握っていた。
──朝くらい、何か作ってやるか。
まだ眠気の残る鬱らとした目をこすりながら、
冷蔵庫の卵と牛乳を取り出す。
いつもは自分のためだけに作っていたこの動作が、
今日はほんの少し、意味を持って感じられた。
静かなキッチンに、スクランブルエッグの焼ける音がやわらかく響いていた。
土曜日の早朝は、平日とは違う静けさに包まれていた。
学校が休みということもあり、空気はひんやりとしていて、街はまだ眠っている。
自転車のペダルを踏みながら、冷たい風を斬ってバイト先へ向かう。
きっと女性なら、風に舞う髪が綺麗に見えるのだろうが──
あいにく僕は、そこら辺の男と変わらぬ短髪である。
そして、いつも通りすぐに店に着いた。
「おはようございますー。」
「お兄さん、髪の毛ボサボサです。」
「風がすごくて……ていうか、そういうこと言わないでくれる?」
「メイちんは楠原くんに冷たいねぇ~。あっ、おはよう!少年!」
「情報量が多すぎる。あと、回収人さんのモノマネやめて。」
春樺もメイも、いつも通りだった。
その“変わらなさ”に、少しだけ安心する自分がいた。
「お兄さん、ちゃんとデート行ってます?」
「ま、まだだけど……」
「はぁ……これだからお兄さんは。
出されたご飯を食べずに外食に行くレベルの非常識ですよ?」
「いや、例えがおかしいから。
っていうか、バイト終わったら眠くなるんだよ。人間だもの。」
「メイちんはド直球だねぇ。でも賛成!
デート行かないとか、理解できないレベルだよ~!」
「はぁ……僕には味方がいないのか。」
そんなやり取りを挟んで、僕はようやく本題に戻る。
「あ、そういえば──回収人さんに、ちょっと話したいことがあるんだけど。」
「ん? どうしたの?」
「家族の話について、なんだ。」
その瞬間だけ、春樺とメイの表情が、ほんの一瞬だけ静かになった。
ドアをノックして、地下室へと足を踏み入れる。
少し冷たい空気が、肌を撫でた。
「……あの、少々よろしいでしょうか。」
「ん? 少年。どうしたんだい?」
回収人はそう言って、新しい煙草の箱から一本を取り出し、火をつけた。
紫煙が、ゆっくりと宙に溶けていく。
「……僕の、家族についてです。」
「ほう……」
回収人の目が、煙の奥でわずかに細められた。
「少年も、変わったものだねぇ。
“家族”──そこに、違和感を感じたのだね?」
「僕には、両親という“常識”であり、“普通”がない。
それに、ようやく気づいたんです。」
「……フーッ。」
回収人の吐いた煙が、細く、まっすぐに空へ上っていく。
「“抜け殻”なんじゃないか……そう思っているのかい?」
「はい。
妹の作文を読んで、灯からも心配されて……
気づかないふりが、もうできなくなってきて。」
「そうかい。……時に少年、ジャンプを知っているかね?」
「え? 支払期限の延期とか……そういう意味ですか?」
「当たりだ。
手形ジャンプ、債務の先延ばし。
闇金業界でも、よく使われる言葉さ。」
また一本、煙草を取り出しながら、
回収人は静かに続けた。
「人の関係も、後回しにしすぎると──消えてしまうかもしれない。
私の持論だがね。」
「……難しい話ですね。」
「感情論さ。
例えば、家族を“後回し”にしていたとする。
その張本人は、何らかの形で──“消える”。
そんな気がしてならないんだよ。」
「……メイの話に、似てますね。」
「まさにそうだ。
とはいえ、“ジャンプ”という言葉がただの業界用語だった可能性もあるし、
そうじゃない意味が込められていたのかもしれない。
そういうことさ。」
「……なんか、難しい話ですね。」
「難しい話しかしてないからね、私は。」
回収人はそう笑いながら、ふと真顔に戻った。
「少し調べてみようと思うよ。
“真奈美”と“裕也”──それが現時点での、唯一の鍵だ。
……“原”に、少し連絡を取ってみる。」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥に、また“ズキン”と振動が走った。
記憶が暴れようとして、
それを無意識が必死に押し戻そうとしているような──そんな感覚だった。
回収人さんとの会話を終えて、
僕は再び“表の仕事”──コンビニの世界へと戻ってきた。
「ふぁああ……春眠暁を覚えず、だねぇ。」
春樺がレジに肘をつきながら、欠伸をかみ殺す。
「まあ、その気持ちはわかりますけど……目の前の仕事をしてから寝てくださいね。」
メイは今日もビシッと真面目だ。
「とりあえず、トイレ掃除してくるよ。」
「それはもう、私がやっておきました。
感情を持つ生命体であるならば──私に感謝することです。」
確認すると、トイレ掃除チェック表には、すでに“完了”のサインが記されていた。
「ありがとうな。
……って言い回し、ほんと独特だよな。」
僕もようやく、メイの回りくどい敬語メタ発言を
スルーできるようになったらしい──これも一つの“成長”かもしれない。
「では次は、商品陳列です。
本当はゲームのように、自動で並んでくれたらいいんですけど。」
「ドイツのシミュレーションゲームって、自分で陳列するからなぁ。」
「ドイツ人って、面白いですよね。
仕事を終えて“ゲームをやるぞ!”ってなった結果が“経営ゲーム”なんですから。」
「経営と、雇われてる身分じゃ……また感覚も違うんじゃない?」
春樺が唐突に話に割り込んできた。
「でも、下っ端の人でも社長になってみたいものだよ!
