1.婚約破棄と新たな婚約者
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
ある晴れた日の午後。
オリヴィア・キャンベルはメイドの言葉に動かしていた手を止めて顔を上げた。可愛らしい紙にインクが染みないようにそっとペンを置く。
「お父様が?」
父親譲りのヘーゼル色の瞳に驚きを滲ませながら座っていた椅子からゆっくりと立ち上がる。
「この時間に邸にいらっしゃるなんて珍しいわね」
「先程お戻りになられたようです」
「…何かあったのかしら」
オリヴィアの言葉にメイドのサラが「わかりません」と眉を下げながら首を横に振った。
嫌な予感に胸がざわつく。どうしたのかしら、と思案していると「お嬢様」という不安そうなサラの声にハッと我に返った。
「ごめんなさい。それで、お父様は今どこにいらっしゃるのかしら?」
「書斎でお待ちとのことです」
理由は分からないが父が来いと言うのなら行くしかない。オリヴィアはサラの言葉に軽く頷くと、書いていた途中の手紙を引き出しの中に仕舞った。
それほど時間をかけずに父の書斎に辿り着いたオリヴィアは一つ深呼吸をしたあとに軽く扉をノックした。
中から「入りなさい」という父の声が聞こえてくるとともにサラが扉を開けてくれる。
扉の先にいつもの定位置に座る父を見認めたオリヴィアは、その普段と変わらない表情にホッと息をついた。どうやらそこまで深刻な話ではないようだ。
「おかえりなさい、お父様」
「ただいま。オリヴィア」
頬にキスを求められて挨拶を交わすと軽く頭を撫でられる。
「さぁ、オリヴィア。ここに座りなさい。サラ、紅茶の準備を」
「畏まりました」
オリヴィアは父に手をひかれて導かれるままふかふかのソファに腰を下ろした。
「今日は何をしていたんだい?」
「庭でお花の世話をしたり、クッキーを焼いたり。あとは先程までアンディ様にお手紙を書いていました」
「オリヴィアの作るクッキーは最高だからね。後で私にも食べさせてくれ」
「勿論です」
可愛らしいお願いにオリヴィアは思わず笑ってしまった。クスクスと楽しそうに笑うオリヴィアに、父ルーカス・キャンベルも嬉しそうに頬を緩める。
オリヴィアの父であるルーカス・キャンベルは穏やかな性格の男だ。もともと優しい顔立ちだが笑うと目尻に刻まれる皺でさらに優しくみえる。
「アンディ・エバンズとは仲良くしているかい?嫌なことをされたりは?」
「嫌なことは何も。アンディ様はお父様みたいにお優しい方よ。最近は忙しいようでなかなか会えていないけれど、それも領民を思ってのことですもの」
オリヴィアは婚約者であるアンディ・エバンズを思い浮かべた。
細身の身体にぴょんぴょんと跳ねた茶色の髪。背はどちらかといえば低い方で、向かい合って並べばその明るい空色の瞳がよく見えた。
気弱だが真面目な性格で、人の多い賑やかな場所よりも人の少ない静かな植物園を好む。
そんな素朴な性格と穏やかな雰囲気は控えめなオリヴィアと相性が良いのか、彼とは今までこれといった問題もなく良好な関係を築けていた。
彼は今、爵位を継ぐために彼の父親から仕事を学んでいる。一カ月に一度会えればいい方で、月に数回手紙のやりとりをするだけのときもある。
婚約者としてはあまりにも淡白な気もするがオリヴィアは気にならなかった。
結婚すれば嫌でも毎日顔を合わせるのだし、それよりも領民のために毎日頑張っている彼を応援したい気持ちのほうが強かったからだ。
仲良くしてますよと笑うオリヴィアに、ルーカスは娘に気付かれない程度に口端に力を込めた。
オリヴィア付きのメイドであるサラが静かにお茶を準備していく。淹れたての紅茶の香りが鼻腔を擽り、やさぐれたルーカスの心を少しだけ慰めてくれた。
メイドと笑い合う娘に胸が痛む。
これから話すことは少なからず娘を傷つけるだろう。楽しげに紅茶を楽しむ娘に、ルーカスは重い口を開いた。
「オリヴィアは彼の事が好きかい?」
「勿論」
「それは恋か?それとも人として好ましい?」
「え?」
オリヴィアは驚いて父を見た。
真剣な表情でこちらを見つめる父に、オリヴィアは困惑しつつも素直に答えた。
「これが恋かは分かりません。ですがアンディ様のことを好ましいと思ってるのは本当です」
「会えないと寂しいと感じるかい?」
「はい」
「彼の事が気になったり、誰といるのか不安になったりすることは?会いたくて食事が喉を通らなかったりすることはあるかい?」
「そ、そこまでは⋯」
「オリヴィア」
ルーカスは娘の瞳を見つめる。
「落ち着いて聞いてほしい。実は先日、アンディ・エバンズとお前の婚約破棄が正式に決定した」
「⋯え?」
オリヴィアは間抜けに口を開けたまま固まった。
後ろでサラの息を呑む声が聞こえた気がしたが、オリヴィアの頭の中は先ほどの父の言葉でいっぱいだった。上手く処理できずに単語がバラバラに頭の中で踊っている。
「混乱するのも無理はない」
ルーカスははぁ、と苦々しい溜息をつくと乾いた喉を紅茶で潤した。
私だって寝耳に水だったのだから、と疲れたように呟く父にオリヴィアはようやく現実がのみ込めてくる。
「本当に婚約破棄されたのですか?誤解とかではなく?」
「誤解はないが一つ訂正するなら、婚約は破棄されたのではなくこちらから破棄した」
「え?」
「オリヴィア。この件に関してお前に落ち度は一切ない。これはアンディ・エバンズの問題だ」
「⋯アンディ様の?」
訳が分からないと眉を寄せるオリヴィアに、父は渋い紅茶でも飲んでしまったかのように顔を顰めた。
「アンディ・エバンズは、婚約者であるお前がいながら他の令嬢にも手を出していた。その令嬢と結婚するからお前との婚約を解消してほしいと私に直談判してきたよ。こちらとしてもそんな男と可愛い娘の婚約関係を継続させるつもりはない。その場で破棄に合意させた」
淡々と告げる父に眩暈がする。
オリヴィアは無意識に前のめりになっていた身体をゆっくりと元に戻した。
アンディ様が他の令嬢と結婚?直談判?
