黒い翼のアリス ~#1 踊る夢をみる。~
踊る夢をみる。
ステージの上、スポットライトのなかで、ひとり、踊っている夢をみる。
目を閉じて、夢をみる。
空を飛ぶように舞って、私は本当に心地よい。
無造作な金色の髪だけが世界に残って、私の身体は未来へ進む。銀色にも見える真っ白な布は、光に当たって、私の身体を照らす。
それは、まるで天上の存在。
天使のように、私を映す。
踊る夢をみる。
世界のすべてはわたしのもの。
世界のすべては、わたしのもの。
世界の、すべては、わたしのもの。
目を開けると、一筋の涙が、頬をつたった。
彼女は、投げ出した足の向こうの、地上の世界を見下ろす。
支えているのは、2本の手と、腰かけているその身体だけ。
道路を走る車は小さく、金色に染めた髪の毛が、吸い込まれるように落ちていく。
彼女は屋上のへりに腰かけて、空を見上げた。
世界は、わたしのもの。
つぶやいて、彼女は少し笑い、ボブにした金髪を軽く振った。
風が、彼女の心を揺らす。
涙が、もう一筋、そばかすだらけの白い頬をつたう。
世界の、すべては、わたしのもの、
、、、だった。
さぁ、
何も手に入らなかったこの世に、お別れを言おう。
グッバイ、さよなら、また会いましょう。
もう二度と、戻ってこないけど。
スマホを開き、連絡先を消去していく。私を傷つけた人々、優しかった人々。覚えてもいない人々。
さよなら、さよなら。
みんな、さよなら。
雨がぽつぽつと降り出した。
屋上のへりから身を乗り出す。
地上の人々が、傘を開く。
さよならだ。
最期の最後に、目を閉じる。
踊る私の夢を見たら、私の人生はこれで終わり。
さよなら、私の踊る舞台。
微笑みのなか、心地よく踊る私の夢をみる。
喝采を浴び、踊る私。気持ちはふわふわ。夢みたい。
そのとき、
カァ、カァ、
どこか遠くでカラスの鳴き声。
カァ、カァ。
私の夢を邪魔する鳴き声。
最期の心地よい空想のなかで、ふわりと私は浮き上がるはずだったのに。
ふわりと、この世界にさよならを言うはずだったのに。
カァカァ。
おしゃべりしているようなその声は、私の頭のなかを支配する。不思議の国のアリスのように、時間の世界を駆け巡って、どこか見たことのある場所に私を連れ去れる。
カァ、カァ。
カラスの鳴き声の聞こえる、泣きたくなるようなその記憶は、放課後のあのとき。
「ただいま!」と、ランドセルを置いて、お母さんのクッキーの匂いに包まれていた、あのとき。すぐそばで、姉や妹が笑っていた、あのとき。
舞台を知る前の、無垢な私。
世界のすべてが、いつでも、未来という希望に逃げさせてくれた。
田舎の匂いのなか、カラスが鳴いている。
青い空、どこまでもも続く田んぼ道。
カァ、カァ。
あぁ、懐かしいあの家で、みんなが笑ってる。
私も、笑ってる。
何も知らずに、未来を夢見て笑ってる。
涙が溢れ出した。
「うぅ、、、。」
止まらない涙に強くなる雨。
帰りたいけど、帰れない場所。みんな一緒で幸せだった。大人になったと思ったのに、私の心はまだ子供で、あの、小さな世界に戻りたがっていた。
涙が、止まらなかった。
なぜ、今まで思い出さなかったのだろう。
都会に出て、小さな背中で頑張ってきた私は、その証明をするために連絡をしなくなり、大丈夫の言葉も言わなくなり、いつの間にか忘れていたのか。
雨の匂い、家族の笑い声。
草の匂い、おひさまの匂い。
ランドセルを鳴らして、走って帰った。
「あんた、またそんなに濡れて。」
遠くで聞こえる、お母さんのこえ。
帰りたかった。
あの場所に、あの時間に戻りたかった。
涙をぬぐって、目を開けた。
もうどうでもいいや。
彼女はつぶやいた。
帰ろう。
生きてきた場所。
頑張ってきた場所。
一旦捨てて、あの場所に帰ろう。
昔のように戻れなくても、
帰ろう、あの場所に。
さよならするのは、そのあとでもいい。
帰ろう。
何もないあの田舎の、草の匂いを嗅ぎに行こう。
ふと気づくと、近くのビルの上に、大きなカラスが止まって、こっちを見ている。黒い大きな目で、彼女を見つめている。雨に濡れた黒い翼はきらめいて、とても美しかった。
何年も電話していないのに、その番号はすぐに押せた。発信音のあと、懐かしい声が聞こえてきた。
「もしもし?」
あたしだけどさ、
いまからかえる。
母親が電話の向こうで、嬉しそうに、心配そうに何か言った。
「じゃぁ、今晩にはそっちに着くよ。」
彼女は立ち上がった。びっこをひいて、不自由そうな足で、しっかりと立ち上がり、やせた濡れた身体とともに、屋上を去っていった。
大きな黒いカラスが、そのすべてを見つめていた。
カラスは大きく鳴き声を上げた。
カァ、カァ。
まばたきをするほどの瞬間に、彼女はそこに現れた。カラスがいた、まさにその場所に。
ぴっちりした黒いミニドレスに、ふんわりとした黒い長い髪の毛。真っ赤な唇に、黒く長いまつげにふちどられた、魅惑的な瞳。
どこから出したか、雨のなかなのに煙草を取り出し、火をつけくわえた。
ふぅ、と長い煙を吐き出し、彼女はつぶやいた。
「愛された記憶があることは、本当に幸せね。」
しばらく煙草をふかし、彼女も屋上をあとにした。
降り続ける雨のなか。
「それに、帰る場所があるのも。」
彼女の背中の、黒い大きな翼が雨に濡れ、きらめいて、それはそれは美しかった。
彼女の名前は、アリス。
黒い翼のアリス。