インスタント
ラーメン、コーヒー、スープにみそ汁。お湯を注げばできあがりのお手軽食品。
レトルトカレーは常にストックを欠かさない。白飯さえあればすぐに一食まかなえる。体調を崩したときのためにおかゆも買ってある。たまごがゆははずれない。
冷凍食品ならチキンライス、オムライスを食べたくなったときにいい。一食分をレンジでチンして、焼いたたまごを上に載せる。たまごに冷凍ほうれん草を加えると見た目も華やか、チーズを加えるとなおおいしい。おすすめはチェダー風チーズだ、温めたチキンライスの上に載せ、たまごはその上にかぶせる。すぐに溶けて馴染み、深いコクを出してくれる。
エビピラフは安物でもたいていおいしい。冷凍食品といえば、最近はパスタもクオリティが高い。三百円程度でおいしいパスタを味わえる。量は少々物足りなさを感じるが、ならば二食食べても、レストランで食べるよりだいぶ安価だ。
長引く一人暮らし。おいしいものは好きだけど、一人分の料理は面倒くさい。残業続きのくたくたで台所に立つのもしんどい、ちょっとがんばろうと思っても食材が余りがちになる、気づけば冷蔵庫のなかでまっ黒になる野菜たち。そんなわたしを、インスタント食品は存分に甘やかしてくれる。
所用で訪ねてきた母が膨らんだゴミ袋を見て顔をしかめた。言いたいことはわかっている、どうしてインスタント食品ばかり食べるの、どうしてゴミ箱を用意しないの、どうしてこんなにゴミをためるの、だ。
インスタント食品ばかりの理由はすでに述べたとおり。インスタントでも料理は料理、おいしく食べられればいいのよ。
ゴミ箱を用意しないのは一人暮らしの狭いアパートではかえって邪魔になるからで、ゴミをためてしまうのは市指定の有料ゴミ袋が大きいから。一枚単価が高いから、なるべく詰めこまなくては損だ。
しかし母もわたしもただ黙る。相手が自分に言いたいことを、お互いにもうわかっていた。口にしたところでケンカになるだけだ、いっしょに暮らすわけでなし、飲みこんでやり過ごしたほうが賢い。
母がどう思っているかは知らない。少なくともわたしは、母が苦手だ。
母という人間は子を支配したがる。ああしろ、こうしろと言いつけて、どうしてこれができないの、どうしてこうなっちゃうのとヒステリーを起こす。子どものころはいちいちびくびくした、いつ母の機嫌を損ねるか、どうすれば母の期待に応えられるか、常に緊張していた。
大学へ行けとしつこい母を振り切って、高校卒業後は一人上京した。アテなんかなかった、時給に目がくらんでパチンコ屋にアルバイトとして入り、二年後には社員になった。朝だったり夜だったりシフトがまちまちできついことも多いけど、なんとかなってる。それについても母はよく思っていない、最初の数年はことあるごとにチクチク言われた。
パチ屋勤めも八年目。母は、もうなにも言わなくなった。それでようやく、わたしは母とつきあえるようになった。こうして部屋に招くことも、泊めることもできるようになった。逆に言えば、今まではできなかった。
これは大きな進歩だ。
奥の洋室――といっても1Kの小さなアパートだ、台所とはドア一枚で隔てているだけで、たいした距離ではない。――へ母を押しこめ、なにか飲むだろうと、コップを二つ出す。母は上着を脱ぎ、荷物をといて、わたしのベッドに腰を下ろしてくつろぎ始めた。
「あんた、これ、食べる? バウムクーヘン」
白い華やかな箱に入ったそれを差し出して、母が言う。引き出物だ。母の用事というのは、友だちの結婚式だ。ずっと仕事一筋だったキャリアウーマンで、五十歳を目前にしてようやく結婚したのだという。どうだった、と訊くと、きれいだった、幸せそうだった、答える。
そのわりにどこか不満げだ。友人をお祝いしてきた人間の纏う雰囲気ではない。
「だってね、お相手、九つも年下だったのよ。なのに二人もお子さんがいるの、高校生と大学生」
「九つ下‥‥ってことは、四十くらい? ならいてもおかしくないでしょう、お母さんだって、わたしを産んだのは二十二歳のときでしょう」