にわかには信じがたい話だ。
「お前に黙って決めてしまい申し訳ない。もしオリヴィアが彼のことを本気で愛しているようならどう説明しようかと頭が痛くてな」
「お父様⋯」
眉間を指の腹で揉む父の腕を擦る。
自分を心配してくれた父の心中を思うと申し訳無さに胸が痛む。
「最近、アンディ・エバンズとは会っていたか?」
「最後にお会いしたのは一、二ヶ月前⋯いえ、それよりもっと前だったかしら⋯?でもそれはお仕事のためだと」
アンディを擁護するようなオリヴィアの言葉に、ルーカスは重い溜息を吐き出す。
「成程。恐らくその頃からアンディ・エバンズはブラング公爵令嬢と逢瀬を重ねていたのだろう」
「⋯ブラング公爵令嬢?」
オリヴィアは聞こえてきた名前に耳を疑った。
比喩なしに本気で自分の耳が可笑しくなってしまったのだと思った。
「お待ち下さい。今、ブラング公爵令嬢とおっしゃいました?もしかしてブラング公爵御息女カトリーヌ・クレイトン様のことでしょうか?」
「そうだ」
「まさか!」
オリヴィアは叫んだ。
そんな事あるはずがない。だってー⋯。
「カトリーヌ様はグロウドリー公爵イーサン・アディンセル卿の婚約者だったはずです!」
オリヴィアは呆然と父を見つめた。
父が知らない筈がない。何故ならイーサン・アディンセルは、父の友人であるグロウドリー前公爵ウィリアム・アディンセルの息子だからだ。
そして何よりカトリーヌがイーサンに執心していることは社交界では有名な話だった。
「カトリーヌ様はグロウドリー公爵様を強く慕っていたはずです。お父様も知っているでしょう?彼女が彼以外に興味を持つはずがありません。何かの間違いでは?」
オリヴィアは少しだけ語気を強めた。
ブラング公爵家令嬢カトリーヌ・クレイトン。
美しい燃えるような紅玉の髪と少し吊り上がった意志の強い大きな瞳が印象的な美女だ。自身に満ちた姿は女性としての色香に溢れ、気高い姿は『紅薔薇の君』の名に相応しい。
そんな彼女が見初めた相手というのが当時グロウドリー侯爵であったイーサン・アディンセルだった。
イーサンはその名を知らない貴族はいないと言われるほどに社交界では有名な男だ。容姿は神が作り給うた最高傑作と謳われるほどに整っており、飛び抜けた頭脳、何事も器用に熟す才能は老若男女全ての人を惹きつける。
カトリーヌとイーサンが出会ったのは二人がまだ十歳にも満たない子どもの頃だったらしい。イーサンに一目惚れしたカトリーヌは、子どもらしからぬその強い熱意と行動力で見事イーサンの婚約者の座を勝ち取った強者だ。
カトリーヌはイーサンに近づく女を許さなかった。
それは年齢に関係なく家庭教師や使用人も同様だ。彼女は公爵の娘という権力を存分に活かして彼に近づく女性をすべて排除した。あるときは無実の罪を着せ、あるときは家族を脅し、そしてあるときは純粋な暴力で彼の傍から女性を退けた。
それは父の関係上、イーサンと交流のあったオリヴィアも例外ではなかった。
「確かにブラング公爵令嬢はグロウドリー公爵の婚約者だったんだが、アンディ・エバンズの件で彼らの婚約は破棄された。⋯信じられないだろうがな」
父は軽く首を振ると、気鬱さを含んだ溜息を吐いた。そしてゴソゴソとポケットを探ると、一通の手紙を取り出し、テーブルの上に置いてみせた。
「さて、ここからが本題だ」
「まだありますの?」
オリヴィアの心は今の時点で疲労困憊だった。
婚約者アンディの浮気に彼との婚約破棄、そしてその浮気相手があのカトリーヌだった、なんて。この短時間の間でどれほど驚けばいいのか。
これ以上何かあったらオリヴィアはきっと倒れてしまう。
「気をしっかり持ちなさい。さぁ、オリヴィア。君宛だ」
「⋯⋯明日ではいけませんか?」
「明日でもいいが、先延ばしにすればするほど面倒なことになるぞ」
「⋯⋯⋯⋯いま読みます」
「いい子だ」
父に励まされたオリヴィアは恐る恐る封筒を手に取った。真っ白な封筒には鮮やかな若草色の蝋印が押されている。手にとってみるとその封筒がとても質の良いものだと分かる。さらさらとした手触りに鈍く反射する光沢感。
