パラダイムシフトと両親と恋人。
「当たり前」は、いつから「疑わないこと」になったのか。
空気のように信じていた日常が、ある日、音もなくひび割れる。
これは、“パラダイムシフト”という名の違和感から始まる、僕たちの再構築の物語。
「パラダイムシフト」という語がある。
現代においてそれは、ある一定の枠組みにおいて普遍的とされていた認識が、ある日突然、根本から覆されることを指す言葉として流通している。
たとえば、天動説から地動説への転換。
あるいは、空気が見えないからといって、存在していないとは言い切れないことを知った日。
あるいは、「好き」という感情が、ただの化学反応では片づけられないと知った時も、ある種のパラダイムシフトだと言えるのかもしれない。
ならば、「抜け殻現象」もまた、それに近い。
ある日、誰かが消える。世界から、記録から、人々の記憶から、完璧に。
しかし、僕はそれを知っている。知っているからこそ、疑わなかった。「僕の感情の変化」として処理してしまえば済む話なのだと。
だが、それで済むのなら、そもそもこの物語は必要ない。
ともあれ今は、昼休みだった。
午後の授業という現実の中断を前に、誰もがそれぞれの“仮初めの自由”に手を伸ばす。
弁当箱を広げる者、食券を握りしめて小走りに購買へ向かう者、あるいは──静かにひとりトイレの個室で時間をつぶす者。
この学校という小さな世界の昼休みには、見えない格差と、見て見ぬふりが同居している。
僕はと言えば、灯とともに、屋上へと足を運んでいた。
風が強すぎない程度に吹き抜ける場所。誰にも邪魔されない、でも世界の端っこにいるような、そんな場所。
「ねえ、灯。」
「ん?どうしたの?」
青空は、無遠慮に美しかった。心の準備ができていない僕たちにとって、それは時に暴力だ。
そんな空の下、僕は少しだけ不躾な問いを投げた。
「僕ってさ、特別目立つほうでもないじゃん?……そんな僕の、どこが好きなの?」
“なぜ好きか”という疑問は、もしかすると“好き”を壊す行為なのかもしれない。
だがそれでも、知りたかった。
灯は、少しだけまぶしそうに目を細めながら、言った。
「好きってさ、理由あるのかな?……いや、たぶんあるんだろうけど。ちょっとした気遣いの積み重ねとか、話してて心地良いとか、そういうの。」
「でもね、私にもよくわかんないの。ただ、そういうもんだと思ってる。
好きっていうのは、たぶん、“わからないけど、ある”ってことでしょう?だから──勘違いしないで。」
最後の一文に、必要以上の圧を感じたのは、気のせいだったのだろうか。
まるで、自分の想いを先に証明しておかないと、何かが壊れてしまうかのように。
「…そんなもんか。」
僕は、そう呟いた。
でも本当は、少しだけ分かる気がしていた。
人の気持ちを気にし始めて、初めて“好き”とか“寂しさ”とか、そういう名前のついた感情が、自分にも備わっていると知った。
「ねえ、今日──家行ってもいい?」
灯が、何気ない声で言った。
「いいけど…ひまり、うるさいぞ?」
「いいのいいの。あと、親御さんに挨拶したくて。」
「……親、御さん……?」
その瞬間、頭の奥で何かが軋む音がした。
「そう、ほら、彼氏の家に行くなら、ちゃんとご挨拶しなきゃって。」
「え……そんなこと……」
言いかけて、口が止まった。
なぜなら“思い出せなかった”のだ。
僕の家には、誰がいた?
僕を育てたのは、誰だった?
ひまりがいる。それは確かにいる。でも──それ以外は?
「……ご、ごめんね。挨拶はまた今度で!今日は普通に遊びに来るって感じで!」
「うん、了解。ま、家隣だしね。」
そう言って笑う灯の顔が、なんだか、やけに現実的だった。
逆に、僕の方がこの世界から乖離しているような、そんな感覚。
「ねえ葵。親ってさ、いるのが普通なんだよ。たぶん。」
そう告げた彼女の声は、青空よりも冷たく、
そして、僕の記憶よりもずっと鮮明だった。
さて。あれからというもの、バイトにも手馴れ、灯との関係にも妙な起伏はなかった。
いわゆる「普通」と呼ばれる状態に、僕たちは足を浸していた。
──もっとも、その「普通」という言葉自体が、最も不自然な幻想だったのかもしれないが。
季節は、初夏。
──とカレンダーが告げていたが、肌にまとわりつく湿気と空気の熱量は、既に名実ともに“夏”を主張していた。
きっとこれも地球温暖化の副作用だろう。時代の進歩と人間の愚かさの合作である。
教室の隅では、据え置きの扇風機が一台、ぶうんぶうんとやる気のない音を鳴らしていた。
いや、それは“空気の循環装置”であって、“涼風発生器”ではない。
つまり何が言いたいかというと、暑い。授業に集中できる気温ではない、という話である。
窓際の席で思わず呟いた。
「あっつ……」
すぐさま、教壇から声が飛んできた。
「おい、楠原。こっちも暑いんだ。我慢しろ。」
それが教師としての理論武装の限界なのか、彼はそれ以上の言葉を足さなかった。
職員室の冷房が、今日も快調に回っていることを僕は知っている。多分、彼も知っている。
「はい、すみません。」
反射的にそう返したが、内心では納得などしていない。
理不尽という言葉を、夏のせいにして流し込んだ。
周囲の笑い声が、かすかに教室の温度を下げた気がした。
──気がしただけかもしれないが、それでも、悪くない。
気づいてる方といらっしゃるとは思いますが、前作「君たちの名前は、ここにはない」の続編になります。
以前の作品の伏線をここで回収しようと思っています。
気づいてしまった違和感。
触れてしまった感情。
それは、“君たちの名前は、ここにはない。”という物語の、その先にある問いかけでもあると思います。
では。