「そうじゃないのよ、そこじゃないのよ」
母がイライラと否定する。ああ、この口調は、いやだ。
「どうしてあんた、わからないの」
わからないよ。言う代わりにわたしは、バウムクーヘンの箱を開けた。甘い香りが広がる。中心に穴の空いた、幾重にも重なる美しい層に、わたしはつばを飲む。おいしそう。
「あら、切れてないのね」
とたんに機嫌を直した母が、人差し指を唇に当てて言う。わたしは黙ったまま台所へ戻り、ナイフを持ってくる。一人暮らしを始めたときに安い包丁を買ったが、使わないでいたら刃が錆びてぼろぼろになったので捨ててしまった。今使っているのはこのナイフ。百円均一で買ったものだけど、これまた百円均一で買った研ぎ器で研げば、それなりのものになる。たまにしか使わないのだからこれで十分。
切り株にナイフを入れる。四回。八等分。切り口が少し崩れたが気にしない。
それから、さきほど用意したコップに、ペットボトルのお茶を注ぐ。冷蔵庫には入れていない、常温管理のお茶だけど、この時期はこれがいい。熱くても冷たくても飲みづらい。
「お皿は?」
「え、いる? ちょっと待って」
ナイフと引き替えに、小皿を二枚。しまう前には当然洗ったのだけど、普段使われない小皿は少しべとつく。逡巡ののち洗い直して、水気をタオルでぬぐってから部屋へ戻る。一枚を母に渡すと、いぶかしげに小皿を見つめたあと、深いため息をついた。
「ほんとう、あんたは‥‥」
言いかけて、黙る。いいかげん反論したい、口を開きかけたのに母がうつむくから、言葉はすかっと鼻先で溶けた。
どうしたんだろう。
母の小皿にバウムクーヘンを一かけら載せる。わたしの小皿にも一つ、のつもりが、そのまま口へ。バター香る柔らかい年輪、雪のように白く甘い樹皮。おいしい! とわざとはしゃいでみせると、母は、ようやく少し笑ってくれた。
人を泊める仕様にはなっていない。客用布団はないし、余分な毛布もない。母とわたしは実に二十年ぶりぐらいに、一つのベッドでいっしょに寝た。
今日は休みだった、昨日までは遅番だった、でも明日は早番。今朝起きるのが遅かったからまだちっとも眠くない、でも寝なくてはいけない、寝ないと。そんなわたしをよそに、母は、真っ暗な天井に向かってぽつりぽつりと話し出す。
「わたし、あの子になに一つ、勝ってるものがなかったのよ」
慰めるような、まるで子守歌のような呟きだった。
「地頭がいいっていうんだろうね。高校を卒業したら、ぽーんっと上京して、三年くらいはアルバイトをしてたのかなあ。それから突然、会社を興したの。びっくりしたわ、輸入家具の販売。今もやってるの、大成功よ、すごい子なのよ。それに明るくて楽しいの、いつも笑っててね。行き当たりばったりなのにやけに頼もしくって、あの子が男の子だったらどれだけもてただろうって、みんな言ってた。わたしもそう思ってた。
でもあの子、結婚だけはずっとできなかった。あの子ね、仕事はできるけど、家のことはからきしなの。洗濯はなんでもかんでもクリーニングに出すし、食事は外食かインスタント。掃除はね、東京に住んでいるのが仲間内であの子だけだったから、ちょっと用事で泊まるとき、お礼がてらにやってたのよ。そうしないと寝る場所もなかったの。ほんとう、男の子みたいだった」
ああ、わかった。お友だちって、桐下さんのことか。遠い記憶を掘り起こす。
桐下さんのマンションには、幼いころに何度か泊まったことがある。東京タワーに行くから泊めて、とか、ディズニーランドに行くから泊めて、とか――ああ、思い起こせばいつも、わたしたち親子の都合だったなあ。でも桐下さんはいつも、ニコニコと迎え入れてくれた。
たしかに、着いて一番には、掃除をしていた気がする。わたしは散らかった新聞を集めて整える係だった。それが終わったら、ほうきで床を掃いた。クリーニングのタグがあちこちに落ちていたっけ。