そして蝋印には狼と薔薇の家紋。狼と薔薇はグロウドリー公爵⋯アディンセル家の家紋だ。
嫌な予感しかしない。
「⋯⋯⋯お父様」
「諦めなさい」
父はゆるく首を振ると冷めた紅茶を一口飲んで口を閉じた。父の態度にオリヴィアもそれ以上何も言えずに、震える指で封筒を開ける。
途端ふわりと香る神秘的な匂いは、霧雨の降る深い森を連想させた。瑞々しくて濃い木々の匂いの中に仄かに混じる独特な甘い匂い。
初めて嗅いだ匂いにオリヴィアの心はざわついた。嫌な予感に冷たい汗が背中を伝う。
時間をかけて手紙を取り出し、恐る恐る書かれている内容を読む。
ーイーサン・アディンセルはオリヴィア・キャンベル嬢に婚約を申し込む。
時節の言葉も、親密な挨拶も何も無い。ただそれだけが流麗な文字で簡潔に記されている。
「⋯何かの冗談ですか?」
「残念ながら冗談ではない」
「手紙の中身を知ってらしたの?」
「知ってたも何も本人から直接言われたからな。彼らのいざこざに興味はないが、グロウドリー公爵イーサン・アディンセル卿がお前に結婚を申し込んでいることだけは確かだ。アンディ・エバンズが婚約の解消を申し出た場にグロウドリー公爵も『偶々』居合わせて、その場でオリヴィアの婚約者として名乗りをあげた」
「⋯そんな」
オリヴィアは震えた。
脳裏にカトリーヌの笑顔が浮かぶ。あの美しい笑顔を思い出すだけで全身の血の気が引いていく気がした。
「そ、そもそも!なぜ私を婚約者にする必要があるんですか?家よりも高貴な家柄で適齢期の未婚の女性は沢山いらっしゃいますし、それでなくとも彼の容姿とあの才能ならば、わざわざ私のような『訳あり』を選ばなくても引く手数多でしょう?」
アンディとの婚約破棄は直ぐに社交界で噂になるだろう。オリヴィアに非はなくとも、婚約者を繋ぎ止めることができなかった女として嗤われるのは想像に難くない。
社交界とはそういうところだ。
『訳あり』のオリヴィアを選ぶより、彼に相応しい女性は星の数ほどいる。
「⋯⋯お前が選ばれた理由に思い当たる節はある。が、正直考えたくはない」
苦虫を噛み潰したように顔を顰める父に、オリヴィアはあまり良い理由ではないのだろうなと察する。
「お父様、お願いです!お断りしてください」
「可愛いオリヴィア。私だってお前のために可愛らしい抵抗をしてきたんだよ。だけど結果はこの通りだ」
ルーカスは立ち上がるとオリヴィアの前に膝をついた。そのまま慰めるように優しくオリヴィアの手を握る。
「オリヴィア。私は本当にお前を愛しているよ。誰よりも幸せになってほしいと思っている」
「お父様」
オリヴィアの瞳に涙が浮かぶ。
「穏やかな人生を歩んでほしいとアンディ・エバンズを結婚相手に選んだが、結局はお前を傷つけてしまった」
「そんな⋯。お父様のせいではありません」
「可愛いオリヴィア。イーサン・アディンセルとの婚約は不安かい?」
「⋯はい」
「分かるよ。私も不安だからね」
素直に頷く娘にルーカスも共感を示す。
ルーカスだってこの婚約には不安しかないのだ。
ルーカスは娘がこの婚約のどこに不安を抱いているのか理解していた。そして自分とオリヴィアとでは不安に思っている部分が違うことも。娘は何も知らないのだ。
「オリヴィアの不安も恐怖も理解できるよ。難しいかもしれないが彼を信じてみなさい。婚約者一人守れないような男じゃないだろう。…結局私の大事な宝物を渡すなら彼以外にはいない。今回のことはそれの証明でもある」
「?どういう⋯」
「オリヴィアの幸せに彼が役立つということだよ」
不安げに瞳を揺らす娘の額にキスを落とす。
「この婚約は受ける。これは決定事項だ」
「⋯⋯はい」
「きっと今度こそ幸せになれるさ」
そうだろうか。
オリヴィアには自分が傷つく未来しか見えない。
父の言葉に頷けないオリヴィアを責めることなく、ルーカスは娘を抱きしめた。




