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ミステリートレイン 短編集

プツン

作者: まきの・えり

       プツン

 そやから、私の気持ちもわかるでしょ? あ、ビール? いつでもいいのに。

そんなすぐ返しに来んでも。まあ、ちょっと入ってよ。そこ、寒いから。

 言うたかな?

 昨日のこと。そやな、まだやわね。

懇談会、違うわ、参観日、違って、何やったかな、そうそう、親睦会。

 何の? 言うたら、ほら、幼稚園のやん。

百貨店のバンケット・ルームでバイキングやってん。

それが、ビールが出て、「え! ビール出るんですか?」

と喜んで、手酌で飲んでてん。

 人が変な目で見る?

 大丈夫。私、存在消える人間やねん。黒子みたいなもんや。

 あ、ビール残ってる、いうとこへ、スッと近づいて、自分でついで飲んでてん。

一回だけ、こぼれてしもて、存在気づかれたん、あの時くらいやろ。

 そんで、その後、カラオケするいうねんわ。

 私、あんなもん、嫌いやろ。

そやから、「すみません、今日、主人、休みなんです」言うて、帰ってきたわけや。

 主人、家におらへんかって、これ幸いと小説書いてたら、何やしらん、胃の辺りが痛くなってきた。そやから、息子、一人でバス停から戻ってきたわ。

 まあ、このマンションの下やから、一人で戻って来れるんやけど。

 私、ワープロ打ってるやん。

 そしたら、息子、私のそばに来て、幼稚園の話すんねん。

 ワープロ打ってる時、そんな話、聞きた無いやん。

 そやけど、母親の務めや思て、「うん、うん」言うて、聞いててん。

「お母さん、あのな」言うて、話し始めるんが、あの子の癖や。

「僕な、今日、幼稚園でな、ジャックと豆の木の絵、書いた」

「そうか。ジャックと豆の木の絵、書いたんか。そら、良かったなあ」

 パチパチ。これ、ワープロの音や。

「ジャックの顔は、書けた」

「うん、うん」パチパチ。

「それでな。からだは、四角に書いてん。それでな、手書いて、足書いてん」

「それは、上手に書けたんやな」パチパチ。

 そら、内心、うるさいで。胃も痛い。

 早いとこ、話やめて、遊びに行かへんかな、と思う。

「違うねん。僕な、ジャックの手のな、指2個とな、足の指3個しか、書かれへんかってん」

「そうか、そうか」パチパチ。

「あのな、お母さん、僕な」

「何やの、もう! ジャックと豆の木書いたんやろ。それが、どないしたん」

「あのな、お母さん、僕な、バスの青ワッペンの人が、もう書くのやめなさい、言うたから、書くのやめてん。だからな、お母さん、僕な、ジャックの足の指と手の指、全部書かれへんかってん」

「かまへんやんか。また、今度書いたら」

「あのな、お母さん、あのな、それでな、青ワッペンの人がやめなさいて言うたから、ジャックと豆の木のな・・・」

「わかった、わかった。足と手の指、書かれへんかったんやな。もう、いいから、早く着替えなさい。あんたは、ちょっとうるさい」

「あのな、お母さん、僕な」

 さすがの私も、胃はムカムカするし、頭も痛い。イライラも最高潮やわ。 

 そしたら、息子、シクシク泣きだしてしもた。

 そやな。いつも、こうやな。

 私、ワープロ打ってると、満足に子供の話も聞いてやらへん、とちょっと反省してん。

「お母さん、怒ってへん。また、明日、書いたらいい、言うてるだけや」

「あのな、お母さん、あのな、僕な、青ワッペンの人が、もうやめなさい言うたからな、ジャックと豆の木の絵、机の上に置いてきてしまってん」

 息子は、今度は、ワアワア泣きだした。

「あの絵、どうしたやろか、僕、わからへん」

「大丈夫や。先生がなおしてくれてる」

「あの絵、どっか行ってへんやろか。先生が忘れて、無くなってへんやろか」

「先生が、しまってくれてる」

「あのな、お母さん、僕な、机の上に置いてきたん、先生知ってるやろか。先生、どこにしまったんかな。あのな、お母さん、僕な、あの絵どうしたか、わからへんねん」

「お母さんに言うても、知らん。お母さん、今、おなかが痛い」

 私、ほんまに、胃が痛くなって、胃薬飲んでん。

 けど、治るどころか、ますます痛い。

 それで、布団ひいて寝たんや。

 ほんま、アホみたいに昼間から飲むもんと違う。

 そしたらな、息子、枕もとに座って、シクシク泣くねん。

「あのな、お母さん、僕な、ジャックと豆の木の絵、どうなったか、わからへん」シクシク。

 私の方が、泣きたいわ。

「園長先生に聞いてみなさい。園長先生、何でも知ってはるから。な、先生に聞いてわからなかったら、園長先生に聞きなさい」

「あのな、お母さん、そんなこと、園長先生に聞いて、怒られへんやろか」

 シクシク。

「怒られへん。それが、園長先生の仕事やねん。お母さん、幼稚園のこと、何も知らんから、わからんことがあったら、先生か、園長先生に聞いたらいいの」

「けど、そんなこと聞いて、怒られたら、どうしよう」シクシク。

 ごめん、ごめん。お茶も出さんと。何がいい?

