購買行動の論文
名前を聞いただけで、心がざわつくことがある。
それは、まだ言葉にならない記憶の形。
何気ない買い物の道すがら、冗談と沈黙のあいだに、僕たちは少しずつ“真実の名前”に近づいていく。
これは、普通の一日を装いながらも、“世界のほつれ”が静かに顔を覗かせる、そんな放課後の物語。
僕たち二人は、買い物という名の“購買行動”を強制されていた。
資本主義社会における最低限の生存活動。
言ってしまえば、これは「自炊版サバイバル」である。
「灯さ、あんまりうちのこと気にするなよ。
アキラには“仲は良好”って伝えてるしさ。」
「葵くん、ご飯ってタダで食べるものじゃないんだよ?
“労働して初めてご飯が食べられる”って、これ人生の基本だから!」
「それを言われたら…返す言葉がないな。」
「本来なら、私、一食分払わないといけないの。
でもそれができないから、せめて行動に変えてるの。」
「……労働脳してるな、灯は。」
そんな真面目とも皮肉とも取れる会話をしていたその時、
ふいに聞き覚えのある声が飛んできた。
「おお〜!ふたりとも、なになに?デート中〜?」
振り向くと、春樺がいた。
彼女の登場には、毎回“イベント感”がある。
「よう。夕飯の買い出し。」
「えー、もう同棲してるの?」
「してない。“かくかくしかじか”だよ。」
「なるほど!」
「え、それで分かるの!?説明略したのに!?」
春樺の脳内には、きっと“省略補完AI”でも搭載されてるのだろう。
会話の文脈から最適解を出すことに長けすぎている。
──でも、ふと僕は思った。
第三者から見た僕たちは、いったいどう映っているのだろう、と。
「まあ、バイトが一緒だしさ。顔でバレるんだよ。」
「……ちょっと、嫉妬しちゃうなぁ。」
灯が、冗談めかして、でも少しだけ本気っぽく言った。
「そう言わないでくれよ……」
苦笑しながら返すと、春樺が場の空気を感じ取ったように言った。
「わ、私が来たから空気壊しちゃったかも……ごめんね?」
「いや、春樺が悪いわけじゃない。」
「そう!春樺ちゃんは悪くないよ!」
「この空気感は……カップルならでは、ってやつだな。」
「ふ〜ん? 自慢?……あはは。
なんかね、そういえば“回収人さん”から伝言があるって言われてたんだった。」
その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わる。
「え?何かあるの?」
灯が少し身を乗り出して聞いてくる。
「回収人さんって……私を戻してくれた人、だよね?」
「うん。変な人だけど……まあお世話になってる。なんというか、絶妙な感覚の人なんだよね。」
春樺はそう前置きしてから、声のトーンを少し落として続けた。
「で、その絶妙な人が言ってたの。
“真奈美”って名前と、“裕也”って名前に覚えはないか、って。」
「……あ、え?……うーん……。」
一瞬、脳の奥がざわつくような感覚が走った。
思い出しそうな気がする。
でも、思い出そうとすると、なぜか頭の奥がきゅっと締め付けられる。
──まるで“そこには触れてはいけない”と、どこかが拒絶しているような。
「わからなかったら、明日のバイトでまた話があるって。……いつも通りだね。」
「うん……いつも通りだなぁ……。」
そのやり取りを残して、春樺は手を振った。
「じゃ、またね!……そういえばこのあと、友達と遊ぶ予定が〜!」
あいかわらず、何やら忙しそうだった。
「やれやれ……春樺のやつ……」
自然と、そんな言葉が口からこぼれていた。
あの人は、いつも突然現れて、空気をかき混ぜて、風のように去っていく。
「さっきの名前の人……誰なんだろうね?」
灯がぽつりと呟く。
「本当に。それが分かれば苦労しないんだけどさ。
でも、なんとなく……どこかで聞いたことがあるような、そんな気がする。」
記憶の奥で、ノイズのように引っかかる名前。
でも、それ以上は何も出てこない。
「ふぅん。……あ、そういえばそろそろスーパーだよ。
てか、クミンとかカルダモンって……これ、楠原家のカレーって香辛料からこだわるの?」
「いや、それは完全にひまりの采配だな。
でも、味にはめちゃくちゃうるさいんだよ。うまいまずいの判断が、一刀両断って感じでさ。」
「なるほど。香辛料だらけだと、それだけで説得力すごいもんね。」
灯がメモを覗き込む。
「えーと、牛肉、板チョコ、人参……って、何ちゃっかり板チョコ書いてるんだよ。」
「それ、隠し味らしいよ?」
「カレーに入れるとコクが出るってやつ?」
「そう。あと、ブラックコーヒーも入れることあるらしい。
──ちなみに僕は、まだその完成品を食べたことがない。」
「じゃあ、今日は初体験だね。
……あ、そういう意味じゃなくて、カレーの話!」
灯が慌てて訂正してくるのを見て、つい笑ってしまった。
