第1話 晴れ、時々遭難
もし日本で遭難することがあるとしたら、嵐の海とか吹雪の山といった場合だろうと今まで思っていた。今日、新たにもう一つのシチュエーションが加わった。晴れの日の砂漠。
「落ち着いた?沙織ちゃん」
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめんね」
「気にしない、気にしない。誰だってあわててしまうよ、いきなりこんな砂漠にほうりだされたら」
隆児君は笑いながら、自分も最初は取り乱してしまった、と言ってくれた。目が覚めた私は目の前の景色にわけがわからなくなって泣き叫んでしまった。それも隆児君の胸にしがみついて。恥ずかしいったらありゃしない。でも、彼も動揺したのかな。だとするとちょっと見てみたかった。彼が慌てふためく様子なんて想像できない。
「これからどうするの?」彼に尋ねた。
「助けが来るのを待つさ」
「助けなんて来るの?見渡す限り岩と砂しかない砂漠だよ。サボテンすらない。いったいどこから助けが来るの?」
彼の答にまた私の感情が爆発しそうになった。落ち着け、私。でもいくらなんでも楽観的すぎるのではないだろうか。
「大丈夫だよ、神様にお祈りしたから。きっと助けは来る」
「……」
「それまでここで待っていよう。無駄に歩き回っても体力を消耗するだけでかえって危険だ」
そういえば隆児君は牧師さんの息子だった。なるほど、その信仰の強さは父親譲りか。彼の表情からは疑いの影は一切見えない。私のように不純な動機で教会に行くような人には絶対まねできないだろう。
「わかったわ、ここで待つことにする」
それから数時間が経過した。でも事態は何も変わらない。私達は大きな岩の横に座って「助け」が来るのを待ち続けた。岩の影に入っているがそれでも暑い。なにしろ日本の2月からそのままやって来たために服装があってない。パーカーはすでに日傘のかわりとなっている。
(ねえ、いつ助けが来るの?本当に助けなんて来るの?)何度そう言おうとしたことだろうか。でも答えられないことを訊いても仕方がない。それよりも問題は食料と水だ。私達は手ぶらで砂漠に飛ばされた。水がないのは致命的だ。のどが渇きをどうすることもできない。不安で押しつぶされそうになるはずなのに、隆児君がいれば何とかなると思えてくるのが不思議だ。もっともその彼がしているのは神頼みだけなのだが。
「沙織ちゃん、あっちの方に人がいる。こっちに向かって歩いてるみたいだ」
あれが「助け」なのだろうか。私は心配になってきた。
「でも大丈夫なの?もし悪い人だったら……」
「大丈夫だよ。もし何かあったら僕が沙織ちゃんを護るから」
思わず心臓の鼓動が激しくなった。そのセリフはないだろう。絶対誤解してしまう。こっそり深呼吸をして息を落ち着かせた。
やがて男の人が私達のすぐそばまで歩いてきた。かなり背が高い。180cmはあるのではないだろうか。いかにも砂漠で生活していますという服装をしている。髪はターバンみたいなものに隠されているのでどうなっているかわからない。目の色はは茶色だ。年はけっこう若そうだ。もしかしたら十代かもしれない。それにしても砂漠を歩いているなんて。水は大丈夫なんだろうか。
「こんにちは」隆児君が話しかけたが男の人は黙ったままだ。訝しげな表情をしている。それはそうだろう。どう見ても日本人には見えない。すると隆児君はいろんな言葉で話し始めた。
「Hello!」変化なし。
「你好」だからアジア人には見えないってば。
「Hola!」どこかで聞いたことがあるような。
「Bonjour」これは知っている。フランス語だ。
「Ciao」これは何語だろう。
「Mayon Hapon」それにしてもこの男の人は無反応だな
「Yakwe」もうあきらめた方がいいと思う。
「Shalom」だから何言っても無駄だか……
今度は無反応ではなかった。男の人は驚いた顔を一瞬見せたが、すぐに笑顔で口を開いた。
「Shalom」
言葉が通じた、と私達が喜ぶひまもなく、彼はしゃべりだした。全然何を言っているのかわからない。思わず隆児君の方を見たが、彼は首をふった。もしかしてあいさつの言葉だけ知っていたのだろうか。私達はどうしようかと途方に暮れた。
その後、私達は身振りを交えて何とか意思の疎通を図った。私は必死になって、水を飲みたいことを伝えようとした。その必死さが伝わったのだろうか。男の人は歩き始めた。そして私達に向かって手を振った。どうやらついて来いと言ってるのだろう。
「行こう、沙織ちゃん」
「でも大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、あの人悪い人には見えないし」
「そうかなあ。まあ、でもついていく以外どうすることもできないしね」
こうして、私達は男の人の後をついていった。私達のためにゆっくり歩くようなことはしてくれない。なんとか離されないように頑張った。はぐれたら本当に遭難してしまう。そして20分ちかく歩いただろうか。砂丘をいくつか超えると男の人が立ち止り前方を指差した。あれはなんだろう。何か石が積み重ねられてできているものがある。
「沙織ちゃんあれは井戸だよ、行こう!」
隆児君が私の手を引っ張って走り出した。私は転ばないようについていくのに精いっぱいだったので、手を握られたからと喜べる状況ではなかった。ちょっともったいない。
「おいしい!」
私は心の底から声をあげた。砂漠で飲む水がこんなにもおいしいものだとは思わなかった。体中に水がしみ込んでいくような気がする。ほんと、生き返ったみたいだ。
「助けてくれてありがとう」
男の人にお礼を言った。たとえ言葉が通じなくても感謝の気持ちを伝えたい。砂漠で目を覚ましたところからこの井戸まで1kmぐらいだと思う。でも案内する人なしでここまでたどり着けるとは思えない。よっぽど運がよくないとだめだろう。私のお礼に対して彼は笑顔を見せただけだった。
私達は一緒に井戸のふたを戻した。彼が持っている皮袋には水を満たしてある。またどこかに向かって歩き始めるのだろうか。まさか置いてきぼりにすることはしないと思う。私の不安な表情に気が付いたのだろうか。彼は私を見るとニコリとほほ笑んだ。そして右手を胸に当てて口を開いた。
『ピネハス』
いったい何の意味だろうと思って隆児君の方を見た。すると彼も右手を胸に当てた。
「隆児」
え、もしかして自己紹介?私はあわてて右手を胸に当てた。
「沙織」
すると彼は何度もうなずきながら、私たちの名前を口にした。
『リュウジ、サオリ』
私達も同じことをした。
『ピネハス』
三人は一緒になって笑った。私は少しの間だけ不安を忘れて笑った。今は笑う時だ。なぜなら私は生きているのだから。
こうしてピネハスは、私達がこの砂漠の世界に来て初めてできた友達となった。私は自分がどこにいるのかわからない。どうすれば元の世界に戻れるのか見当もつかない。でも今は友達ができたことを喜ぼう。