楠原くんだって、ここのオーナーになってみたいんじゃない?」
「なりたくない。」
一刀両断だった。
「……え、えぇー!?」
春樺の声が、朝のコンビニに元気よく響いた。
「趣味が“経営”って人、多いのに、
実際に自営業やってる人って少ないですよね。」
僕がふと漏らすと、メイが即座に答えた。
「まあ、あくまで“趣味”ですから。
実際にやってる人は、日本では約9%程度です。」
「やっぱ、自営業ってリスキーなんだよなぁ。」
「まさに命がけですね。
この国の社会構造の中では、“挑戦”は高リスクですから。」
「社会的に終わるか、命を終わるか……みたいなものか。」
「そうですね。選択肢が少ないって意味では、どっちも“終わり”です。」
その言葉に、春樺が少し顔をしかめていた。
「……怖い話だなぁ。
でも現実って、だいたい怖いよねぇ。」
ピロンッと、レジ横の通知が鳴った。
「あ。お客さんです。
接客業の本業──行ってきてください。」
「メイちゃんもだよ。」
僕がそう返すと、メイも微かに頷いた。
そして──
「いらっしゃいませー。」
3人の声が、タイミングを合わせるように重なった。
「フライドチキンと、ハッシュドポテトを。」
その女性は、淡々と注文を告げた。
年の頃は、五十代前半くらいだろうか。
落ち着いた声の裏に、何か深く沈んだものが感じられた。
「少々お待ちください。」
商品を準備しながら、ふいに声がかけられた。
「……あなた、高校生、よね?」
「……あ。まぁ、そうですね。」
「こんな時間に、偉いわね。
……私の息子は、堕落してるの。」
急に落ちてきた言葉に、返し方が分からず、
僕はとりあえず言葉を選んだ。
「人それぞれですから。」
それはあくまで、接客業としての距離感だった。
「夢を追って、失敗して、廃人同然になってる。
……それを見るのが辛くて、私も、心を病みそうな毎日で。」
言葉が、目の前で崩れた。
「……ごめんなさいね。朝から、こんな話。
見ず知らずの高校生に、つい話しちゃって。」
「……人生、プラマイゼロだと思うんですよ。
落ちたら、あとは上がるだけ。
僕も、好きでバイトしてるわけじゃないです。
自分の考えを変えるために、やってるんです。」
女性の目が、わずかに揺れた。
その一瞬の隙間に、言葉が落ちてきた。
「……明るいのね、あなた。」
そして──
「最後に、言っておくわ。
私、この店の“回収人”を名乗る人と、知り合いなのよ。」
「……え?」
「“原”よ。」
そう言って、顔をゆっくりと斜め前に向ける。
「メイ。頑張っているわね。」
「……お久しぶりです。」
その瞬間、
冷蔵ケースのガラス面に、何とも言えない沈黙が映り込んでいた。
あまり良くはない空気が──確かに、流れていた。
「すみません、526円です。」
「……申し訳ないわ。忘れてたわね。
あと──75番もお願い。」
「かしこまりました。……それでは、963円です。」
「このご時世、“煙草”ってもう高級志向品に化けてるのよね。
カードでお願い。」
ピッという決済音が鳴る。
「ありがとうございましたー。」
3人の声が、自然に重なった。
原さんは軽く頷くと、ゆっくりと店を後にした。
「……あの人が、“原さん”か。」
「どうかしたの?」
春樺が首をかしげる。
どうやら、先ほどの空気を掴みきれていなかったようだ。
「昨日話してた、“名前”の関係者みたいなもんだよ。」
「へえ……そうなんだ!
世の中って、狭いねぇ。」
「街中に行けば、テレビに出るような有名人が
その辺にふらっと転がってますからね。」
メイが、事もなげに言う。
「……いや、こんな田舎じゃさすがに違うと思うけど。」
「村の濃密な近所付き合いも、
都市の中で有名人を見かけるって感覚も──
まとめてしまえば、“同じ現象”ですよ。」
「……そんなもの、かな。」
僕はどこか曖昧に返しながら、
原という名の、その人の背中を思い出していた。
名前を聞いただけで、心がざわつくことがある。
それは記憶か、感情か、それとも何かの予感か。
今回の物語は、まだ“始まり”の途中。
答えはまだ遠く、でも、手がかりは確かに手の中にある。
少しずつ、静かに、真実へと歩いていく準備はできている。
――きっと、もう後戻りはできない。