 紅茶か、ウーロン麦茶入れたげよか?

 え? 熱いのんがいい? わかった、わかった。ウーロン麦茶の熱いやつやな。

 そやから、昨日は、寝たままやった。

 主人の休みの日に、寝たままなんか、初めてや。

 そしたら、聞いて。今までやったら、「わしのメシ、どないしてん!」言うて、怒鳴ってた男が、自分で電話して、中華頼んでんねんで。

「お母さん、おなか痛い、言うてた」て息子は言うし、「そういうたら、私が帰って来た時、胃が痛いて言うてた」と娘も言うてくれた。

 それで、何考えたんか、うちの息子、「僕な、パパ。大きくなったらな、お母さんに、ごはんの作り方、教えてもらうからな」いうて、主人に言うたんや。

 そのせいかどうか知らんけど、黙って電話かけてたわ。

 それでな、ビックリしたらあかんよ。その後、茶碗、洗ってんねんで。

 何か、涙出たわ。そんなん、結婚以来なかったことや。

 私が、病気で入院した時も、「わしのメシ、どうすんねん!」いうて、病院で怒鳴らはった人や。

 そやな、この間からの離婚の話が効いたんかな。

 お宅なんか、ええわよ。ご主人は優しい。よう稼いできはる。遊びも何もしはらへん。

 何で、結婚したんか、て?

 言わんかった?

 そんなん、好きで結婚したんと違うわ。

 私、結婚なんかした無かった。略奪結婚や、言わんかったか?

 何で、私が略奪するん!

 されたんに決まってるやないの。

 そうや。同じとこに勤めててん。うん。何でて言われたら、私、男女同一賃金いうん、気にいってん。

 そやから、「社長になるまで、働きます」言うて、入ったんやわ。

 え? どれくらいいたか、て? 8ヵ月や。

そら、辞める時、笑われたわ。

 好きやったから付き合ったんやろ、てか?

 違うわ。私、遊びたかったんや。それまで遊んだこと無かったから、一度、遊んでみたかったんや。そうや。私、真面目なんや。

 あの男、女の子と話もしたことない純情な青年に見えたんや。

 散々遊んではったと知ったんは、事後のことや。

 あかんわな。遊んだこと無いもんが、下手に遊ぼうと思うと、そんなことになるんやな。

寝たんはいいけど、その後すぐに、婚約指輪や、結婚や、と会社中で、騒ぎはったんや。

 私、寝ました、いうワッペン貼られたようなもんや。

 そんな遊んではった人が、何で結婚考えたかって?

 そら、私が良かったからやないの?

