カレーライスのスパイスは社会風刺
社会を変えるのは、いつも「誰かの感情」から始まる。
少子化も、炎上も、家庭の葛藤も──
全部、その根っこには言葉にならない思いがある。
カレーを煮込みながら書く論文に、
僕たちは“社会問題”じゃなく、“人間そのもの”を見つけようとしていた。
僕たちは、カレーを煮込む時間を“執筆時間”に変えることにした。
キッチンから香るスパイスの匂いが、頭を刺激する。
いつもは空腹を誘うその香りも、今日は少しだけ脳に栄養を与えてくれているようだった。
「なぁ、今回の論文のテーマが“社会問題”ってさ……結構頭使うよな。」
僕はそう言いながら、経済系の雑誌を手に取る。
「少子高齢化に、SNSのライフライン……なんか、読むだけで疲れちゃう内容ばっかり。」
灯が、少し苦笑しながら言う。
「でもさ、これって──全部、ひとつのことにたどり着くと思うんだ。」
「え? 何に、たどり着くの?」
「“感情”。」
その言葉に、灯が少しだけ目を見開いた。
「少子高齢化ってさ、人と関わるのが大変で、
仕事とプライベートの両立ができなくて、
誰かと一緒に生きることがしんどいと感じる──そんな“感情”の話だと思うんだ。
もちろん、“子どもがほしくない”って人もいる。
でも、それが“正解”として全員に適用されたわけじゃない。
ただ、“疲れた”とか、“不安”とか、“怖い”とか──
そういう“負の感情”が、選択を縛ってる気がする。
SNSも同じだよ。
匿名性が高いってことは、“言いたいことを言える”と同時に、“誰かを傷つける感情”が表に出やすい。
いじめ、炎上、自己肯定感の低下……全部、感情から生まれてる。
だから、僕はこう結論づけようと思うんだ。
──社会問題の根底にあるのは、“感情”である。」
言葉にすると、少しだけ気恥ずかしかった。
でも、それが嘘じゃないことは、誰よりも自分が知っていた。
灯が、ぽつりと呟く。
「やっぱり……そこにたどり着くのは、葵くんだけだと思う。
頭、いいよね。」
「……灯を助けて、思ったことさ。」
「……成長ってやつ?」
「……あんまり言うなよ。」
そう返しながら、僕はボールペンを持った。
香辛料の匂いの中で、“感情のレシピ”を一文字ずつ、書き記していく。
僕の部屋は、今まさに“社会問題”という名のスパイスで充満していた。
それは、辛い──いや、“つらい”と書くべきか──
心にジワジワと効いてくるタイプのスパイスだった。
「はぁ……。まあ来週提出とはいえ、早めに終わらせたいよな。」
「うん。あとは、ゆっくり休んでたいよね。」
そんな会話を交わしながら、ペンを置く。
「で、そっちは社会問題、どんなふうに書いたん?」
「私はね、今回は“政治”に目をつけてみたんだ。
会社でもよく聞くんだけど、“現場を見ない社長”って、現場を知らないから適当なこと言って、
結果的に会社を潰すことがあるじゃない?
それって、国レベルで見たら……そういうことなのかなって思って。」
「……結構、論理的だな。」
「論文だしね。
葵くんが“感情”で切ったなら、私は“現場周り”から切ってみた。
──見る角度って、変わるよね。」
「“十人十色”って言葉があるくらいだしな。」
その時、下から声が聞こえた。
「カレー作ったから、ふたりとも降りてきてー!」
ひまりの声だ。
さっきまで“社会問題”として絡みついていたスパイスは、
今、カルダモンやターメリックといった、もっと“人間らしい”香りへと変わり始めていた。
「一階、降りようか。」
「うん。お腹すいたね。」
スパイスの香りと、日常の温度。
それが、今の僕たちにはちょうどいいバランスだった。
「兄貴も、灯ちゃんも、ある程度は論文書いた?」
食卓に着くなり、ひまりが問いかけてきた。
「ぼちぼちかな。」
僕はそう言いながら、ペンを置いた余韻を口の中で噛みしめていた。
「私は、半分くらいかな。」
灯が、少し誇らしげに言う。
「そっかぁ。──はい、大盛りカレー!」
差し出されたのは、白い器になみなみと注がれた、ルウの照りがまぶしいカレーだった。
「……でっか。」
「お、多いけど……?」
「労働なり、勉強したあとの栄養補給は、人間の必要事項だからね。」
ひまりが、当然のごとく言い切る。
それはもはや、人生の法則のような口ぶりだった。
「……ひまりちゃんに言われたら、そうなのかもね。」
灯はそう言って、静かに笑った。
「いただきます。」
その一言を合図に、スプーンの音がカチャリと鳴った。
“社会問題”も、“負の感情”も、いまだけは皿の外。
温かい匂いが、全部を包んでくれていた。
「あたしも、いただきますー!」
ひまりがスプーンを構え、3人で一斉に食べ始めた。
「……結構これ、スパイシーだね?」
灯がそう言って、額に汗をにじませる。
カレーの湯気に混じって、少し顔をしかめていた。
「そうか? 紫原家ではいつも通りの味で、僕はむしろ安心するよ。」
「ふふん。あたしが作るのは“本格派”だからね。
嫌いな言葉は、“中途半端”。」
ひまりが、どこか誇らしげに胸を張る。
「なるほどね……辛っ、水、もらえるかな……?」
「……あ、あぁ。僕が出すよ。」
僕がそっと出したコップの水は、灯の前に置かれた瞬間に、
干上がった野菜の土のように、一瞬で空になった。
「あ、ありがとう……これは、世間的には“辛口”って評価される味だね。」
「今度はもっとマイルドに作ってみるよ。
マッサマンカレーとか、どう?」
「……なぜそういう渋いところを突いてくるんだ。」
「世界的には人気だよ?
