魂の場所
不幸は立て続けに訪れる。
その若い女は今まさにそういう状況だった。
頑張る毎に仕事では失敗を重ね、成果が出るどころか逆効果。
先日はとうとう長年連れ添ってきた恋人とも破局、失恋してしまった。
毎日ずっと落ち込むばかりで、
このままでは滅多なことをしてしまいかねない。
どうにかして気分を変えようと考えていた。
「・・・髪、切っちゃおうかな。」
何年もかけて伸ばした、長く美しい髪。
しかし、今は何だかそれが重く感じられて、その若い女は、
気分転換に髪を切ってしまうことにした。
気分を変えるために髪を切る。
そうと決まったら早い方がいい。
ダラダラと考えていたら躊躇してしまうかも知れないから。
そう思ってその若い女は、早速、美容院に行くことにした。
どうして髪を切るの?などと美容師に事情を探られたくないので、
近所の店は避けたい。
今まで行ったことがない美容院を求めて、
その若い女は、ふらふらと街を彷徨った。
繁華街を通り過ぎ、住宅地を抜けて、街外れの一角へ。
そこで、見たこともない美容院を見つけることができた。
その美容院は、建物が真っ黒な外観をしていた。
黒地に赤い文字で何やら店名らしきものが書かれていたが、
何語なのかその若い女には読むこともできなかった。
「なんだか不気味だけど、ここで良いかな。
どうせ、今日一回髪を切るだけなんだから。」
ちょっと躊躇してから、その若い女は黒い美容院の扉を引いた。
黒い美容院は、店の中も真っ黒だった。
壁も椅子も真っ黒で、置いてある小物や反射光で辛うじて形がわかる。
「いらっしゃい。お客さん、うちは初めてかな・・」
そう挨拶をしてきた美容師も、これまた真っ黒な服装をしていた。
中肉中背、しわがれた声の加減から老婆のように感じられる。
うつむき加減で人相はよく見えない。
ちょっと面食らいながらも、その若い女は答えた。
「あっ、はい。カットをお願いしたいんですが。」
「わかったよ。じゃあ、そこの椅子に座ってくれるかな・・」
どうやら他に客はいないらしく、
その若い女はすぐに鏡の前の席へと案内された。
バッグや上着を預けて、真っ黒な椅子に座る。
すると音もなく、背後に黒い美容師が現れたのが鏡に映った。
「お客さん、今日はどうしたいんだい・・」
「えっと、短くしたいんです。ショートヘアに。」
「おや、せっかく伸ばした髪なのに、切ってしまっていいのかい・・」
「・・・良いんです。気分を変えたいから。バッサリ切ってください。」
「わかったよ・・
じゃあ、まずはシャンプーだね・・」
内心を見透かされた気がして、その若い女は精一杯の虚勢を張った。
それを知ってか知らずか、黒い美容師は、
焦らすようにゆっくりと準備を始めた。
まずは頭を洗って、髪を適度に湿らせて。
黒い美容師は、その若い女の髪の毛を触りながら、鏡越しに話しかけてきた。
「こんなに長い髪を切りたいだなんて、
お客さん、何か嫌なことでもあったのかい・・」
「え、ええ、まあ。」
「失恋でもしたのかい・・」
「・・・髪を切って、生まれ変わりたくて。」
その若い女が痛い腹を探られて気まずそうにしていると、
黒い美容師はほくそ笑んだように返した。
「それは難儀だったねぇ。
うちはね、髪を切ると生まれ変わることができる美容院だって評判なんだ。
きっとあんたも、生まれ変わったような体験をすることになるよ。」
「は、はぁ。」
これ以上、会話を続けたくなくて、その若い女は目を閉じた。
すると、疲れが溜まっていたのか、
うつらうつらと居眠りを始めてしまったのだった。
チョキ・・チョキ・・。
遠くからハサミの音が聞こえる。
ここはどこだったか。
そうだ、美容院だ。
はっと、その若い女は目を覚ました。
目の前には、真っ黒な美容院の店内、横向きの床。
見上げる先には、ハサミを振るう黒い美容師の姿があった。
「・・・床?私、どうして床に寝てるんだろう。
居眠りして、椅子から落ちちゃったのかな。」
どうやら、その若い女は今、床に寝そべっているらしい。
目の前に広がる光景がそれを示している。
起き上がらなければ。
そう思うのだが、しかしどうしても体が上手く動かない。
そんな若い女を差し置いて、目の前の黒い美容師が口を開いた。
「お客さん、カットが終わったよ。これでどうだい・・」
黒い美容師は、床に寝そべるその若い女ではなく、
別の方に向かって話しかけているようで、
すると椅子に座っている何者かが答えた。
「・・・ええ、これでいいです。短くなって、すっきりしました。」
その声は聞いたことがある。毎日聞いている声だ。
その若い女が見上げると、そこには、椅子に座る自分の姿があった。
黒い美容院で、うたた寝から目を覚ますと、
そこには、椅子に座る自分の姿があった。
その若い女には、にわかに状況が理解できない。
目の前に自分自身の姿が見えている。
見えているのは後ろ姿だから、鏡に映った姿ではない。
そもそも、自分は今、床に寝そべっているのだから、
椅子に座っているのは自分自身ではない。
それなのに、見える姿は、自分の姿そのもの。
真っ黒な椅子に座る自分には、
見慣れた長い髪は無く、短く切りそろえられている。
しかしそれでも自分の姿を見間違えようもない。
では、今、こうして床に寝そべっている自分は何?
