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2.オリヴィアの憂鬱



『キャンベル嬢、どうぞこちらへ』


幼いカトリーヌがにこやかに笑いながらひとつの席を手で指し示した。


あぁこれは夢だ、とオリヴィアはすぐに理解した。

忘れたくても忘れられない、あの日の夢。


夢の中のオリヴィアは差し出された席へ座ろうとして、すぐに何かに躓いて派手に転んだ。バタン!という大きな音と周囲からクスクスと笑う声が聞こえてきて思わず顔が赤くなる。

じわりと熱くなる膝に嫌な予感がしてオリヴィアはそっと足元を見た。転けた拍子に土や潰れた草の汁でドレスが汚れてしまっている。おそらく外からは見えないだろうが、膝からは血が出てしまっているだろう。

幼いオリヴィアはこういう時にどうすればよいのか分からなかった。ただ自分がとんでもない失態を犯してしまったことだけは理解できて、恥ずかしくて情けなくて泣きそうになる。

なんとか涙を堪えて立ち上がろうとするオリヴィアの手を赤い靴が踏み躙った。

声は出なかった。痛みよりも驚きが先にきて思わず上を仰ぎ見たオリヴィアは恐怖に凍りついた。


『あらあら!大変』


磨き上げられた可愛らしい靴でオリヴィアの手の甲を踏みにじりながらカトリーヌは屈むと、その艶やかな口でオリヴィアの耳にそっと毒を吹き込んだ。


『いいこと?今度イーサン様に近づいてごらんなさい。こんなものでは済まなくてよ』


美しく嗤うカトリーヌにオリヴィアは恐怖した。立ちなさいと顎で示され、恐怖にガタガタと震えながらなんとか立ち上がる。

痛む足を引き摺りながら席についてー⋯。


そこでオリヴィアはハッと目を覚ました。

慌てて辺りを見回すと見慣れた寝室に安堵の息をつく。ドッドッと早鐘を打つ心臓に額にはじわりとベタついた汗が滲む。オリヴィアはサイドボードに置かれた水差しからコップに水を注ぐと一気に飲み干した。


久しぶりにあの日の夢を見た。

あのあと痛みのあまり震える手で紅茶を飲んだことまでは覚えているが、それ以降のことはあまり覚えていない。気がついたら家にいて、傍付きの使用人から数週間寝込んでいたことを知らされた。

どうやら飲んだ紅茶に何か薬が混ぜられていたらしいと後から父に教えられたとき子どもながらに戦慄したのを覚えている。


オリヴィアは疲れたように顔を覆うと大きく溜め息をついた。こんな夢を見た原因は考えなくても分かる。

イーサンとの婚約が自分でも思っていた以上に恐ろしいのだ。イーサンが、というよりはカトリーヌのことが恐ろしいのだろう。


結局そのお茶会を境にぴたりとイーサンとは会わなくなった。恐らく父が何かしたのだろうと察したが、小さかったオリヴィアはイーサンと会えなくなることよりもこれでカトリーヌから酷いことをされなくて済むのだと心の底から安堵した。


カトリーヌの苛烈さを思い出せば今でもオリヴィアは震えてしまう。


「⋯情けないわ」


オリヴィアは自分自身に呆れた。

子どもの頃の話をいつまでも気に病んでいたって仕方がないのに、いつまでもグジグジと引き摺るなんて。

そう思うのに、どうしてもカトリーヌがイーサンよりもアンディを選んだことが信じられなくて、不安になる。

オリヴィアはカトリーヌとアンディが恋仲ということがどうしても信じられなかった。オリヴィアの知るカトリーヌはイーサンとの婚約破棄を黙って受け入れる人ではない。


なぜイーサンとカトリーヌは婚約を解消したのだろうか。いや、カトリーヌがアンディと浮気したからなのだが、そもそも何故カトリーヌはアンディと浮気したのだろう。アンディがカトリーヌを好きになるのは分かるのだが、カトリーヌがイーサンよりもアンディを選んだ事実がどうしてもしっくりこない。


そもそもイーサンはこの婚約をどう思っているのだろう。


(ー⋯分からないことだらけだわ)


オリヴィアは本日二回目の溜め息をついた。





コンコンっと扉をノックする音が聞こえる。

集中していたオリヴィアは、はっと読んでいた手紙から顔を上げると「どうぞ」と扉の外に向けて声をかけた。


「お嬢様、お茶がはいりましたよ」

「ありがとう、サラ」

「今日も大変そうですね」

「えぇ…」


心配そうなサラにオリヴィアは眉を下げて笑うと、目を通したばかりの手紙を机の上に戻して痛む目頭をそっと押さえた。


「これ全部招待状ですか?」

「そう。皆この婚約に興味津々みたい」


オリヴィアとイーサンの婚約は瞬く間に社交界に拡がった。

父から話を聞かされた翌々日から沢山の手紙が届くようになり、今ではオリヴィアの机の上は色とりどりの手紙で埋め尽くされている。

仕分けて目を通すだけでも疲労困憊だ。

イーサンが公爵ということもあってか高位貴族からの招待も多く、必要以上に気を遣ってしまう。


サラが準備してくれた紅茶を飲みながら、オリヴィアは積まれた手紙の山をぼんやりと見つめた。

先ほど見ていた招待状には、婚約のお祝いとイーサンがどれ程素晴らしい人物か、そしてそんな素晴らしい相手に選ばれた私はどれほど幸運なのか、ということが熱烈に記されていた。


