第2話 どこかで聞いたことのある名前だと思ったら……
『サオリ、いつまで休んでいるんだい?さっさと仕事に戻りな』
『わかりました、ミリアムさん。すぐ行きます』
私が砂漠の世界にやってきた半年前のことに思いを巡らしていると、ミリアムお婆さんに呼ばれた。どうやら『少しの間』はとっくに終わったみたいだ。機械の時計がないこの世界では時間の概念はあいまいな表現で伝えるしかない。そのわりにはみんな不自由していないみたいだ。きちんと意味が伝わっている。私はまだまだだ。ちなみに彼女は『お婆さん』と呼ばれるのが好きではない。それを知らなくて失敗した時のことは思い出したくない。
『ミリアムさん、遅れてすみません』
『サオリ、台所の片づけが終わったら、ヨエルの面倒を見ること。ちゃんと寝かしつけるんだよ』
『はい、わかりました』
言われたとおり台所の片づけをしようとして、ふと隣の部屋を見るとハンナさんが赤ん坊にお乳を与えていた。ハンナさんはミリアムお婆さんの甥の奥さんで、子供3人の母である。末っ子のヨエルはもうすぐ1歳になると思う。そうか、ヨエルがおっぱい求めて泣き出したから片づけを中断したのか。ということは授乳が終わる前に仕事を終わらせないといけない。
台所の片づけも半年もやっていると慣れてくる。最初は水を使わずにどうやって掃除するのかと悩んだものだ。掃除機なんてものはないから箒で床を掃くしかない。だがうまくやらないと部屋中に埃が舞い上がってしまう。そうなったら時間がたつのを待つしかない。まさか箒を使うことが高等技術だとは思わなかった、そう言ったら隆児君に笑われた。「沙織ちゃんは掃き掃除のプロだね」誉められたはずなのになぜかあまりうれしくなかった。
さっさと片づけを終わらせて隣の部屋に行くと、まだ授乳が続いていた。相変わらずヨエルはよく飲む。ふと彼女にはまだ謝っていなかったことを思い出した。
『ハンナさん、水瓶を倒してしまってすみませんでした』
『あら、サオリ。そんなこといいのよ、気にしなくて。それより大変だったでしょ、こんな暑い昼間に一人で水汲みに行って。お婆さんもリュウジと一緒にいかせればよかったのに』
『そんなことないです。私がドジなのが悪いんです』
『だめよ、サオリ。そこは話にのってこなくちゃ。そこは「そうなんですよ、お婆さんはいつも無茶ばかり言ってくるんです」と言わなきゃ』
『そんなの怖くて言えません。というか考えただけでもばれそうです』
まったく。ハンナさんはいつも私をおもちゃにしてくる。私の反応を見て楽しんでいるのだ。実際、今の私はおびえているのだろう。でもそれだけが理由じゃない。
『それに、ミリアムさんは私達を受け入れてくれたから』
『そうね。ピネハスが連れてきたあんた達を、お婆さんはみんなの反対を押し切って受け入れることに決めたからね』
『あのう、ピネハスも反対しなかったはずだけど……』
『二十歳にもなってない半人前は数に入ってない!』
私と隆児君のために必死に家族を説得していたピネハスが哀れに思えてくる。あのとき、大人の男達は首を横に振っていた。たとえ言葉が通じなくてもそれの意味は理解できた。それをひっくり返したのがミリアムお婆さんだ。威厳のこもった声でしゃべると場の空気固体化したようになった。そして彼女が話し終えるともはやだれも反対しなかった。
『ねえ、ハンナさん。あの時なぜミリアムさんは私達を受け入れてくれたの?私達は余所者なのに』
『お婆さんに訊いてみたら?』
彼女はニコニコしながら答えた。まったく意地が悪い。尋ねても無駄なのはわかっているくせにこういうことを言う。
『ミリアムさんが答えてくれないから、ハンナさんに訊いているの』
私の真剣さが伝わったのだろうか。ハンナさんは私をじっと見つめると深く息を吐いた。
『そうだな、話してやるか。なら、まずヨエルを寝かしつけてくれ』
そう言って赤ん坊を私に手渡してきた。いつの間にか授乳は終わっていたらしい。私はいつものように日本の子守歌を歌ってあげた。するとお腹が膨れたからだろうか、ヨエルは目を閉じて眠りだした。やっぱりかわいい。
『はー、サオリの歌はいつ聞いても心が落ち着くよ。それに子供がすぐに寝てくれる。サオリは歌の才能があるよ』
どうも私は子守歌の才能があるらしい。こちらの世界限定ではあるが。学校の音楽の成績は人並みだし、歌手になるのを夢見たこともない。それでもこちらで歌うとまるで癒しの効果があるみたいだ。ピネハスにも言われた。あの時私が歌っていてくれさえしたらあんなに苦労することもなかった、みんなすぐに私達を受け入れることに賛成しただろう、と。でも今は私の歌の話をする時ではない。
『はいはい。ハンナさん。そんなことよりさっきの続きを話してください』
するとハンナさんは、『あっ、そうだったね』と言って、話し始めた。オイオイ忘れていたのか。
『あれはミリアムお婆さんがあんたぐらいの年だったかね。男の赤ちゃんが生まれたんだ』
『つまり、ミリアムさんに弟ができたということ?』
『そう。でもそれは私のお義父さんの話じゃない。お義父さんより3歳下の弟の話』
頭の中で人間関係を整理してみた。ハンナさんの義理の父(旦那さんの父親)はアロンといってミリアムお婆さんの弟になる。本来なら、この大家族の家長であるはずなのだが、姉には頭が上がらない。ちなみにアロンさんはピネハスの祖父でもある。
『本来子供が生まれたというのは一番喜ぶべき話なんだが、あの時はそうじゃなかった。女の赤ちゃんだったらよかったんだけどね』
『何故ですか?』
『男の子が生まれたら、その子を川に投げ捨てろ、という命令が出ていたからさ』
一瞬息が止まった。何それ?そんなこと許されるの?