 私、結婚した無かった。結婚するなら、もっと相手選んでたわ。

 遊ぼう思たから、あそこらへんで、手、打ったんやんか。

 それからが大変や。

 私、何とか、離れよう離れよう、と努力するんやけど、逆効果や。

 周りは皆、恋人同士やと思てる。地獄やで。

 私、結婚したない。相手、結婚したい。私、逃げたい。相手、逃がした無い。

「忙しいから、会われない」とか色々理由つけて、遠ざけようとしたけど、私、ハッキリ『ノー』と言えない人間やねんね。

 相手、傷つけんように、えんきょくに言うんは、アカンのやわ。

 それに、今と一緒で、すぐ怒鳴る人や。人前で怒鳴られたりするん、恥やん。

 それに、仕事終わると、シッカリ外で待ってたりする。

 そうやって、ズルズル泥沼に陥ったわけや。

 でも、私、絶対に、結婚した無かった。

 結婚したら、どうなるか、わかってたから。

 そして、まあ、その通りになったんやけどね。それ以下かもしれへん。

 極めつけの話があるで。

 最後の最後や。

 相手、結婚せえ、言うてる。私、結婚せえへん、言うてる。

 相手のアパートの中や。最終段階や。私も考えた。

 ここで、する言うたら終いや。これで、終わりにせなアカン。

 やっぱり、私は、セックス・フレンドなんか持てない女や。

 そやから、浮気も無理や。

 緊迫した雰囲気や。

 相手は、凄い形相してる。そして、どこからか、ナイフ、出してきた。

「結婚できへんかったら、自分殺して、オレも死ぬ」

 えらいことや。

 ちょっと遊ぼう思たお陰で、えらいことになってしもた。

 こんなとこで死ぬん、恥や。

 ほら、あのよく言う『痴情のもつれ』いうやつや。

 両親や知人の顔が浮かぶ。

 何ちゅう恥さらし。ここは、ひとつ、切り抜けなアカン。

 怖がったら、負けや。落ちつかなアカン。

「別に、絶対、結婚せえへんなんか、言うてへんやないの」

「ほな、いつ、結婚するんや!」

「そんな慌てんでも、いつか、したらええやん」

「いつか、て、いつや! 自分は、それでええやろけど、オレはようない!」

 てなこと言うて、時間を稼いだわけや。

 そのうち、相手は、トイレ行きたなった。

 私、ゆったりと落ちついた顔してた。

 心の中は、ガタガタブルブル震えてたけどな。

 しっかりしているわ。鍵かけて、トイレ、行きよった。

 そやねん。惨め、共同便所や。

『今や!』と私は、思った。

 そこは、二階や。

 私は、窓のところに飛び乗ると、こんしんの力をこめて、窓を蹴破った。

 二、三回蹴ったら、窓わくも飛んで行ったわ。

 それから、下に飛び下りた。

 真っ暗で、どこがどこかわからへん。

 そやけど、走りに走った。足は、裸足や。

 高い塀によじ登り、塀から飛び下り、犬にワンワン吠えられて、よその庭、駆け抜けた。

 最後は、どっかの壁、ぶち抜いたような気がする。

 けど、不思議なもんで、どこも怪我せえへんかった。

 やっと、明るい通りに出た。

 辺りを見回すと、お寿司屋さんがあった。そこに飛び込む。

「すみません。怖い人に追いかけられてるんです」

 寿司屋のおじさんも、スッカリその気になってしまった。

 シャッターを閉め、若い兄ちゃん達が、表を見張ってくれている。

「何か、変なヤツが、ウロウロしてましたで」

「どないします? 警察、呼びますか?」とおじさん。

 警察なんか、呼ばれた、かなん。

「いいえ。すぐに、お家に帰りたいから、タクシー呼んでください」

 何言うてんの。私、元お嬢さんやんか。

 それで、つっかけ貸してもらって、呼んでくれたタクシーで、家まで帰ったわ。

 帰ったら、もうアカン。私、熱出して、寝込んでしまった。

 翌日は、無断欠勤。初めてのことや。

 頭が、枕から上がらへん。

 ピーポーピーポーいう音聞く度に、心臓が、縮み上がる。

 あの後、どうなったんやろか。

 あの男、死体で発見されたん、違うやろか。

 新聞に出るやろか。もう、日本には、いてられへんかもしれん。

 ああ、私の人生、もう終いや。アホなことした罰や。

 一生、心と身体に傷背負って、生きていかなアカンのやわ。

 ピンポーン

「ごめんください」

 ちょっと、考えられる?

 きっちりスーツにネクタイ姿、昨夜のことなんか、何あったん?

 いう顔で、相手が、家に現れたんや。

「ちょっと、男の人、来てるよ」と母。あの母や。

「会いたくないから、断って。病気で寝てるから言うて、断って」

「そんなこと言うても、折角、来てはるんやんか。どないして帰ってもらうの」

 と、あの母は、男を家の中に招き入れた。

 元々、外面だけは、いい男や。

 ちょっと見たら、真面目青年、その上、出身が、あの『学習院大学』。

 あの母と、あの男は、すっかり意気投合した模様。

 そうや。あの母は、早く、私を嫁に出したかったんや。

 世間体もある。別に、相手なんか誰でもよかったんや。

「ちょっと、折角、『お見舞い』に来てくれはったんやから、顔出さな失礼や」

とあの母は、言った。

 私は、無理やり起こされて、あの男を送って行く羽目になった。

 けど、これほど、変化の激しい男とは、知らなかった。

 昨日のことなんか忘れたみたいな上機嫌。

 ウキウキして、結婚の話なんかするんやから、もう呆れるというか、何を言うていいか、頭が混乱して、ボケーッとしたまま、駅まで送って行ったんや。

「私、結婚したない」言うてるのに、話は、どんどん進んで行く。

「結婚せんでもいいから、うちの親に、顔だけ見せといて」言われて、顔を見せる。

そしたら、もう『お嫁さん』扱いや。

 私も、波風立てるの嫌いやから、それらしく振る舞う。

 どうせ、無理やろ、思って、「ハワイで結婚式、住むのはマンション」と言うておいた。

 そしたら、すぐに、あの男から、「ハワイの予約が取れたから、安心して」

という電話がかかってくる。

 私は、結婚なんかしたないねん。

 そのうち、両方の親同士が挨拶するわ、あの母が、何やかや用意を始めるわ、私の気持ちなんか、誰も考えてくれへん。

 とうとう、私は、心痛の余り寝込んでしまった。

 その時のことや。

 ピンポーン。

 またや。イヤな予感がした。

 何と、あの男、引っ越しトラックを頼んで、自分の荷物をあの汚い安アパートから運ぶついでに、私の荷物も引き取りに来たんや!

 誰か、助けて!

 と思ったが、誰も助けてくれる人はいない。

 父は、企業戦士で、常に不在。後には、あの母しかいない。

「『お母さん』早くしてください」とあの男に言われ、あの母は、慌てて、私の荷物をまとめ始めた。それを、はじから、トラックの運転手とあの男が、運び込む。

 そして、最後に、まだ、結婚式もしてないのに、私まで、トラックに積み込まれてしまったんや。

 何で、こうなるの。

 私は、邪魔な荷物か何かみたいやないの。

 私の人権は、どこに落ちてしまったんやろ。

 そして、ハワイでの結婚式に新婚旅行。

 悪夢のような結婚生活が始まったんや。

 そうや。普通は、そう言う。

 まさに『望まれた花嫁』やった。

 そやけど、そんなもん、嘘やで。

 女は、望んで結婚せなアカン。

 望まれて結婚するなんか、奴隷と一緒やないの。

 もともと、結婚なんか、奴隷の売買みたいなもんやねんから。

 『結婚』せな、ちゃんと愛し合うこともできん同士が、何とか『生活』してるように見せるんが、結婚いうもんやんか。最近、やっとわかったわ。

 ごめん、ごめん。

 長い話になってしもたなあ。ええ、もう、買い物行くのやめた?

