表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君たちの両親は、ここにはない  作者: コトカリ。
プリマナチュールがある未成年しかいない家
3/7

購買行動の論文

名前を聞いただけで、心がざわつくことがある。

それは、まだ言葉にならない記憶の形。

何気ない買い物の道すがら、冗談と沈黙のあいだに、僕たちは少しずつ“真実の名前”に近づいていく。


これは、普通の一日を装いながらも、“世界のほつれ”が静かに顔を覗かせる、そんな放課後の物語。

僕たち二人は、買い物という名の“購買行動”を強制されていた。

資本主義社会における最低限の生存活動。

言ってしまえば、これは「自炊版サバイバル」である。


「灯さ、あんまりうちのこと気にするなよ。

アキラには“仲は良好”って伝えてるしさ。」


「葵くん、ご飯ってタダで食べるものじゃないんだよ?

“労働して初めてご飯が食べられる”って、これ人生の基本だから!」


「それを言われたら…返す言葉がないな。」


「本来なら、私、一食分払わないといけないの。

でもそれができないから、せめて行動に変えてるの。」


「……労働脳してるな、灯は。」


そんな真面目とも皮肉とも取れる会話をしていたその時、

ふいに聞き覚えのある声が飛んできた。


「おお〜!ふたりとも、なになに?デート中〜?」


振り向くと、春樺がいた。

彼女の登場には、毎回“イベント感”がある。


「よう。夕飯の買い出し。」


「えー、もう同棲してるの?」


「してない。“かくかくしかじか”だよ。」


「なるほど!」


「え、それで分かるの!?説明略したのに!?」


春樺の脳内には、きっと“省略補完AI”でも搭載されてるのだろう。

会話の文脈から最適解を出すことに長けすぎている。


──でも、ふと僕は思った。

第三者から見た僕たちは、いったいどう映っているのだろう、と。


「まあ、バイトが一緒だしさ。顔でバレるんだよ。」


「……ちょっと、嫉妬しちゃうなぁ。」


灯が、冗談めかして、でも少しだけ本気っぽく言った。


「そう言わないでくれよ……」


苦笑しながら返すと、春樺が場の空気を感じ取ったように言った。


「わ、私が来たから空気壊しちゃったかも……ごめんね?」


「いや、春樺が悪いわけじゃない。」


「そう!春樺ちゃんは悪くないよ!」


「この空気感は……カップルならでは、ってやつだな。」


「ふ〜ん? 自慢?……あはは。

なんかね、そういえば“回収人さん”から伝言があるって言われてたんだった。」


その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わる。


「え?何かあるの?」


灯が少し身を乗り出して聞いてくる。


「回収人さんって……私を戻してくれた人、だよね?」


「うん。変な人だけど……まあお世話になってる。なんというか、絶妙な感覚の人なんだよね。」


春樺はそう前置きしてから、声のトーンを少し落として続けた。


「で、その絶妙な人が言ってたの。

“真奈美”って名前と、“裕也”って名前に覚えはないか、って。」


「……あ、え?……うーん……。」


一瞬、脳の奥がざわつくような感覚が走った。

思い出しそうな気がする。

でも、思い出そうとすると、なぜか頭の奥がきゅっと締め付けられる。


──まるで“そこには触れてはいけない”と、どこかが拒絶しているような。


「わからなかったら、明日のバイトでまた話があるって。……いつも通りだね。」


「うん……いつも通りだなぁ……。」


そのやり取りを残して、春樺は手を振った。


「じゃ、またね!……そういえばこのあと、友達と遊ぶ予定が〜!」


あいかわらず、何やら忙しそうだった。


「やれやれ……春樺のやつ……」


自然と、そんな言葉が口からこぼれていた。