ショックを受けた私をしばらく見つめた後、ハンナさんは下を向いて話を続けた。
『サオリもすでに知っていることだが、私達は奴隷の民。宗主国の命令は絶対さ。もともと私達の人口が増え、反逆されるのを恐れた君主が出したとんでもない命令。今はもう取り消されたけど』
『……』
『私はお婆さんから何度も話を聞かされた。当時は凄まじかったらしい。いたるところで母親の泣き叫ぶ声が響き渡った。私達は生後8日目に子供の名前を付けることになっている。でもあのときはだれも名前を付けようとしなかった。いつ見回りの兵隊たちに見つかって子供を連れ去られるかわからないからね』
もう、言葉が出ない。その時ふと気が付いた。この家にはアロンお爺さんと同じくらいの年齢の人はいない。もしかしてその男の赤ちゃんも殺され……
『大丈夫だよ、サオリ。その赤ちゃんは殺されなかったよ。お婆さんの活躍でね』
(ミリアムさんの?)
私が頭の中の質問が分かったのだろうか。ハンナさんは顔をあげるとゆっくりとうなずいた。
『最初からみんなの考えは同じだった。絶対この男の子を護ろう、と。赤ちゃんは徹底的に隠された。お婆さんは家の手伝いよりも兵隊たちの見張りを優先させられた。でもそれにも限界が近づいた。そしてとうとう家の中にこれ以上隠すことは無理と赤ちゃんの両親は判断した』
(まさか、あきらめたの?)
『母親はパピルスの籠を作った。ちょうど赤ちゃんが入るぐらいの大きさにね。さらにその籠に水が入ってこないように処置をした。そして赤ちゃんを入れて川に流した』
私は思わず立ち上がった。そんなのってないよ。
『サオリ落ち着きな。ヨエルが目を覚ましちゃうだろ。それより話を最後までちゃんと聞けって。母親は赤ちゃんを見捨てたわけではない。神様にゆだねることにしたのさ』
(それはいくらなんでも無責任だと思う。こちらでは信仰的になるのかもしれないけど)
私の表情が面白かったのだろうか。ハンナさんはククッと笑うと話を続けた。
『ほんとにサオリは見ていて飽きないね。話はここからだよ。赤ちゃんの姉は、神様がその男の子にどう対処するのか見届けるよう言われた。そして彼女は川を下っていく籠の後を追った。すると籠はちょうど水浴びに来ていた王女様の前に流れて行った……』
ちょっと待て。この話はどこかで聞いたことがある。そうだ、教会で隆児君から教会の子供のクラスで聞いた話だ。確か王女はその赤ちゃんを自分の子供として育てることにしたはずだ。そしてその赤ちゃんに名前を付けることにしたんだと思う。その名前は……
『王女様はその男の子に名前を付けることにしたんだ。水から取り出したということで……』
『モーセ』
『へー。よく知っていたね。誰に教えてもらったのかな?』
私は頭が混乱してきた。どういうことだ、これは?いくら私でも「モーセ」という名前は覚えている。「ミリアム」は忘れていたけど(ミリアムお婆さんすみません)ということはつまり……
私と隆児君は聖書の世界にやって来たというの????
後で隆児君に訊ねてみたら、「とっくに知っているものだと思ってた」と言われた。