 それやったら、ゆっくりしていったら、ええやんか。

 今日は、私、仕事あらへん。ちょっと早いけど、ビールも冷えてる。

 まだ、子供も帰って来いへんわ。

 そやそや。あのジャックと豆の木の絵、どないなったんやろな。

 幼稚園に、電話でもしといたら、よかったなあ。

 一応、先生に手紙持たしておいたけど。先生も、大変やなあ。

 そうや、今頃、「園長先生、あのね、僕ね、昨日ね、ジャックと豆の木の絵を書いたんだけどね、あのね、ジャックの頭とね、身体はね、書いたんだけどね、あのね、手と足がね、あのね・・」言うて、ついて回ってるかもしれへんなあ。

 園長先生、胃痛くならはったりしてなあ。

『誰か、この子、どないかしてくれ』思てはるかもしれへん。

 ちょっと待ってな。一番冷えたん、捜すからな。

 こういうとこは、マメやねん。ちゃんと、ビールだけは、冷やしてんねん。

 まあ、いいやんか、たまには。

もう、そら、アル中になってるで。

 え? 20年以上飲んでるの? 私の先輩やんか。

 私は、まだ、そうやな、18の時からやから、10年ちょっとや。

 ごめんごめん。ちょっと、さば読みすぎたな。まあ、いいやん。

 私? そやなあ。わからへんなあ。自分の子供は、好きや。

 何で、そんな、子供嫌いやの? もともと嫌いなん?

 そら、私かて、若い時は、嫌いやった。

 けど、子供いて、ほんまによかった思うでえ。

 え? 無痛分娩?

 あれ、一番しょうもないって、私の友達、言うてたよ。

 陣痛の痛いとこだけ、そのままで、クライマックスのええとこだけ省いてあるんやて。

 最後がええんやないの。

 もう、あかん。もう、子供なんか、どうでもええ。

 切るなり突くなり、何でもしてくれ、いう時に、おなかの中から、ドーン、と出てくるんや。

 そや。ええウンチが、思い切り出たみたいなもんやんか。

『やった!』思うで。

『やっと、産んだんや!』思う。

 今までの重さ、10ヵ月の重さ、その全てが結実する瞬間や。

 私、感動したで。

 赤ちゃんの顔見て、思わず、泣いてしまった。

 ほんまに嬉しかった。

 これが、自分の子や。

 ずっと、おなかの中におった子や。

 私の産んだ時、ちょうどいい時やってん。

 ほら、あそこの医大やん。いっぱい看護学生が来てる時期や。

 皆、まだ純情で、優しいやん。

 一生懸命、腰さすってくれたり、手握ってくれたり。

 私って、サービス精神旺盛な人間やねん。そやから、馬鹿話したり、詰まらん冗談言うて、学生さんらと大笑いしててん。

 興奮してたこともある。

 そら、おなか痛い。

 そやから、陣痛と陣痛の合間に、しゃべるんやんか。

 そのうち、何か生まれそうな感じしてん。

「何か、生まれそう」とお医者さんに言うたんやけど、ちょうど混雑してる時で、二つしかない分娩台は、ふさがってたから、私ともう一人は、陣痛台で待ってたんや。

「そんな顔してるうちは、まだまだ生まれへんわ」て、お医者さんは、言わはんねん。でも、念のため、助産婦さんが見に来てんわ。

「せんせ、もう、頭見えてます」

 それで、分娩台に乗ってはった人と交替して、5分もせんうちに、生まれたわ。

 ほんま、人生の感動巨編やったわ。

 私が、感激と興奮の余り、子供の顔見て泣いたら、周りの看護学生や助産婦さんまで泣いて、助産婦さんの一人は、わざわざ同じ部屋の人に言いに行って、そこでまた、皆、もらい泣きした、いう嘘みたいな話やねん。

 ほんま、可愛かったわ、上の子は。

 他の人は、どう思ってはったか知らんけど。

 毎日、ジーッと顔見てた。

 可愛くて、可愛くて、仕方無かった。

 まだ若かったし、健康やったし、家事・育児・仕事やっても、まだ力余ってた。

 そやから、主人が、友達バンバン呼んでも、苦にならへんかったし、私は素直な人間やから、『妻やったら、こうするのが、当たり前』『母親やったら』『嫁やったら』て、お姑さんが言わはることも、そうやろな、思ってやってた。