ほんの少しだけ、頭の奥のざわつきが遠のいた気がした。
「やれやれ……春樺のやつ……」
自然と、そんな言葉が口からこぼれていた。
あの人は、いつも突然現れて、空気をかき混ぜて、風のように去っていく。
「さっきの名前の人……誰なんだろうね?」
灯がぽつりと呟く。
「本当に。それが分かれば苦労しないんだけどさ。
でも、なんとなく……どこかで聞いたことがあるような、そんな気がする。」
記憶の奥で、ノイズのように引っかかる名前。
でも、それ以上は何も出てこない。
「ふぅん。……あ、そういえばそろそろスーパーだよ。
てか、クミンとかカルダモンって……これ、楠原家のカレーって香辛料からこだわるの?」
「いや、それは完全にひまりの采配だな。
でも、味にはめちゃくちゃうるさいんだよ。うまいまずいの判断が、一刀両断って感じでさ。」
「なるほど。香辛料だらけだと、それだけで説得力すごいもんね。」
灯がメモを覗き込む。
「えーと、牛肉、板チョコ、人参……って、何ちゃっかり板チョコ書いてるんだよ。」
「それ、隠し味らしいよ?」
「カレーに入れるとコクが出るってやつ?」
「そう。あと、ブラックコーヒーも入れることあるらしい。
──ちなみに僕は、まだその完成品を食べたことがない。」
「じゃあ、今日は初体験だね。
……あ、そういう意味じゃなくて、カレーの話!」
灯が慌てて訂正してくるのを見て、つい笑ってしまった。
ほんの少しだけ、頭の奥のざわつきが遠のいた気がした。
ふと思ったことが、口をついて出た。
「日本のカレーと、インドのカレーってさ……比べたらいけないんだよな。」
灯はすぐに頷いて、答える。
「あれね、焼きそばとカップ焼きそばくらい違うからね。」
「……あ、それ、分かりやすいかもしれない。」
同じ名前をしているのに、中身はまるで別物──
言葉って、時にそういうトリックを平然とやってのける。
「“同じ言葉で違うもの”って、他にもあるよね。」
「ソースとかまさにそうじゃない?
ウスターソースの“ソース”かと思ったら、証拠としての“ソース”だったり。」
「いや、うん……それはそれで違う話の気もするけど?」
ふたりして、軽く笑う。
スーパーのレジ前には、買い物袋を抱えた人々が列をなしていた。
その中で僕らだけが、カレーと焼きそばとソースについて、真剣に話していた。
──それが、なんだか少しだけ誇らしかった。
「なんかさ、葵くんって、成績は真ん中くらいなのに……物知りだよね。」
「それ、褒めてるのか貶してるのか、どっちかにしてほしい。」
「ほ、褒めてるってば!
なんかこう……評価されないところが、ちゃんと評価されてるっていうか!」
──そこまで訂正しなくてもいいのに、と思った。
でも灯の中では、「関係を失いたくない」が第一にあるのだろう。
それが言葉の端々に、少しずつ滲んでいる。
「まぁ、授業が全てってわけじゃないしさ。
今の点数から“可能性”を見出すために、みんな大学とか専門学校に進むんじゃないかな。」
「0点じゃなきゃ、可能性はあるもんね。みんな。」
その会話の途中で、不意に店員の声が割り込んできた。
「あ……お会計、2043円です。」
僕たちの“哲学的なレジ待ち”に、店員さんは明らかに話しかけづらそうだった。
「あ、すみません。……2053円で。」
「10円のお返しです。」
その店員の名札に、ふと視線が向いた。
そこには──「原」の文字。
──どこかで、聞いた気がする。
その瞬間、背中にひやりとした感覚が走った。
記憶の扉が、わずかに軋む音を立てた気がした。
マイバッグを取り出して、買ったものを一つひとつ詰めていく。
この瞬間だけは、まるで“生活”という名前のパズルを組み立てているような気がする。
そんな中、灯がちらりと僕の横顔を見て、聞いてきた。
「さっきの店員さんの名札、見てたよね。……どうしたの?」
「いや……どこかで聞いた苗字な気がしただけ。」
「その、回収人さん? 繋がり?」
「……多分そう。
でも、なんか……名前を聞くだけで疲れるんだよ。
だから今日はもう、やめとこうかな。」
その言葉は、想像以上に自分の声に近かった。
静かだけど、確かな“拒絶”だった。
「……そうだね。疲れた顔は見たくないし!」
灯はそう言って、微笑んだ。
きっと、それが彼女なりの気遣いだった。
僕は、素直にその優しさに甘えることにした。
「……悪いな。」
「いいのいいの。
──あ、そういえばさ、楠原家のカレーって、中辛くらいなの?」
「うちでしか食べないからよく分かんないけど……まあ、多分それくらい。」
「外では食べないの?」
「食べないな。外食って、寿司とかラーメンとか……“そこでしか味わえないもの”を食べたいんだよ。」
「わかる気がする! でもね、外のカレーも美味しいよ!