そう尋ねたくても、どうしても声を出すことができない。
その若い女は為す術なく身を委ねるしかできなかった。
目の前では、椅子に座った自分に、黒い美容師が話しかけている。
「これでいいんだね・・
それじゃあ、後はシャンプーをするから、
準備ができるまで待っててくれるかい・・」
美容師が箒を取り出して、床に散らばった髪の毛を掃き集めていく。
そうして初めて、その若い女は気が付いた。
自分は今、髪の毛なのだということを。
髪の毛の姿となって、黒い美容院の床に横たわっていた。
その若い女は、生まれ変わりたくて、髪の毛を切ることにした。
しかし、実際には、切り捨てられたのは自分。
髪の毛を切って捨てるはずだったのに、
逆に自分が切り捨てられた髪の毛の方だったのだ。
「何で?どうして?私はどうなっちゃったの?
体と魂が別々になっちゃったの?」
体と魂、そう口にしようとして、その若い女は気が付く。
自分の魂が体のどこに宿っているかなんて、誰にもわからない。
魂は全身に宿っている?
もしそうならば、爪や髪の毛など、切り取った体の部位はどうなる。
切り取った部位の数だけ、魂が増えることになってしまう。
いや、実際にそうなのかもしれない。
現に自分の魂は、この髪の毛一本に宿っているのだ。
それに気が付かずに、その若い女は髪の毛を切って捨てようとした。
だから、自分の魂の方が体から切り離されてしまったのだ。
「どうしよう。私、もう人間の体には戻れないのかな。」
悲しみに涙しようにも、髪の毛の身では流す涙もない。
そうこうしている間に、
髪の毛の姿となったその若い女は、
黒い美容師によって箒で掃いて集められ、
無数の髪の毛の山に埋まってしまった。
真っ暗な髪の毛の山の中で、
黒い美容師と自分の体の声だけが聞こえてくる。
「お客さん、よくお似合いだよ・・」
「そうですか?よかった。
まるで生まれ変わったみたい。」
「喜んでもらえてよかったよ。
よかったら、また来ておくれよ・・
生まれ変わった自分に、また出会えるからね・・」
「はい。是非また。」
扉が開けられる音がして、聞き慣れた足音が去っていく。
それから、髪の毛になったその若い女は、
ゴミ袋に詰められて黒い美容院の裏に打ち捨てられた。
「私、このままゴミになっちゃうのかな。」
それも悪くない。
そう思った時、一陣の風が周囲を吹き付けた。
すると、髪の毛が詰められたゴミ袋の口が半開きになって、
髪の毛が一房ほど、風に乗って空にばら撒かれていった。
切り取られた髪の毛が風に乗って空を舞う。
髪の毛になったその若い女も、そんな髪の毛の一団の中にいた。
「わっ、わっ、私、空を飛んでる!」
人の身で空を飛ぶことは難しい。
しかし、か細い髪の毛になれば、それは難しいことではない。
その若い女は、風に吹かれるがまま、大空に舞い上がった。
眼下には、見慣れた街並みの、見慣れぬ風景が広がっている。
「あっ、あのビル、屋上に植物園があったんだ。
あっちのビルは屋上に小屋があって人が住んでる。
この街に住んで長いけど、私ちっとも知らなかったな。」
それから、その若い女は、髪の毛となって旅をした。
ある日、その若い女は、
燦々と降り注ぐ陽光の下、世界の広さを知った。
月明かりに照らされた夜の姿に、物事のもう一つの一面を知った。
焚き火の炎に炙られ、我が身の儚さを知った。
川の水に浸されて、水の潤いを知った。
森の木々の間で、清涼を知った。
街の夜景の眩さに、人の偉大さを知った。
そうして最後に、その若い女は、森の地面に横たわった。
風は止んでしまっていて、もう空を飛ぶこともできなかった。
「私、世界の広さも、自分の小ささも、何にも知らなかったな。」