 主人が言うことも、考えたら、自分のことばっかりで、目茶苦茶わがままなことばっかりやったけど、聞いてあげててん。

 それでも、ちょっとしたことが気にいらんと、よう怒鳴らはった。

 しょっちゅう怒鳴ってはったなあ。今、ちょっとマシなったけど。

 私は、そやから、ずっと悲しかった。

 自分に出来る精一杯やって、それでも、主人やお姑さんは、不足ばっかり言わはる。けど、それは、皆、私の仕方が悪いからや、と大抵の時は、思ってた。

 そうや。

 可愛い奥さんで、可愛い嫁さんや。

 いいお母さんやったしなあ。その上、自分の勉強もしてた。

 今日より明日が、少しでもよくなるように、思って。

 それに、本気で、そう信じてたんかもしれへん。

 きっと、いつか、素晴らしい明日が来るんや。

 幸せに満ちみちた光輝く未来。

 そうや。まだ、若かったんや。

 下の子を作ることは、ちょっとためらった。

 子供二人いて、仕事続けていけるやろか、いう不安があった。

 上の子の時ほど若くない。

 仕事は、乗りに乗ってた時や。

 それに、実際問題、『女の腰掛け仕事』いうて、主人には、馬鹿にされたけど、私が仕事やめたら、食べていかれへん状態やってん。

「一人っ子は、可哀相や」と主人が言うし、私も、そうかな思てん。

「働かれへんようなったら、仕事やめたらええやん」と軽く言うねん。

 この人に何言うても、アカンねん。

 お金いうんは、自然にわいてくる、思てはるから。

 自分が、ゴルフ行ったり、友達呼んでドンチャン騒ぎできるん、私も働いてるからや、いうんが、どうしても理解できへんねん。

 まあ、いうたら、子供やねん。

 何でも、私が何とかしてくれる、思てはんねんな。

 お母さん、きつい人やし、お父さんも、滅茶苦茶な人やねん。

 よう似た性格でなあ、すぐ、怒鳴らはんねん。

 後で、反省してはるみたいやけど、何か、子供おじいさんみたい。

 お姑さんも気強いから、今でも、喧嘩ばっかりしてはんねん。

 毎年、正月には、「もう別れる」言うて、大喧嘩しはんねん。

 私、子供の教育に悪いから、あんまり一緒に過ごしたないんやけど、うちの主人、私と一緒やったら、自分の実家に行きたいねん。

 私が親孝行してくれたら、自分がしたことになる、思てんねんなあ。

 そや。自分の手汚すん、嫌いな人やねん。

 私の手やったら、何ぼ汚れても、かまへんねん。

 そういう人やねん。珍しいやろ?

 とにかく、大変な年やったわ。

 うちの英語教室、それまで中1いうたら、年に二人入ってきたらええ方やったのに、その年は、八人も入ってきてん。

 そら、その年は、必死やった。

 何しろ昔からいる小学生が、どんどん中学卒業していく年やってん。

 存続の危機にさらされた年や。そら、必死やで。

 毎日、ビラ作って、配って歩く。

 近所の人まで、自分のことみたいに興奮して、ビラ配ってくれた。

 けど、主婦は、主婦や、思った。

 あ、ごめんね。でも、まあ、そうやねん。

 あなたなんか、以前働いてたから、そんなことないやろけど、一枚配るのに大騒ぎや。

 私は二千枚配る予定やったし、戸別訪問も軒並みするつもりやった。

 正直、疲れるで。

 優雅にテニスしてはる横を、大きな袋抱えて、小雨の中、回ったんや。

 近所の人達か?

 最初の30分くらいで、飽きてしまいはったわ。

 思ったより面白いこと無かったんやろな。

 一人なんか、化粧して、ドレス着て、配ってはった。

 それに、「ここ、絶対来る」とか、「ここ訪問したら、絶対入る」とかうるさいねん。

 そんな簡単に、生徒が入ってきたら、誰も苦労せえへんのにな。

 ビラだけやったら、千枚まいて、一人入ったら、いいほうや。

 戸別訪問したら、50軒に一人くらいかな。

 そやけど、先生が回って入れると、あんまりいいことないねん。

 最初から、頼んで入ってもらってるようなもんやから、親も子もなめてかかることがある。

 一番ええのが、専門の業者を雇うことやけど、これは、高いで。

 一人1万5千円プラス、その生徒の在籍中の月謝の5パーセント、言われた時は、私が、その仕事しよかしら、思たわ。

 思いもよらぬ大勢の新入生!

 そして、その年や、下の子ができたんは。

 二学期が始まったとたん、体調が異常に悪くなったのに、気がついてん。

 上の子の時ほど若くなかった、いうことや。

 病院行ったら、妊娠や。

『子供作るの、もうちょっと待とう』と考えた時やったけど、私って妊娠しやすいねんな。

 一回で妊娠しててん。

 おまけに、流産しかけてる。

 近所の人が、それ聞いて、夕食の準備してる私見て、泣かはってん。

 長屋みたいなマンションやったからなあ。何でも、つつぬけや。

「何で、主人に、そんな気、使うの。主人いうたら、一番甘えていい人間なん違うの?」

 近所の人達が、そう言わはんねん。

 ガーン、と頭を叩かれたような気がした。

 そんなこと、それまで考えたことも無かった。

 主人いうんは、甘えはるだけのもんで、私が甘えるなんて、思ったことも無かってん。

 思えば、アホな話やろ。

 私の友達のご主人は、皆、ものすごい優しい人ばっかりやねん。

 けど、そんなん特殊や、思ててん。

 そしたら、近所のご主人も、奥さんがしんどい時なんか、子供の世話したり、ごはん作ったりしはるらしい。

 ビックリ仰天してしまったわ。

 ああ、そう。

それは、幸せやね。

 へえ、休みの時は、いつでも作らはるん?