あの人は、いつも突然現れて、空気をかき混ぜて、風のように去っていく。


「さっきの名前の人……誰なんだろうね?」


灯がぽつりと呟く。


「本当に。それが分かれば苦労しないんだけどさ。

でも、なんとなく……どこかで聞いたことがあるような、そんな気がする。」


記憶の奥で、ノイズのように引っかかる名前。

でも、それ以上は何も出てこない。


「ふぅん。……あ、そういえばそろそろスーパーだよ。

てか、クミンとかカルダモンって……これ、楠原家のカレーって香辛料からこだわるの?」


「いや、それは完全にひまりの采配だな。

でも、味にはめちゃくちゃうるさいんだよ。うまいまずいの判断が、一刀両断って感じでさ。」


「なるほど。香辛料だらけだと、それだけで説得力すごいもんね。」


灯がメモを覗き込む。


「えーと、牛肉、板チョコ、人参……って、何ちゃっかり板チョコ書いてるんだよ。」


「それ、隠し味らしいよ?」


「カレーに入れるとコクが出るってやつ?」


「そう。あと、ブラックコーヒーも入れることあるらしい。

──ちなみに僕は、まだその完成品を食べたことがない。」


「じゃあ、今日は初体験だね。

……あ、そういう意味じゃなくて、カレーの話!」


灯が慌てて訂正してくるのを見て、つい笑ってしまった。


ほんの少しだけ、頭の奥のざわつきが遠のいた気がした。


「やれやれ……春樺のやつ……」


自然と、そんな言葉が口からこぼれていた。

あの人は、いつも突然現れて、空気をかき混ぜて、風のように去っていく。


「さっきの名前の人……誰なんだろうね?」


灯がぽつりと呟く。


「本当に。それが分かれば苦労しないんだけどさ。

でも、なんとなく……どこかで聞いたことがあるような、そんな気がする。」


記憶の奥で、ノイズのように引っかかる名前。

でも、それ以上は何も出てこない。


「ふぅん。……あ、そういえばそろそろスーパーだよ。

てか、クミンとかカルダモンって……これ、楠原家のカレーって香辛料からこだわるの?」


「いや、それは完全にひまりの采配だな。

でも、味にはめちゃくちゃうるさいんだよ。うまいまずいの判断が、一刀両断って感じでさ。」


「なるほど。香辛料だらけだと、それだけで説得力すごいもんね。」


灯がメモを覗き込む。


「えーと、牛肉、板チョコ、人参……って、何ちゃっかり板チョコ書いてるんだよ。」


「それ、隠し味らしいよ?」


「カレーに入れるとコクが出るってやつ?」


「そう。あと、ブラックコーヒーも入れることあるらしい。

──ちなみに僕は、まだその完成品を食べたことがない。」


「じゃあ、今日は初体験だね。

……あ、そういう意味じゃなくて、カレーの話!」


灯が慌てて訂正してくるのを見て、つい笑ってしまった。


ほんの少しだけ、頭の奥のざわつきが遠のいた気がした。


ふと思ったことが、口をついて出た。


「日本のカレーと、インドのカレーってさ……比べたらいけないんだよな。」


灯はすぐに頷いて、答える。


「あれね、焼きそばとカップ焼きそばくらい違うからね。」


「……あ、それ、分かりやすいかもしれない。」


同じ名前をしているのに、中身はまるで別物──

言葉って、時にそういうトリックを平然とやってのける。


「“同じ言葉で違うもの”って、他にもあるよね。」


「ソースとかまさにそうじゃない?

ウスターソースの“ソース”かと思ったら、証拠としての“ソース”だったり。」


「いや、うん……それはそれで違う話の気もするけど?」


ふたりして、軽く笑う。


スーパーのレジ前には、買い物袋を抱えた人々が列をなしていた。

その中で僕らだけが、カレーと焼きそばとソースについて、真剣に話していた。


──それが、なんだか少しだけ誇らしかった。


「なんかさ、葵くんって、成績は真ん中くらいなのに……物知りだよね。」


「それ、褒めてるのか貶してるのか、どっちかにしてほしい。」


「ほ、褒めてるってば!

