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君たちの両親は、ここにはない  作者: コトカリ。
プリマナチュールがある未成年しかいない家
2/7

新近性効果と不在の家族

「記憶」とは、時にやっかいな存在だ。

過去を覚えているからこそ人は後悔するし、忘れるからこそ笑っていられる。

では、記憶に“順番”があるとしたら──

人間はきっと、最近のことから順に、世界を「正しい」と思い込んでしまう。


本編はそんな“新近性効果”に揺れながら始まります。

かつて誰かを失った少年は、今度こそ“ちゃんと覚えていよう”と決意する。

けれど、「家族」や「恋愛」や「過去」は、時に人間の論理をすり抜けて、何かを曖昧にしてしまう。


これは“記憶にまつわる物語”であり、

同時に、『君たちの名前は、ここにはない。』の続きである、

──ある夏の断片です。


どうぞ、もう一度“彼ら”の世界へ。

“新近性効果”という言葉をご存知だろうか。

──ある出来事を、より最近の記憶として優先的に思い出す傾向のことをそう呼ぶ。

要するに、「直近のことしか覚えてない人間」が、科学的に救済されているということだ。

そして僕は、そんな人間の代表である。


6時間目の国語の授業。

僕は、聞いてるようで聞いていないという高度な集中力のバランスを維持しながら、こっそり辞典を開いていた。

“新近性効果”。

ああ、まさに僕のためにある言葉だ、とか思いながら。


「おい、楠原。ここ、教えてくんね?」


唐突に肩を叩かれ、現実に引き戻される。

辞典を見ていただけなのに、いつのまにか「なんか知ってそうなキャラ」扱いされている。

困る。僕は頭がいいわけではなく、辞書を見て専門用語を集めて満足しているだけの存在だ。


「あー、そこはここがこうで……」


結局、教えてしまう。

人から頼られたら断れない──そんな“お人好し”という名の性格が、ここでも顔を出す。


きっと、僕の辞書には「断る」という言葉が、少し薄れて印刷されているのだろう。


さて、6時間目も無事に終了した。

人間は学ぶ生き物らしいが、その前に“片付ける生き物”でもあるらしい。

学生という肩書を背負った僕たちは、授業の後に掃除をする──これはもはや教育の一部というより、宗教的な儀式に近い。


学校側の意図は、おそらくこうだ。

「生徒に責任感を芽生えさせる」「掃除業者に払うコスト削減」

もしくは「教室を自分たちの居場所として認識させるため」など、いかにも教育的意義のようなものが並んでいるのだろう。


だが、こちら側からすればそんなものは二の次だ。

僕らが欲しいのは、気まずくない人間関係。必要なのは、無害な立ち位置。それだけである。


そんな風に、モップで床を撫でていた時だった。


「なぁ、楠原。お前さ、紫原と仲良くやってんのか?」


突然、隣の班の男子が話しかけてきた。

別に人に話して歩いた覚えはない。

そもそも「彼女ができた」なんて明言したこともない。

だが、噂というのは空気より早く広がる。

気づけば、「お前はそういうやつ」というステータスが勝手に更新されている。


「まあ、そりゃあな。」


とりあえず、それっぽい返事をしておいた。否定しても肯定しても面倒な展開になるのは分かっている。


「お前に彼女ができるなんてなぁ……俺にも誰か紹介してくれよ!」


その発言に対して、「いや僕は結婚相談所ではない」と言いたくなるのを、ギリギリで飲み込む。

男子高校生というのは、恋愛の話題になると“他人の実績”を借金のように自分の未来へ投影しようとする傾向がある。


それはきっと、将来の保証が何もないからだ。


──もちろん、僕も含めて。


そして、なんだろう。

どうにも「女子」という分類に属する人たちは、“うわさ話”という名の情報交換を嗜む傾向があるようで──

当然、例に漏れず、僕もその対象にされた。


「楠原くん、最近元気だよね?」


「だって彼女が灯だし、そりゃ元気にもなるでしょ〜」


「ちょっ、そういうこと言わないでよ!」


「あははっ!でもほんと、お似合いだよ〜!」


──なぜこういう時に限って、灯や春樺がその輪に自然に加わってくるのか。

まるで、僕を“生け贄の供物”にでもするかのような空気感。

いや、本人たちに悪気はないのだろう。

でも僕には、“処刑台に登る前の微笑み”のように感じられた。


それでも、僕にはまだ希望が残されている。

そう──それは、終礼だ。


「お前ら〜、帰りの準備はできてるか〜?」


教師がそう声をかける時、そこにこもっているのは“教育への熱意”ではなく、

たぶん、“帰って酒が飲みたい”という社会人のリアルだ。


「ういーす」


やる気のない声で生徒たちが答える。

この「ういーす」に、すべての意味が詰まっている。

“今日も一日、社会という名のシステムに生かされていた”という確認作業のようなものだ。


──さて。

帰ろうか、僕の「不在の家族」がいる場所へ。


放課後のチャイムは、まるでフェスの開幕を告げるファンファーレのようだった。

一斉に席を立ち、靴箱へ向かう人の波。

そのエネルギーに飲まれそうになるたび、僕はふと思う。

──みんな、何と戦っているのだろう。


そんな中、僕は灯と並んで歩く。


「ねえ、バイトのシフト、教えてくれない?

