15
〔■〕
現実世界は、最悪だ。セイバーズをやめて二ヶ月。そのことはイヤになるくらい思い知った。
なにせ、俺の年齢は十三才。デイリーミッションとして学校に行かなければならない。勉強をしても必ず成績は上がるわけじゃない。才能という運ゲーをやらされ、そこで競り落とされたヤツは、あくびが止まらなくなるほど退屈な消化試合を続けさせられる。
そして日々の暮らしも退屈だ。楽しいこともあるが、すべからくお金を要求されるし、金欠の中学生には、寝転がるだの、散歩だの、景色を眺めるだのといった、ロクでもない無料ゲームしか残されていない。
時計を見る。かなり早い。けど、家を出ないと間に合わなくなる。
「……行ってきます」
誰も応えてくれない部屋に向かって挨拶し、家を出る。
玄関を出ると、目の前に広がるのは谷筋と、山、山、山……俺の家は山の中腹に建てられている。ここは山岳地帯にひっそりと存在する集落。いわゆるド田舎だ。自転車に乗って砂利道のスロープを降り、土の剥き出た私道を通って、アスファルトの公道にまで行った直後、スマホの呼び出し音が鳴った。慌ててブレーキを握った。
掛けてきたのは父さんだった。『かなり忙しい』近況を曖昧な形で話していたけど、少し間を置いて、こう切り出した。
「誰にも内緒にして欲しいんだが、レンズホールで……」
「ニュースで観たよ。爆破テロ事件だろ?」
「まあ、そうだが」
「機密情報なんだし、話さなくていいって。帰れないのはいつものことじゃないか」
「そうか……そっちはどうだ?」
「家事はこなせているし、生活費も十分。問題ないよ」
用件があと二つある――と言い、こう切り出してきた。
〔ドッペルゲンガーという言葉を知っているか?〕
「ドイツの民間伝承に由来する、自分にそっくりな生霊だったか。たしか目撃すると死んでしまうんだっけ? まあ、迷信だろうけど」
〔さすが、キーパー世代。雑学も豊富だな。その記憶力を学校の成績にも活かしてくれ〕
「はは。無理かな。で、それが何?」
〔自分のドッペルゲンガーを見たら、迷わず逃げてくれ〕
「はあ……?」
〔変なことを言っているのは判っている。でも、何も聞かずにそうすると約束してくれ〕
「まあ……本当に見たらな。あのさ、父さん。前に話したとき『掛け直す』って言って、今日で一週間じゃないか? 忙しいんだろ? 休んだ方がいいよ」
〔もしかして、気を遣っているのか? いまのはそうじゃないぞ?〕
「ああ、判ってるって」
通話を切った。最後に否定はしたけど、父さんが疲労のあまりあんなことを言い出したのは間違いないだろう。
人類の経験したことのない災い《時空災》は、俺が生まれる前から起こっていた。父さんが仕事で関わっているレンズホールが、その原因だ。東京湾上空の空間に裂け目が生じており、このままでは真空崩壊というものが発生する恐れがあるとして、政府は疎開勧告を発令。そんなわけで小学生の頃、祖父母の家に越してきた。父さんは東京に残り、《レギンナグラル》という場所で、空間の修復作業に携わっている。
通学を再開する。走り出しながら、ハンドルにぶら下げているラジオのスイッチを入れる。電波不良であんまり聞こえないけど、獣避けだから構わない。道でイノシシなどに突然出くわすと、向こうがびっくりして襲ってくるから、予告をするわけだ。
〔東京湾に設置された海上プラットフォー……《レギンナグラル》爆破テロ事件の続報です……〕
おーと、父さんの職場のニュースだ。普段は聞いていないラジオだけど、これはちゃんと聞きたい。
〔レギンナグラルのシールドウォールの内部には、時空間断層レンズホールが封印されてお……真空崩壊の可能性が……今後このような攻撃に際したときのため……防衛力強化に乗り出す法案が提出され……〕
「父さんが忙しかった理由、これかもなあ」
ラジオの音声が電波不良のノイズに呑まれてしまったところで、蛇行しながら進む下り坂に差しかかった。気持ちよく走っていたのにカーブを曲がった瞬間――……、
……――雲が割れ、上空に巨大渦が出現した。
すまない。この説明ではさっぱりだよな。変な表現になると思うけど、聞いてくれ。
その渦巻きの様相を語るなら〝空が液体になった〟というのが一番しっくりくる。渦は透明で、空間が歪み、波紋を描きながら渦巻く――そういう現象に見える。
不思議なのは、見覚えがあるような気がする点だ。日常的に目にするような物ではないのに、どこで目撃したんだろうか……?