知らなければ存在することもわからない。
その若い女は、髪の毛の姿になって初めて、自分の無知を知った。
広く大きな世界に比べて、自分の悩みなど如何に小さなものか。
生きていれば上手くいかないこともある。
しかしそれでも、この世界にある不幸の全てを経験したわけではない。
この世にいるのが自分だけなら良かったのにと思うこともある。
しかし、自分だけではできないことがある。
今の自分には知らないことがまだまだたくさんある。
今がどん底なのかは、誰にもわからない。
人の身を失って、その若い女は初めてそれを知ったのだった。
でも、それももう手遅れ。
今のその若い女は、森の地面に落ちる髪の毛の一本でしかない。
風に吹かれて土にまみれて、最期は分解されて、
森の土の一部となって意識を失った。
それからいくらかの年月が経過して。
黒い美容院に、あの若い女がまたやってきた。
短くした髪の毛は幾分長くなっていて、
しかし、気分転換をしたはずの表情は冴えなかった。
黒い美容師が慣れた様子で出迎える。
「おや、お客さん、また来たのかい・・」
「ええ、どうも上手くいなくて、また気分を変えたくて。」
「わかったよ。それじゃあ、椅子に座ってくれるかな・・」
その若い女が、あの時と同じ椅子に座る。
すると、黒い美容師が、ハサミの代わりにスプレー容器を持ってきた。
その若い女が鏡越しにそれを見て首を傾げる。
「あの、それは?」
「これはね、傷んだ髪の毛を元に戻すためのものだよ。
自然由来の素材を使用していてね、
近所の森の土から採取した髪の毛の成分を配合してるんだ。
今日はこれを試してみないかい・・」
「はぁ、じゃあお願いします。」
その若い女が頷くのを確認して、
黒い美容師はその若い女の髪の毛にスプレーを噴霧し始めた。
霧になった溶液がその若い女の髪の毛を湿らせていく。
湿った髪と頭皮を、黒い美容師がやさしくマッサージする。
よほど気持ちが良かったのか、
その若い女は、ウトウトとうたた寝を始めた。
うたた寝をしながら、その若い女は夢を見た。
それは長い長い夢。
自分の魂が体を離れてこの世界を旅して、
世界の広さと自分の小ささを知って、
最期は分解されて土となる、そんな夢。
「・・・はっ、ここは!?」
汗びっしょりで目を覚ますと、その若い女は黒い美容院にいた。
なんだかとても長い夢を見ていた気がする。
鏡に映る自分の姿を見ると、長く美しい髪をしている。
恐る恐る体を動かしてみるが、ちゃんと人の体をしていた。
その若い女には、この体はとても久しぶりのように感じられた。
「ちゃんと自分の体に戻ってる。あれは夢だったの?」
ぺたぺたとその若い女が自分の体を触って確認していると、
音もなく、黒い美容師が背後に現れた。
どこか微笑んでいる様子で口を開いた。
「どうだい、気分転換はできたかい・・?」
黒い美容師の言葉に、その若い女はキョトンとして、
それから微笑んでこう答えた。
「ええ・・、はい。
自分自身のことを見つめ直すことができたと思います。」
「そうかい、それはよかったね。
その体験を大事にね・・」
「・・・はい。」
そうして、その若い女は、再び歩き始めた。
風に吹かれて飛ばされるのではなく、しっかりと自分自身の足で。
終わり。
魂は体のどこに宿っているのかという話はよく見かけます。
今回は、もしも切り取られた体の部位の数だけ魂があったら、
という話を考えてみました。
手術などで一度切り取られた体の部位が、
もう一度体にくっつけられることがあるように、
一度体を離れた魂が再び戻ってきて糧となる、
という話になりました。
お読み頂きありがとうございました。