その日、きっと疲れてると思うし。」


その一言は、優しさの仮面をかぶった“予定管理”だった。

でも、彼女にとってはきっとそれが自然なのだ。


「んーと、後で家帰ったら見せるよ。

あと僕、灯が思ってる以上に体力あるからさ。

だから…もうちょっとラフでいいよ?」


言葉を選んで、やんわりと伝える。


「そう?……私ね、親が片親で、水商売なの。

だから昔から体調管理とか…生活リズムとか、

そういうの、妙に気にしちゃうクセがあるの。」


「……いきなり重いな。」


「でしょ。でも、それを“日常会話”として聞いてほしいの。」


灯は、笑っていた。

だけどその笑みの奥にあるものを、僕はまだ言語化できないでいた。


自転車を押しながら歩く男女というのは、

遠目から見ればそれだけで“青春”だの“甘酸っぱい”だのとラベルを貼られがちだ。

だが、僕たちの会話をBGMとして流せば、そのイメージはあっという間に崩壊するだろう。

むしろ聞いた人間は、どこかで頭を抱えるに違いない。


「……片親、か。」


思わず口に出たその言葉は、風に紛れるには少し重かった。


「お父さんはね、逃げたんだよね。

だから、お姉ちゃんとお母さんが、ずっと頑張ってきてくれたの。」


「……男が逃げるって、情けないな。」


僕の中の倫理観がそう答えさせたのか、

それとも、灯の目に見えた傷に対して、

何か言わなくてはならないと、焦っただけなのか。


「私、すごく不思議な気持ちなんだ。

お父さんのこと、大好きだった。

でも、逃げて、お姉ちゃんとお母さんに全部背負わせた──その事実がどうしても残ってる。

それが、すごく、つらいの。」


好きだった人を、嫌いになれない。

けれど、嫌いにならない限り、許すこともできない。

──そんな複雑な言葉の編み目が、彼女の言葉から垣間見えた。


「……好きなところと、嫌いなところが、入り混じってるって感覚か。

お父さんの場合はそれがはっきりしてるんだろうけどさ、

人って……たぶん、小さな“好き”と“嫌い”の積み重ねなんじゃないかな。

全部が“好き”とか、“嫌い”とか、

そんな単純な人間、たぶんいないし。」


言い終えた瞬間、自分でも驚いた。


僕らしくないことを、言った。


──たぶんそれは、灯に“何か”を伝えたいと思った結果だったのだろう。


でも、その“何か”がなんなのかは、

まだ、僕にも分からなかった。


「そっか……じゃあ、葵くんの“好き”と“嫌い”は?」


灯が、不意にそう尋ねてきた。

まるで、空気の流れの中に忍ばせたような問いだった。


僕は少しだけ考えてから、口を開く。


「人間ってさ、第三者から言われて、初めて気づくことが多いんだよ。

灯との関係だって、最初はそうだった。

……でも、そういえば“嫌い”についてはあんまり考えたことがなかったな。

というか、僕の中で“好き”の対義語って、“嫌い”じゃなくて“無関心”なんだよね。」


言いながら、自分でも「何言ってるんだ僕は」と思った。

でも、それが嘘じゃないことも分かっていた。


「へえ、そうなんだね。……確かに、言われてみて初めて気づかされることって、あるかも。」


「気づき。それが、成長につながる──みたいなさ。」


「……今回の葵くんみたいに?」


灯が、すこし意地悪な笑みを浮かべながら言った。


「……茶化すなよ。」


僕は、つい口元を緩めながら返した。

──それは、彼女の言葉が嬉しかった証拠でもあった。


ともあれ、僕たちはまるでメビウスの輪の上を歩いているようだった。

端があるようで、終わりがなく。

終わりがないようで、ふとした瞬間に裏返る。

そんな会話の連続が、自宅へと続く帰路でも変わることはなかった。


そして、玄関の扉を開ける。


「ただいま。」


「……お、おじゃましま~す。」


灯は少し縮こまって声を出す。

他人の家というものは、いくつになっても緊張する場所なのだろう。

普段の彼女からは想像できない“おどおど感”が、むしろ微笑ましかった。


「おっ、兄貴ぃ〜……リアル充実してる帰宅をして、アタシは誠に嬉しいぞ〜!」


ひまりの声が、リビングから飛んできた。

その言葉のチョイスとテンションには、もはや慣れた。

慣れたけれど、いちいち対応せざるを得ない。


「……どんな目線で言ってんだ。」


そう返すと、ひまりはピースでもしてそうな顔でニヤニヤしていた。


「ひまりちゃんも、お兄ちゃんのことが大好きなんだね。」