 買い物も行かはるん?

 へえ。あんまりのろけんといて。

 それで、その後、卵巣がねじれて、緊急手術や。

 丈夫や思て、無理しすぎたんやな。

 何もかも、一度に来たみたいな感じやった。

 そうや、その時や。

 主人が、病院で怒鳴らはったん。

 そや。

 上の子の生まれるので入院してた時も、怒鳴ってはったなあ。

 よその人には、親切やのになあ。

 友達が奥さん連れて来はったら、おなか大きい奥さんに、クッション出してあげたり、気使いはんねん。

 自分の友達も、すごく大事にしはんでえ。

 新婚の時、ほとんど毎日、友達呼んではって、大抵、誰か泊まっていかはるやん。

 そやで、のべにしたら、物凄い数やで、うちに泊まった人。

 そしたら、新婚の妻は、一人ベッドに寝て、自分は、友達と一緒に寝はんねん。

 最初、ホモ違うか、思たで。

 ホモやったら、立派な離婚原因になったのになあ。

 何の話やった?

 そうか、入院の話やな。

 下の子が妊娠3ヵ月。全身麻酔の手術や。

 それも、1回目失敗で、2回やってん。

 何でてか? 

 私が、病院にたどり着いた日は、連休の前の晩やってん。

 あの母が来てた時や。

 流産しかけてるいうんで、喜んでやってきたんや。

 何か口実ないと、娘のとこ来られへんやん。

 あの人、私の心配なんか、全然せえへん。

 いうたら、旅行気分や。

 まあ、ええやん。そういう母なんやから。

 暗い病院の廊下にたどり着いて、私は、とうとう動けんようになったけど、母は、『ああ、しんど』とばかりに落ちついて、ベンチに座っている。

 主人に似てる、思うでしょう?

 娘の方が心配で、泣きそうになっていた。

 そうや。

 私が病院で、「痛い」言うた時、「かまへん。わしが痛いんと違うもん」て言うた主人。

「あの時、私が死んでても、平気やったでしょう」とあの母に半分厭味で聞いたら。

「うん。けど、行くとこがなくなったら困るけど」と本気で答えた。

 ジョークちゃうよ。ほんまやよ。

 あの母で苦労してたのに、何で、よりによって、あの主人。

 私って、そういう運命やねんねえ。

 そやそや。

 連休の前夜、お医者さんも看護婦さんも早く帰りたかったんや。

 それで、「ほな、連休明けに、手術しましょう」言うて、帰りかけはんねん。

 散々、皆で、人の身体いじり回した後や。

 痛いとこ、つつき回して、それはないで、思た。

 もう、どうにでもして、いう気持ちや。

 どこでも切って。

 お医者さんら、いじり回したけど、卵巣がねじれてるのは、わからへんかってん。

 それで、もしかしたら、子宮がどうにかなってるかもしれへん、とか何とか言うてはってん。

 もめてはったけど、諦めたんやろな。

 緊急手術に決定!

 私は、万歳、思た。

 このままやったら、どうにかなる、思たから。

 本能的なもんやな。

 後で、手術が遅れてたら、ショック症状を起こして(死んで)たかもしれん、て看護婦さんが言うてはった。

 大至急、スタッフが呼び集められた。

「わし、レバニラ炒め、食うてる最中やった」麻酔医。

「ほんまに、もういやんなるわ。家帰ったとこやった」看護婦さん。

「嫁はん、怒るやろな。帰る言うてた」担当医。

「すみませんねえ。せっかく、お休みになるとこやったのに、私のために」とサービス精神を振りまく患者。 

 和気あいあいの手術風景やった。

「芸術的に縫うといたからな」と担当医。

「まあ、嬉しい。ありがとうございます」

 点滴・導尿・おまるの生活や。

 退院の日を指折り数えたもんや。

 抜糸もすんで、後1週間で退院や。

「お前のお陰で、仕事で大変なミスするとこやった」と夫。

 形相を変えて、私の病気をなじるんや。

 これが、『心配しないでね』とVサインをして、けなげに手術室に向かった妻に対する態度か。

 まあ、そこまでは、まだ良かってん。

 おまるやから、もちろん、便秘や。おなかはパンパン。

 故に、食欲もなし。

 医大いうんは、食事、まずいねん。

「何かおいしいもん、食べたい」と仕事にかこつけて、滅多に来ない夫に言うと、

「わがままを言うな。手術した後やろ」とまた、怒鳴られた。

 姑がいやそうに、一度だけ、寿司を買ってきてくれた。

 そやそや。

 二度目の手術やな。あと1週間で退院や。

 その時、くしゃみが出てん。

 ハ、ハ、ハックション!