なんかこう……評価されないところが、ちゃんと評価されてるっていうか!」


──そこまで訂正しなくてもいいのに、と思った。

でも灯の中では、「関係を失いたくない」が第一にあるのだろう。

それが言葉の端々に、少しずつ滲んでいる。


「まぁ、授業が全てってわけじゃないしさ。

今の点数から“可能性”を見出すために、みんな大学とか専門学校に進むんじゃないかな。」


「0点じゃなきゃ、可能性はあるもんね。みんな。」


その会話の途中で、不意に店員の声が割り込んできた。


「あ……お会計、2043円です。」


僕たちの“哲学的なレジ待ち”に、店員さんは明らかに話しかけづらそうだった。


「あ、すみません。……2053円で。」


「10円のお返しです。」


その店員の名札に、ふと視線が向いた。

そこには──「原」の文字。


──どこかで、聞いた気がする。


その瞬間、背中にひやりとした感覚が走った。

記憶の扉が、わずかに軋む音を立てた気がした。


マイバッグを取り出して、買ったものを一つひとつ詰めていく。

この瞬間だけは、まるで“生活”という名前のパズルを組み立てているような気がする。


そんな中、灯がちらりと僕の横顔を見て、聞いてきた。


「さっきの店員さんの名札、見てたよね。……どうしたの?」


「いや……どこかで聞いた苗字な気がしただけ。」


「その、回収人さん? 繋がり?」


「……多分そう。

でも、なんか……名前を聞くだけで疲れるんだよ。

だから今日はもう、やめとこうかな。」


その言葉は、想像以上に自分の声に近かった。

静かだけど、確かな“拒絶”だった。


「……そうだね。疲れた顔は見たくないし!」


灯はそう言って、微笑んだ。

きっと、それが彼女なりの気遣いだった。

僕は、素直にその優しさに甘えることにした。


「……悪いな。」


「いいのいいの。

──あ、そういえばさ、楠原家のカレーって、中辛くらいなの?」


「うちでしか食べないからよく分かんないけど……まあ、多分それくらい。」


「外では食べないの?」


「食べないな。外食って、寿司とかラーメンとか……“そこでしか味わえないもの”を食べたいんだよ。」


「わかる気がする! でもね、外のカレーも美味しいよ!

今度、一緒に食べに行こうよ?」


「うん、行こうか。」


ほんの少し、疲れていた気持ちが和らいだ気がした。


「……てかさ、今日の宿題。なんか軽く論文みたいなやつ出てたじゃん。

どうする?」


「一緒にやりたいのは山々だけど……さすがに丸パクリはよくないよな。」


そう言いながら、カートを押して外に出る。

夜の風が少し涼しくて、いつもより“世界が柔らかい”気がした。


帰り道、僕たちは今日の宿題──“論文”について話していた。


「論文ってさ、自分のことなのに“私は〜”とか“〜と思う”とか使っちゃいけないって言うよね。」


灯が、不思議そうに言った。


「まあ、あれって“大人っぽく振る舞うためのルール”みたいなもんだよ。

“〜である”で揃えると、それっぽく見える……ってだけでさ。」


「自分の思ったことも、“〜である”で確定しないといけないの?」


「……それが“世の理”ってやつなんじゃないかな。

この場合、“それが世の理である”って言うべきか?」


ふたりで笑う。

論文の文法だけで話していると、いつの間にか人格までカチカチに硬化していく気がする。


「ははっ、なんか論文の文法だけ使うと、硬い人間になっちゃうね。」


灯はそう言いながら、どこか楽しそうに続けた。


「でもさ、ひまりちゃんとか、論文得意そうじゃない?」


「うーん……どうかな。

ひまりは“捻くれ論文”の達人だから。

教師はきっと、毎回採点しながら頭抱えてると思うよ。」


「えー!なにそれ、気になる〜!後で聞いてみよ? 楽しそう!」


「……なんでも楽しそうにするなぁ。」


そう言いながら、僕も笑っていた。

“である”の世界から、ほんの少しだけ離れて。


そろそろ家が見えてきた。

どうしてだろう。行きよりも、帰り道の方がいつも短く感じる。

不思議なことだ──いや、たぶん、それは“安心”のせいかもしれない。


「ただいまー。」


「買ってきました〜。」


玄関を開けると、ひまりの声がすぐ返ってきた。


「お。兄貴に灯ちゃん、おかえり〜。……なにその、頭が硬そうな顔。」


「なんでそんなすぐ分かるんだよ。今日の宿題が論文だからさ。」


「あー、なるほどね。

“自分の価値観を世界に認めてもらうために、特定の文字列を使って表現しないといけない”──

一種のリポグラム的なやつ?」


「……なぜ、“論文”の二文字でそこまでの皮肉を即興で詰め込めるんだよ。」


「そんなの興味ないからだよ。

あんなの、“自分の自己満”と“社会の自己満”が入り交じっただけの文章でしょ。

──で、香辛料とか買ってきた?」


「あ、うん。この辺でいいかな? あとひまりちゃん、論文っていうか……作文とか書いたことある?」


「これと、これと……うん。ありがと。

作文なら、書いたよ。家族のこと、かなぁ。

“なんでそんなプライバシーをSNSの如く晒さなきゃいけないんだ”って思ってたけどね。」


「……ちょっと見てみたいかも。」




「……カレー作って食べたあとね。」


灯が、思わず食い気味に言った。

まるで、“子どものおもちゃのおねだり”のように。


そんな灯の声に、ひまりが少しだけ笑った気がした。


買い物をしながら笑い合う会話の中に、

ふと紛れ込む名前や違和感。

日常のすき間からこぼれ落ちた小さな引っかかりが、やがて物語を動かしていく。


“普通”の中にある“異常”を、僕たちはまだ受け止めきれていないのかもしれない。

けれど、それでも進んでいく。名前を抱えて、生活という道の上を。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