たしかCNNかなんかの“世界の美味しい料理ランキング”で上位だった気がする。」
「……でも、日本での市民権の8割は、“カレーライス”だ。」
「その、マッサマンカレーって……私、食べてみたい!」
灯がパッと笑って、前のめりに食いついてきた。
「タイカレーと日本のカレーを足して、2で割ったようなカレーだけどな。」
「いいじゃん! 食べてみたい!」
そんな言葉を交わしながら、僕たちは、
“日本の味”であり、そして“紫原家の味”でもある──
そんなカレーライスを、ゆっくりと味わっていた。
満腹というのは、時に人の感覚を鈍らせる。
血糖値の上昇により、満腹中枢が刺激され、思考力は静かに失速する。
そして今、僕たちはその例にもれず──軽く眠気に包まれていた。
「なんか……若干眠いね。……あ、そうだ!」
灯がふと顔を上げ、唐突に言った。
「ひまりちゃんの作文! 気になる!」
──時に灯は、時限爆弾を設置し、しかも自分でそのスイッチを押すことに躊躇がない。
「……あー、いいけどさ。
お姉ちゃんとかには、内緒にしてよね?」
「ココだけの話ってやつだな。」
僕がそう言うと、ひまりは少しだけ迷った顔をしながらも、
自分の部屋へ向かい、何やらガサゴソと探し始めた。
やがて戻ってきた彼女は、一枚の紙を手にしていた。
「ホントは兄貴にすら見せたくないけど……まあこの際だしいいかなって。」
差し出されたその紙には、こう書かれていた。
「家族という小さな社会生活」
如何にも、ひまりらしいタイトルだ。
捻くれていて、でもどこか的を射ている。
「ちょっと読ませて!」
灯が興味津々でそれを受け取り、真剣に目を通していく。
「……最初からすごいね。
“まず家族という小さくも甚大なプライベートをこの世界に紹介するべきではないと考えている。
だが兄こと、楠原葵について詳しく説明してみることにする。”
──って、最初からキレッキレだね。」
「……なんて言い草だよ。」
「これ、後で国語の先生に呼ばれたんだよ。
“作文に反逆しているのはお前だけだ”って。」
「……そりゃそうだろ。」
「“プライバシーは大事”って習うくせに、作文では“家族のこと書け”って言うんだよ?