──話は、思わぬ方向に舵を切った。

灯のその一言は、静かなリビングに、突如として投下された爆弾である。


「え、えっ!?兄貴のこと!? そんなわけないじゃん!」


ひまりが全力で手を振って否定し始めた。

そこから先は、まるで用意されていたかのような滑舌でまくしたてる。


「ほら兄貴って、感情OSのバージョン最古の更新世レベルだし、

ズボラだし、見た目は地味で中身はアウストラロピテクスだよ!?

あれはもう人間というより、考えるヒト風の何かだよ!?」


……なかなかの言い草だった。


「おい、僕はれっきとしたホモ・サピエンスだ。

しかもできれば現代型で認識してほしい。

あと微妙に“人として”の判定が曖昧なのやめろ。」


ひまりの暴論に冷静に突っ込んでみせる。が、灯がすかさず笑顔で追い打ちをかけてきた。


「ふふっ、葵くん。ひまりちゃん、きっとツンデレさんなんだよ。」


「な、なっ……!そんなこと……兄貴だよ!?

あんなのに“ツン”とか“デレ”とか、そういう感情があるわけ──!」


言い切る前に、ひまりの顔が真っ赤になっていることに、誰もが気づいていた。

──もちろん、本人以外は。


「そ、そんなことより、飲み物はなにがいい?」


話題を強引かつ常識的な方向に持ち直す──

それは、ひまりの得意技であり、照れ隠しの常套手段でもあった。


「オレンジジュースがいいかな。いつもありがとね。」


灯は、どうやら甘い飲み物が好きらしい。

彼女が選ぶ確率は、限りなくオレンジジュースに偏っている。


「灯、それ、好きだよな。」


「うん、甘いもの飲むとね、なんか“今日も学校頑張った!”って気持ちになるの!」


その無邪気な理屈が、妙に説得力を持っていて、少し笑ってしまう。


「兄貴は? あたしの飲みかけのブラックコーヒーあるけど。」


「……普通に冷蔵庫にあるやつから入れてくれ。」


「ちぇー、つまんねえの。」


いや、つまらなくはない。

それはただ、当たり前という名の安心だ。



ふと、灯が声のトーンを少し変えた。


「えっとさ……お姉ちゃん、今日の夜、ちょっと遅くなるみたいなの。

だから、もうちょっと長居させてもらってもいい?」


唐突だけど、どこか切実な一言だった。


「あ、あぁ……」


あの“お母さん”に加えて、“穂乃果さん”──

紫原家という名前の中に、きっと多くの事情が折り重なっているのだろう。

僕にはまだ、見えていないだけで。


「いいよ。兄貴の教育は、あたしがやっとくから。」


……何を言っているのか一瞬分からなかった。


「いや待て。色々と、論点がズレすぎている。」


「何を今更。」


まるで、“世界”のズレさえ笑って済ませられるかのように、

ひまりは肩をすくめて見せた。


「ひまりちゃん、夜遅くまでいるならさ、買い物行ってくるよ?」


灯は、本当にどこまで“お人好し”なのだろう。

僕から見れば、それはもうアメジストとそこら辺の土くらい──

宝石と雑草の根っこくらい──差がある。


「え、いいの?好きなだけ食べていいからさ。」


「いやその言い方、完全に野球部の成長期男子向けだからやめて。」


「あはは、いいのいいの。で、何を買ってくればいいのかな?」


「ちょうどメモがあるんだよね。」


テーブルの上には、ギッシリと書き込まれたメモ帳。

野菜、調味料、冷凍の何か──

この家の冷蔵庫の状況を端的に物語っている。


「灯、一緒に行こうか。」


自然な流れで、僕はそう言った。


「兄貴ぃ……百点だね。

あたしは性教育推進動画見てるから、いってらっしゃーい。」


「いや何だその、“ねっとりと終わった感”のある発言は。」


「知識は力なり、だよ。じゃあ気をつけてね~。

あと灯ちゃん、兄貴が何かしでかしたら通報していいから。」


「やめろ。」


ツッコミと笑いが交差する空気の中、

僕たちはメモを手に、夜のスーパーへ向かった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


「君たちの名前は、ここにはない。」の続編として、少しずつ日常と向き合う物語を書いてきました。

家族、恋愛、過去と現在。どれも簡単には言葉にできないけれど、それでも言葉にしようとすることで、誰かの“輪郭”が浮かび上がるのだと思っています。


次回もまた、彼らの歩みを見守っていただければ嬉しいです。


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