一見するとオリヴィアの幸運を喜んでいるように見えるが、実際は妬み蔑みを婉曲的えんきょくてきに記しているだけなのがなんとも貴族らしい。

しかもここにある沢山の手紙の殆どが同じような内容なのだから頭が痛い。

なかには歯の浮くような美辞麗句を並べている手紙もあったが、一度も会ったことのない相手からの賛辞なんて空々し過ぎて逆に冷めた。


「⋯今日は公爵様が来られる予定だったわね」

「はい。あと一時間後に来られる予定です。あ!そういえばグロウドリー公爵様とお嬢様は幼馴染なんですよね?昔はよくこの邸にも遊びに来ていたと昔からいる使用人のみんなに教えてもらいました」


楽しそうに話すサラにオリヴィアは曖昧に笑い返す。

オリヴィアとイーサンが婚約して今日で五日。

やっと諸々の後片付けが落ち着いたらしい父から公爵様と我が家で茶会をすることが伝えられた。

当然といえば当然だった。婚約中、一切顔を合わせることなく結婚するほうが稀である。

しかしオリヴィアは父の言葉に少なからず恐怖した。

何故かじわじわと退路を断たれているような気持ちになって落ち着かない。


「小さい頃に少しだけね。幼馴染なんていう大層な間柄じゃないわ」

「そうなんですか?」

「お父様と前公爵様が親友同士なの。それで何度か家に泊まりに来られたことがあったけれど、仲が良かったかと言われたらよく分からないわ」


オリヴィアは瞳を伏せると、カップの中で波打つ紅茶を眺めた。


オリヴィアの記憶の中にいる彼はいつだって本を読んでいた。お喋り好きなオリヴィアに付き合って、読書の合間にぽつりぽつりと返事をしてくれることはあったかもしれないが、それも多くはなかった気がする。

それにー⋯。


「カトリーヌ様とご婚約されてからは一緒に遊ぶこともなくなったし、今では時々参加する舞踏会でお見かけする程度よ」


時折参加する舞踏会で二人を見かけることがあった。

二人並んでいるだけで人の目を惹き、踊れば誰もが感嘆のため息をつく。音楽に合わせて踊る二人は完璧だった。洗練された動きには優雅で無駄がない。

完璧すぎて、どこか遠い世界に住む人たちのように思っていた。


オリヴィアはふとカトリーヌのことを思い浮かべた。カトリーヌは今どうしているのだろう。彼女は今日オリヴィアとイーサンが会うことを知っているのだろうか。

ー⋯知るはずがないと思いつつも、彼女ならば知っていそうな気がする。


「⋯さま。お嬢様」


はっと顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込むサラと目が合った。


「大丈夫ですか?顔色が真っ青ですよ」


心配するサラに「大丈夫よ」と笑ってみせたがどうやらうまくいかなかったらしい。再びサラが何か言おうと口を開きかけたとき、窓の外から馬蹄と車輪の音が聞こえてきた。


「?お父様、もう帰ってきたのかしら⋯」

「いつもよりも少し早いですね。⋯階下(した)に降りられますか?」

「そうね。お出迎えしましょうか」


オリヴィアは椅子から立ち上がる。

窓の外を見るとちょうど玄関前に見慣れた馬車が止まったところだった。

馬車の扉が開かれて、父が降りてくるのが見える。

オリヴィアはそれを見届けてから部屋の扉に向かって踵を返そうとしたその時、馬車の中からもう一人男性が降りてくるのが見えて思わず足を止めた。


「⋯イーサン?」


オリヴィアは思わず呟いていた。

光を弾く銀髪に均整の取れた体躯。父と比べると頭一つ分ほど高い身長。フロックコートをきっちりと着こなし、背筋を伸ばして歩く姿はそれだけで存在感がある。

表情までは見えないが、彼がイーサン・アディンセルであることは間違いなかった。


オリヴィアは思わず震える手を胸元で握ると無意識に一歩後ずさった。困るわ!と心の中で叫ぶ。

まだ心の準備ができていないのに!


「サ、サラ!公爵様が来られたわ!」

「え?もうですか?旦那様とご一緒に来られたんですかね」

「どうしましょう⋯!」

「どうしましょう?!」


どうしましょうとは?とサラは困惑した。


「お嬢様、お出迎えするしかありませんわ」

「い、嫌よ!⋯じゃないわ。そ、そうね、そうよね⋯あぁでも⋯」


なぜそんなに動揺しているのか解らないサラは、なかなかその場から動かない主人のために部屋の扉を開くと「お嬢様、行きますよー」と部屋の外に出るよう促した。

そんなことをしている間に、父とイーサン(らしき人)は邸に向かって歩き出している。


(せめてもう少し後からきてくれたらよかったのに!いいえ、いっそのこと遅刻してくれるくらいで良かったわ)


恨み言を言っていても仕方がない。

オリヴィアはなんとか呼吸を整えると、扉の外で待つサラのもとへ小走りで向かった。






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