 と物凄いくしゃみやった。

 自分でも驚いたわ。

 その時や。プシュー、いう音がしてん。

 どこで、いうたら、おなかの傷のとこや。

 何か、空気が漏れたみたいやった。

 慌てて、おなかに触ると、手に血がついた。

 全身の力が、一度で抜けたわ。

 担架で運ばれて、また手術室へ。

 厄日や、思たな。

 手術する時、ほとんど真っ裸や。

 季節は、冬や。

「何でや。暖房、壊れてるで」

 そやねん。暖房壊れててん。

 麻酔医は、この前の熟練者と違って、インターンが教えてもらいながらするねん。

 もう、諦めたわ。

『私、生きて、ここから出られへんねんわ』思た。

「ここですか? え? 違うんですか?」言う麻酔医。

 結局、麻酔は効かへんかってん。おなかに効かんと、足に効いてしもてん。

 笑うやろ。

 お医者さんら、集まって、相談してはんねん。

「どないします? このまま縫いましょか」

 寒い上に、痛いんか。

 もう、どうでもいいわ。

「ちょっとだけ眠らせてあげるわ」そう言うて、点滴の中に何か入れはった。

 その時や。

 私が、あの世に行きかけたんは。

 言うてなかったか?

 前に言うたような気がするけど、まあ聞いて。

 暗いトンネルの中やってん。

 その中をトボトボ歩いてんねん。

 向こうに小さく光が見える。きっと、そこが出口やねん。

 歩いて出口に近づくと、明るい光が、辺りに満ちあふれてきた。

 あんまり、もう覚えてへんねん。

 けど、もの凄い楽しいとこやった。

 子供みたいな人達が、輪になって踊ってたり、花が咲いてたり、もう、いるだけで楽しいねん。

 幸せやねん。

 私、それまでに、そんな幸せな気持ち、味わったこと無かったような気がした。

 いつまでも、そこにいたかった。

「もう、帰る時間やで」と誰かが言った。

 いやや。帰りたくない。ここに、いたい。

 ずっと、ここにいたい。帰るの、いやや。

 けど、帰らなアカンのは、わかっていた。

 行きと違って、私は、トロッコみたいなもんに、縛りつけられて、物凄いスピードで、帰って行った。

「このトンネルの闇の部分に触れたら、身体のその部分は無くなってしまう」と誰かが脅かすので、私は、全身を縮めていた。

 急に、トロッコが止まって、私は、空中に放り投げられた。

 下を見たら、自分が見えた。

 ライトに照らされて、手術されてるとこや。

 自分が、すごく小さい者に見えた。

「あんなとこに帰るの、いやや」

 そう思ったとたん、私は、自分の身体の中に帰っていた。

 ひどく惨めな気分だった。

 忘れないうちにと、私は、そこにいた医者達に、次々と、その不思議な世界の話をした。

 全部覚えてへんのが、今でも残念や。

「そんなええとこやったら、もう一回行かしたろか」と医師が言った。

「もう一回行ったら、二度と帰って来ませんわ」

 病人には、気、つけた方がいいで。

 人の心が見えるから。

 ほんまやで。

 人の心の中が、透けて見えた。

 主人と別れよう、思たんも、あの時やし、お姑さんが、『かたわの子供と一緒に死んだらいい』思てんのが見えたのも、あの時や。

 色々な友達、近所の人が来たけど、誰が心配してるか、喜んでるか、元気なのでガッカリしてるか、いうんが、すごくよくわかった。

 あの病気を境にして、私の交遊関係は、かなり違ったものになったよ。

 それまでは、八方美人。

 誰にでも親切で、できることは何でもしてあげよう、思ってたけど、自分の命も身体も一つ思たら、自分や子供を犠牲にしてまで、他人に尽くす意味が無くなった。

 これだけは、言いた無かったけど、一番惨めな話、しよか。

 主人と姑が、おなかの子供をおろせ、言うてん。

 姑は、上の子の時も言うた。

 私、流産しかけやすいんかもしれへん。

 それに、先生いうんは、肉体労働や。

「お前は、はしゃぎ過ぎや、てお袋が言うてたぞ」とも夫が言うた。

 顔を見るのも、いややった。

 以後は、地獄地獄の連続や。

 体調は崩れっぱなし。

 子供二人の世話。

 仕事もきつい。

 夫は、何も助ける気がない。

 甘い汁だけが欲しいんや。

 しんどいことは、みんな、他人。

 おいしいとこだけ、自分が食べる。

 何か、そんな話、あったなあ。

 下の子が、また、身体が弱い。

 医者通いや入退院が、何回かあった。

 何も考えること、できへんかった。

 その日一日を何とか過ごすだけで、精一杯や。

 そこにもってきて、週に一回、遊びがてら、子供の世話しに来た姑が、

「ああ、せえ、こう、せえ」と命令するんや。

 それでも、いい嫁の私は、全部、言うこと聞いてた。

 主人の言うことも聞いてた。

 習性やな。

 よく言うやん。

 奴隷も、とことん締めつけられたら、反抗する気力も無くなるって。

 まさに、それや。

 それに、まだ、丈夫やった。無理がきいた。

 去年の夏や。

 知ってるわな。

 急に、プレスリーに狂い始めたんや。

 仕事は、今までで一番忙しかった。

 何しろ、生徒の大部分が受験生や。

 半分が、大学受験や。

 気違いみたいな一年やった。

 病気の時に、全力疾走してるようなもんや。

『このまま、燃え尽きるん、ちゃうか』と密かに思った。