いつも行楽の前日のお昼について、夕方までかかって掃除をした。ぐちゃぐちゃだった部屋がピカピカになるのは楽しかった。たぶん、自分の家ではないからだろう。すがすがしいほどの散らかしっぷりに、わたしはいつも笑わされた。自宅がこうなら笑えない。
大掃除が終わると、みんなでレストランへ行った。ふつうのファミレスだ。家族でファミレスへ行くときは必ず母の隣を陣取るわたしだったけど、桐下さんとのときは、桐下さんの隣がいいとだだをこねた。特等席だった。
わたしは桐下さんが大好きだった。
失礼ながら、桐下さんは正直、美人でもかわいくもない。頭がちょっと大きめで、硬くて黒々とした髪は、ひとくくりにするとほうきみたいだった。整えた眉、切れ長の目は涼しげだったけど、ふっくらしすぎたほほとアンバランスで、大きめの鼻も悪かった。
でも愛嬌があった。母の言うとおり、記憶の限り、桐下さんはいつでもニコニコしていた。掃除を終えたあと、いつもわたしの頭をなでてくれた。ファミレスではデザートをごちそうしてくれた。うっかりハンバーグを落として泣くわたしに、自分のお皿からエビフライをくれた。そうそう、掃除のときに置いてあった花瓶につまづいて割ってしまったことがある。それも、笑って許してくれた。
当時のわたしは、大人になったらみんな自動的に結婚するものだと思っていた。だから独身の桐下さんがふしぎで仕方なくって、どうして結婚しないの、と訊いたことがある。桐下さんは困ったように首をかしげて、なんでだろうねえ、おかしいよねえ、と答えた。
今なら、わかる。少なくとも当時の桐下さんには、結婚する理由がなかった。相手がいなかったという面もあるだろうけど、一人でも十分な生活できたから、結婚する必要性を感じなかったのだろう。
それがわからなかったわたしは、無邪気に、こんなことを言った。
「じゃあ、わたし! わたし、おとなになったら、桐下さんとけっこんする」
「ええー、うれしいけど、女の子同士じゃ、結婚できないんだよ」
「そうなの? じゃあ、じゃあ‥‥わたし、おとこのこになる」
「なにをバカなことを言ってるの、あんたは」
子どもなりに考えた解決策を提案したら、母に笑われながら叱られた。桐下さんはただ笑っていた。なにがおかしいのかわからなくって、笑う大人たちを、わたしは黙って見上げていた。
そっか。桐下さん、結婚したんだ。
「あの子の、自由に生きられる才能が妬ましかった。でもわたしはいち早く結婚して、いち早くあんたを産んだ。それが誇りで、よりどころだった。だのに結婚も子どもも、あの子、一息に手に入れたわ。しかもうちの子は、あんたは、なんでか、あの子にそっくり――頭はよくないのに」
大きなお世話、それはお母さん譲りでしょ。つっこみたかったけど、それより早く母が加えた。
「ま、わたしの子だもんね」
わかってるんじゃん。
ちょうどよく眠くなってきた。耳を母に傾けたまま、目を閉じる。体の片側が温かい。いつもはしない、体温の匂い。
「お母さんは、わたしを産んだじゃない」
桐下さんは産んでいないけど。そこまでは、口が回らなかった。でも母には伝わったようだ。くすくすと笑う。
「あの子、ぜったいこう言うわ。子どもは子どもでしょ、って」
確信的な口ぶりが、母と桐下さんの長い歴史を強調する。ほんとうかな、言うのかな、桐下さんは。
母の声が遠ざかる。真っ暗だったまぶたの裏に、懐かしい、両親の寝室の天井が映し出される。まだしわも白髪も少ない母が添い寝して、絵本を読んでくれている。うとうとするわたしに、明日はキリちゃんちへ行くから、早起きしようね、と優しく耳打ちする。
くすぐったい。懐かしい、懐かしい。
「あんたにはわからないわよね、ううん、わからなくっていいのよ、わたしのみにくい嫉妬だもの、わからないでいいのよ。
ああ、でもね、あんたは、ちゃんと考えなさいよ。その場その場じゃなくって、ちゃんとさきまで。あんたは、あの子ほど頭よくないんだから」
包丁くらい、買うか。