教師は“矛盾”って言葉、辞書に入れたほうがいいね。」
……これまた、キレッキレである。
ひまりの言葉は、今日も風刺画のように的確だった。
そして灯は──
「これさ、文才じゃん!!」
と、目を輝かせていた。
──僕は、笑ってしまった。
“正しさ”と“ずらし”のバランス。
それを、こんなにも自然に生きているのが、ひまりという妹だった。
「僕からしたら……教師にはちょっと同情しちゃうけどな。」
そう言いながら、ひまりの文章を思い出す。
あれを真っ正面から採点しなければならない教員の苦労も、少しだけ想像できた。
「文章力を褒めない教師ってさ──
それ、教師の皮を被った社会の奴隷だと、あたしは思ってるから。」
あまりにも痛烈な言葉に、思わず笑ってしまった。
「独特の文章力……ではあるとは思う。」
「あとここも読んで! すごいから!」
灯が嬉々として、ひまりの作文の一節を声に出す。
「“兄という存在は唯一の家族であり、本音を言える相手である。
他の家のことは他の家のことであり、うちはうち。と言える兄のことを、尊敬はしている──はず。
だが認めるとは言わない。認めたら調子に乗ることこの上ないからだ。
そして、これは家族に対する取扱説明書ではないことも、記しておく。”」
読み終えたあと、灯は目をキラキラさせながら言った。
「これ……すごい!ほんとすごいよ、感情の粒がそのまま言葉になってる!」
「……なんか、複数の感情が入り混じって大変なことになってる気がするんだが。」
僕が苦笑混じりに言うと──
「……あっ、兄貴は聞くなっ!」
ひまりの顔が、ほんのり赤くなっていた。
たぶん、これが彼女にとっての“最大限の肯定”だったのだろう。
「とはいえ……家族について書くって、題材としては身近で、書きやすい内容ではあるよな。」
僕は何気なく、そう言った。
だが、次の瞬間──
「そうかな。あたしは、違うと思う。」
ひまりが即座に切り返してきた。
「各家庭には、いろんな事情がある。
“普通”なんてものは存在しなくて、どの家も独自のルールと環境があってさ。
それを無理に書かせるって、引かれるかもしれないし、いじめられるかもしれない。
それでも書けって言う作文って……どういう神経してんだろうって、あたしは思う。」
その言葉には、冷静な分析と、どこか突き放した怒りが混ざっていた。
「ど、ド正論をぶちかますね……ひまりちゃん。」
灯が苦笑混じりに言うと、ひまりは肩をすくめた。
「家庭に深入りさせるよりさ、兄貴たちが書いてた“社会の論文”みたいに、
もう少し視点を外に向けたほうがいいと思うよ。
あたしだって、兄貴しか書けない作文……すごく嫌だったもん。」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ沈んだ。
「兄貴しか……二人……だもんな。」
その一言が、静かに響く。
“両親”という言葉が、頭をよぎった。
そして、その言葉に導かれるように、
──“真奈美”と“裕也”の名前が脳裏に浮かぶ。
「……明日のバイトで、回収人さんに聞いてみるとするかな。」
「え? 何を?」
「その作文とやらを──もう2人、増やせるかもしれないって話さ。」
「……兄貴って、遠回しにそういうこと言うよね。」
「ひまりちゃんも、人のこと言えないと思うけどね?」
灯の鋭いツッコミが飛び、ふたりとも一瞬沈黙したあと、
同時に、ふっと笑い声がこぼれた。
その夜の会話は、スパイスのように少し苦くて、少し熱かった。
──時間は、21時を過ぎた頃。
灯は、ひまりの作文を片手に、論文を書き殴っていた。
「……それ、そんなに参考になるか?」
つい気になって、問いかけてしまった。
「うん!やっぱり、ひまりちゃんすごいよ。
文の構成もそうだし、視点の置き方が……大人レベルっていうか、すごく“人間”なんだよね。」
「……そんなものかなぁ。」
ぼんやりと、灯の横顔を見ながら、答える。
まっすぐ紙と向き合う彼女の姿には、雑味がない。
ただ一途に、“誰かの想い”をすくい取ろうとする姿勢があった。
「家族ってさ。
第三者から見て、はじめて分かることって、多いと思うんだよね。」
即座にそう言った灯の思考回路は、僕の想像の斜め上を走っている。
「……それは、たしかにそうだな。
明日のバイトで、聞くべきこともまとめておかないと。」
「私にもさ。協力、させてほしい。」
そう言う灯の声は、まるでテレビを静かに見つめるような、まっすぐな音だった。
「……無理だけは、しないでくれよ。」
「私を“下”から戻してくれたお返しだよ。だから、ちゃんと受け取って。」
「……そう言われると、断れないな。」
「そもそも断らせる気、ないからね!」
笑いながら、灯はペンをそっと置いた。
彼女の中で、何かが一区切りついたような音がした。
「なぁ……家、まだ誰も帰ってこないのか?」
「うん。お母さんは……もう、ほとんど毎日いない。
お姉ちゃんは、バイト掛け持ちで。あたしの学費のために、だって。」
「……そっか。」
夜の静けさが、灯の声に重なる。
「じゃあさ。……うちに、泊まっていくか?」
「……いいの? アパートで一人きりって、まだこの歳だと、やっぱ寂しくてさ。」
「うちには、灯含めて──3人いる。
いいじゃん、それで。」
そう言いながら、僕は立ち上がり、控えの布団を取り出した。
灯は、小さく「うん」と頷いて、僕の背中を見ていた。
──それは、夜に灯る、名もない安心だった。
社会問題は、いつも“遠い話”のように見えて、
本当は、家の中や夕食の会話のすぐそばにあるのかもしれない。
カレーの匂いの中で語られた作文と論文。
そこには、“正しさ”ではなく“らしさ”があった。
感情から始まる思考が、
世界と向き合う第一歩になってくれたら──それだけで、十分だと思う。