自転車を降りてその現象を見守っていると、渦巻きの中心から、光の柱のようなものが降りそそいだ。
その光はスポットライトのように、右側の崖を照らした。そこに視線を向けたときだ。
「勇者様……」
声がした。
崖の上に、人の姿がある。
女性だ。年は二十代だろうか。一番強く感じる印象は、儚げ――かな。ちょっと乱暴に触れたら壊れてしまいそう。
髪は金色に近いし、肌も白い。外国人なのは間違いない。ただ、彼女を外国人と呼ぶにも、かなりの違和感を要する。
右の虹彩が、かなり鮮やかな赤色なんだ。
太陽光線の反射具合でそう見えるとか、そんなレベルじゃない。彼女の右目はアルビノのうさぎみたいに赤かったし、光る筋みたいなのが入っている。その筋は記号や文字っぽくも見え、人工物を思わせた。
服装は……中世のドレス……? 大魔法使いが持つような、かなり凝った装飾の杖も持っている。
ここから先、俺が奇妙なことを言い出すと思うけど、けっして正気を疑うような真似はしないで欲しい。
その女性の背中から、翼が拡がっている。天使みたいな鳥の羽根じゃなく、赤い結晶のオブジェクトだ。オブジェクトというコンピューター用語を使った理由だけど、周囲の樹木が、テクスチャの埋没みたいに翼へとくい込んでいるからだ。物質透過……なんてあり得るわけがない。ホログラムだろうか。
「……君は」
女性は俺を見ると、目を輝かせ、涙を目元に溜め始めた。
「やっと逢えました……勇者様」
「……はあ?」
「ごめんなさい。説明もまだなのに、想いが溢れてしまって」
紅い右目が僅かに光り、彼女は苦しそうに手で押さえた。
「急がなければ……魔眼が、わたしを呑み込む前に」
「なあ、これは映画の撮影か何かか? それともコスプレで……翼も木に食い込んでるし、それは……」
「素体のままのわたしがここの物質に触ったら、理が狂ってしまって大変なことになりますので、いまは表裏存在化を行っています」
「はぁ……?」
「わたしの名前はリーズベル。どうか、変に思わずに聞いてください。意味は、いずれ判りますから」
リーズベルは真面目な顔で、こう告げた。
「貴方は、近いうちにわたしと出会うでしょう」
「現在進行形で出会っているよな……?」
「意味は、きっと判ります。ですから、ただ覚えておいてください。次に逢ったとき、わたしは貴方を知りません。貴方が勇者様だと勘違いしてしまうかも。それは誤解で、でも深い意味では正しくて……」
リーズベルは涙を流した。押さえている右目からも流れてきたが、それは涙ではなく、血だった。
「……君、目に傷が」
「いいえ、血ではありませんので気にしないでください」
本当に血ではなさそうだ。流れ落ちた赤い液体は、空中で固体化し、赤い結晶となって崖を撥ね落ちた。
「何だ……?」
「話の続きをしますね。わたしはルートを間違えてしまいました」
「ルート……?」
「分岐点がありました。ヤマユリの花畑で、最悪のルートを望んでしまった――」
彼女は泣き出しそうになったけど、堪えて、続ける。
「わたしの力は大きすぎたのです。いったん成長させてしまえば、取り返しがつかないほど膨れ上がってしまう。世界が、わたしの成長に耐えきれず、崩壊していきます。誤った道を選ばないよう、貴方は別のものを育ててください」
「何を?」
「わたしの心に、優しい強さを――」
「言っている意味が判らないけど」
「わたしは魔女となる道を選びました。優しくも強くもなくて、誰かを信じ抜く勇気を持てなくて、自分が戦わないと危機を脱せないと思ってしまったから。だから、強い心を持った、普通の人間として育てて欲しいのです」
「よけい意味が判らない。もっと簡単に話せないか?」
「簡単……そうですね」
リーズベルは少し悩んでから、こう答えた。
「世界の楽しみ方を、教えてください」
「世界の……楽しみ方……?」
意味の理解まで到らなかったものの、不思議とその言葉は胸を打った。リーズベルが訴えたいことの〝核〟が、言外に収まっているような気がしたんだ。
涙を一生懸命に拭いて、話し続ける。
「これを受け取ってください。実験はまだですが、継承できるはずです」
リーズベルは腕をΓの形に振った。俺がやっているオンラインゲーム《セイバーズ》のメニューウインドウ操作の開始モーションかと勘違いし、ゲームのやりすぎだな――と思っていたら、彼女の手元にウインドウが出現し、操作し始めた。
次の瞬間、俺の目の前にも、ウインドウが出現。アイテムトレード・ウインドウだった。
〔リーズベルからアイテムトレードのリクエストがあります。承認しますか? はい/いいえ〕
「……え?」
信じられなかった。オンラインゲームの中でなら〝よくある光景〟かもしれないが、ここは現実世界なんだ。
呆然としていたのに、ゲームの癖で思わず『はい』を押してしまった。
押した直後、それは宙空から現れ出でた。ひらひらと俺の周囲を飛び回っている。そのアゲハの模様が、うっすらと光っている。
「光るアゲハチョウ……?」
「彼女はいまから、貴方の所有となります」
「彼女……?」
「勇者様、お別れです」
視線をリーズベルへと戻すと、彼女は渦巻きから注がれる光に強く照らされていた。だんだん、うっすらと透明になって消えていく。
「どこに行くんだ……?」
「わたしのことは見捨ててください」
そこまで言ってから〝表情〟という名の盾が、一気に崩壊した。痛ましいぐらいの涙を迸らせる。
「やっぱりイヤ。どうかお願い……」
リーズベルは俺に向かって手を伸ばす。
「……助けて」
どうしても聞かせたくない心と、どうにかして訴えたい心が、彼女の胸の内で激しくせめぎ合った、小さな声だった。
胸がきゅっと締めつけられるように痛んだ。
(助けたい!)
気持ちだけが先走って、リーズベルの手を取ろうと腕を伸ばした。しかし彼女は遠すぎる場所にいたし、すぐに光に呑み込まれて消えてしまった。
「あ……」
上空の渦巻きも収縮し、やがて消滅した。いままで目にしていた不思議な光景は、幻であったかのように無へと帰した。
「そうだ、もらった蝶は……――いッ、」
手に痛みが走った。掌の皮膚が、アザみたいに黒くなっている。その形は蝶そっくりだ。
「何だよ、これ……?」
大事なことを忘れている気がした。数秒考えて、思い出した。
「そうだ、あの蝶は……」
光るアゲハチョウを探したけど、どこにもいなかった。
「このアザが、あの蝶なのか……?」