『このまま、燃え尽きたら、何のための人生やったんやろ』とも思った。

 急に、何もかもが虚しくなった。

 生活は、今までの惰力で動いている。

 けど、心は、空虚やった。

 そんなはずは、ない。

 一番仕事に燃えてる年やないか。

 来年になったら、下の子も幼稚園。

 楽になって、何でも好きなことが、できるやないか。

 そう、何度も思ったけど、虚しさは消えなかった。

 その時や。

 プレスリーの歌が聞こえてきたんは。

 そうや。

 昔、好きやった。

 中学高校の時やな。

 それから、ずっと好きやったけど、レコードは、どっか行ってしまうわ、主人と違って、音楽楽しむような時間は無いわ、で正直、忘れてたんや。

 それが、突然、私の心の空洞に入り込んできた。

 どんなショックやったか。

 好きは好きやったけど、そんな凄い歌手やとは思ってなかってん。

 そんな、一人の人間の魂を根底から揺すぶるような。

 歌を聞き、ビデオを集めるうちに、私の周りの現実が、みるみるうちに、色を失い始めた。

 というより、ありのままの現実が、見え始めた、いうことやろな。

 誰も、ビデオの中で歌う彼ほど、生きてへんように思えた。

 不思議な生々しさや、嘘みたいな生々しさや。

 この世の中で、生きてるんは、この人だけちゃうか、いう生々しさや。

 私は、悲しかった。

 自分が、生きながら、死んでるみたいな感じやったから。

 自分が、滅茶苦茶、孤独や、いうのもわかった。

 ずっと気がつかんかったけど、私は、ずっとずっと淋しかったんや。

 別に、酔うてへん。

 そら、あなたは、幸せやろ。

 でも、そう思ってるだけ違うか?

 人間いうんは、元々、孤独なもんや。

 それを何やかやで、覆ってるだけや。

 そんなことにも、私は、気、つかんかった。

『私の人生、何やったんやろか』そう思った。

 そしたら、彼は、歌ったんや。


『無駄に流れる日なんか、一日も無い。

 どの一日も、大切なもんや。

 どの人生も大切で、意味があるんやで』


 何で、大阪弁で歌うんかて?

 ええがな。メンフィスいうたら、アメリカの大阪や。

 そうや。

 それから、私は、生まれ変わったんや。

 知ってるやろ。

 あの後から、気違いみたいに、小説書き始めたこと。

 それが、私にとって、生きることやったんや。

 歌、歌えたら、歌手になったかもしれへん。

 けど、歌、歌えへんから、小説書いてん。

 私、音痴やねん。

 音痴を、こんだけ感動さすいうんは、物凄いことや、思わへんか?

 私は、思う。

 凄いことや。

 知ってるか?

 あの人、アル中も立ち直らせはってん。

 心と身体に障害持った子も、救いはってん。

 そしてな、私も、助けはってん。

 そやから、初めて、お姑さんに口答えしてん。

 そしたら、それきり絶縁状態になってんねん。

 楽やねん、すごく。

 主人、そのこと、怒ってん。

 そやから、「離婚したい」言うてん。

 はっきり、言うてん。

 そんなこと、考えられへんかったやろ?

 私、『ノー』て言えるようになってん。

「お母さん、初めてお祖母ちゃんに怒ったね。初めて、パパに勝ったね」いうて、娘が、褒めてくれたわ。

 今までの私、自分でも嫌いやってん。

 何でかわからんかったけど、流されてるだけの人間やってんなあ。

 今もあんまり、自分のこと、好きと違う。

 けど、前に比べたら、大分好きや。

 毎日、ちょっとずつ、好きになっていく。

 私、プレスリーに感謝してんねん。

 あのままやったら、きっと今頃、この世とお別れしてたやろな。

 プッツン、いうて、命の糸、切れたやろな。

 そうや。知らんかったけど、私、血圧、物凄い高かってん。

 上が200で、下が140やってん。

 信じられへんやろ?

 ちょうど今年の受験発表の日や。

 発表見てたら、急に気分が悪くなってん。

 それで、救急車や。

 知らんかったか? 同じマンションやのになあ。

「せんせ、それで死んでたら、恥さらしやったなあ」と生徒が言うたわ。

 ほんまやなあ。

 何のために生きてたかわからへん。

 そやな。

 よう考えたら、私、子供、好きや。ちょっとだけやけどな。

 自分の子供と、自分の生徒、好きや。

 ピーポーン。

 あ、しまった。

 幼稚園のバスの時間、忘れてたな。

 ごめんごめん。長い間、引き止めてしもた。

 つまらん話、いっぱい聞かしたなあ。

 え? 今度は、私の話も聞いて欲しい?

 何やの、幸せいっぱいやねんやろ?

 ご主人にも子供にも、満足してるんやろ?

 お姑さんも、できすぎた人やんか。

「はい、はい。ごめん、ごめん。ちょっとな、忘れててん。今行くとこやったんやでえ。それで、どうやったんや、ジャックと豆の木の絵は? そうか。よかったな。お母さん、言うてたやろ? 先生が、しまってるって」

 あ、それじゃあ、またね。

 いつでも来てね。

 仕事ない時やで。ある時は、アカンで。

 何でも聞いたげるやん。

 わかった、わかった。

 子供、おらへん時な。

 子供、嫌いやもんな。

 それじゃ、ね。

 また。


 さようなら。


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