今度、一緒に食べに行こうよ?」
「うん、行こうか。」
ほんの少し、疲れていた気持ちが和らいだ気がした。
「……てかさ、今日の宿題。なんか軽く論文みたいなやつ出てたじゃん。
どうする?」
「一緒にやりたいのは山々だけど……さすがに丸パクリはよくないよな。」
そう言いながら、カートを押して外に出る。
夜の風が少し涼しくて、いつもより“世界が柔らかい”気がした。
帰り道、僕たちは今日の宿題──“論文”について話していた。
「論文ってさ、自分のことなのに“私は〜”とか“〜と思う”とか使っちゃいけないって言うよね。」
灯が、不思議そうに言った。
「まあ、あれって“大人っぽく振る舞うためのルール”みたいなもんだよ。
“〜である”で揃えると、それっぽく見える……ってだけでさ。」
「自分の思ったことも、“〜である”で確定しないといけないの?」
「……それが“世の理”ってやつなんじゃないかな。
この場合、“それが世の理である”って言うべきか?」
ふたりで笑う。
論文の文法だけで話していると、いつの間にか人格までカチカチに硬化していく気がする。
「ははっ、なんか論文の文法だけ使うと、硬い人間になっちゃうね。」
灯はそう言いながら、どこか楽しそうに続けた。
「でもさ、ひまりちゃんとか、論文得意そうじゃない?」
「うーん……どうかな。
ひまりは“捻くれ論文”の達人だから。
教師はきっと、毎回採点しながら頭抱えてると思うよ。」
「えー!なにそれ、気になる〜!後で聞いてみよ? 楽しそう!」
「……なんでも楽しそうにするなぁ。」
そう言いながら、僕も笑っていた。
“である”の世界から、ほんの少しだけ離れて。
そろそろ家が見えてきた。
どうしてだろう。行きよりも、帰り道の方がいつも短く感じる。
不思議なことだ──いや、たぶん、それは“安心”のせいかもしれない。
「ただいまー。」
「買ってきました〜。」
玄関を開けると、ひまりの声がすぐ返ってきた。
「お。兄貴に灯ちゃん、おかえり〜。……なにその、頭が硬そうな顔。」
「なんでそんなすぐ分かるんだよ。今日の宿題が論文だからさ。」
「あー、なるほどね。
“自分の価値観を世界に認めてもらうために、特定の文字列を使って表現しないといけない”──
一種のリポグラム的なやつ?」
「……なぜ、“論文”の二文字でそこまでの皮肉を即興で詰め込めるんだよ。」
「そんなの興味ないからだよ。
あんなの、“自分の自己満”と“社会の自己満”が入り交じっただけの文章でしょ。
──で、香辛料とか買ってきた?」
「あ、うん。この辺でいいかな? あとひまりちゃん、論文っていうか……作文とか書いたことある?」
「これと、これと……うん。ありがと。
作文なら、書いたよ。家族のこと、かなぁ。
“なんでそんなプライバシーをSNSの如く晒さなきゃいけないんだ”って思ってたけどね。」
「……ちょっと見てみたいかも。」
「……カレー作って食べたあとね。」
灯が、思わず食い気味に言った。
まるで、“子どものおもちゃのおねだり”のように。
そんな灯の声に、ひまりが少しだけ笑った気がした。
買い物をしながら笑い合う会話の中に、
ふと紛れ込む名前や違和感。
日常のすき間からこぼれ落ちた小さな引っかかりが、やがて物語を動かしていく。
“普通”の中にある“異常”を、僕たちはまだ受け止めきれていないのかもしれない。
けれど、それでも進んでいく。名前を抱えて、生活という道の上を。