プロローグ
プロローグ 1
「暑い」
雲一つない青空を見上げて思わず口にした。太陽がほぼ真上にある。ここは日本の夏と違って蒸し暑くはない。なにしろ汗をかいてもすぐ蒸発してしまうぐらい乾燥している。その代わり直射日光が当たると痛い。私は頭にかぶった頭巾みたいなものをずらし顔に影を作った。暑いからと言って家の中にいるわけにはいかない。みんな働いているのだ。
「働かざる者食うべからず」それはこの砂漠の民の不文律であった。だから私は重い水瓶を運んでいる。
『サオリ!』
声がしたほうを振り向いた。もうこの外国語のアクセントで名前を呼ばれるのも慣れてきた。返事をするべきなのはわかっているのだが、疲れ切っていて声が出ない。というか水がほしい。
『お疲れ、水瓶を台所に置いたら少し休んでいいよ』
『ありがとうございます』
なんとかお礼だけ言うと、台所に向かった。同情してくれたのだろうか。一瞬そう思ったが、心の中で否定した。あのお婆さんは厳しいのだ。髪の毛は雪みたいに真っ白なのに全然腰が曲がっていない。私は外見と身体能力にこれだけ差がある老人を見たことがなかった。もともと水汲みは日差しがきつい昼間にやるような仕事ではない。しかし、あのお婆さんは水瓶をひっくり返してしまった私に対して顔色一つ変えず、今すぐ水を汲んできなさいと告げた。つい半年前まで小学六年生だった私に向かって。もっとも、お婆さんが私ぐらいの年齢の時、これぐらいは当たり前だったそうだ。ちょっとでもいやそうな顔をすると『私があんたぐらいの年のときには……』と同じ内容の説教が始まるので気をつけなければいけない。初めは全然何を言っているのかわからなかったが、半年もたてばそれぐらいのことは理解できるようになった。もっとも最初に教えられなくても話せるようになったのがお婆さんの口癖だとはちょっと悲しいけど。
台所で水瓶をいつもの場所に置くと、私は椅子に座った。お婆さんが『少し』といったときはほんとに少しなのだ。おまけに水汲みをしたからと言っていつもの仕事がなくなるわけではない。早くお婆さんの手伝いに行かないとわかっているのだが、体が思うように動かない。しょうがない、後で怒られるか、とあきらめた。それにしても何故私は、学校にも行かず朝から晩まで働いているのだろうか。今頃中学一年生の夏休みのはずなのに。それはこの半年間ずっと考え続けたことであった。
そして今日も私は半年前のことに思いをめぐらしていた。突然この砂漠の世界にやってくることになった2月のあの日のことを。
プロローグ 2
2月13日
すべてはこの日に始まった。
ヴァレンタインデーの前日にもかかわらず、私はチョコレートを渡そうとしていた。
その相手は私の家の三軒隣に住んでいる同級生の岩本隆児君。彼が引っ越してきたのはちょうど四年生の一学期だ。それ以来三年近く友達でいる。彼には勉強を教えてもらったりしてるので、何かにつけてお世話になっているといったほうがよいかもしれない。彼はとても頭がよいし、性格も明るくて、すぐにクラスの人気者になった。隆児君が誰かの悪口を言ったり怒ったりするのを見たことがない。両親にそのことを話してみると、やっぱり牧師さんの子供だからかね、と言っていた。思わずサラリーマンの娘である私の立場は、と言いたくなったが黙っていた。
そして六年生ももうすぐ終わる。私はいつの間にか隆児君を好きになっていた。いつからかわからない。もしかすると最初に会った時からかもしれない。だとすると三年近い片想いになる。私はとても好きな人に告白できるような性格ではないので自分の気持ちを隠してきた。少なくとも隠そうと努力してきたつもりだ。だけどクラスの女の子たちにはすっかりばれていたみたいだ。
それでもこのまま何も変わらずに小学校を卒業するのはいやだったので、なけなしの勇気を振り絞って彼に告白することに決めた。たとえふられたとしても卒業までほんの少しだ。とはいっても、ふられるところをみんなに見られたくはない。どうしようかと悩んでいるうちに、前の日に渡してしまえばいいんだと気がついた。まさに、ご近所様の強みである。
自分の服装や髪型などをチェックするのに30分費やした後、私は隆児君の家に来た。心臓の音が聞こえる。そっと呼び鈴を鳴らした。
「ピンポーン」
何度も来たことがあるのに、いつもより耳に響く。私はじっとドアが開くのを待った。
「あれ、沙織ちゃん?」
「へ?うわっ!」
突然後ろから声をかけられて、思わず変な声を出してしまった。そこには隆児君がいた。あのあわてぶりを見られたかと思うと顔が真っ赤になる。
「ちょっと驚いただけだから、隆児君は家の中にいると思ってたの」
「驚かしちゃったかな?ゴメンね。今、教会の中を整理していたんだ」
そう言われて隆児君の家の隣にある教会を見た。けっこう古い建物でそこらへんにある一戸建ての家より少し大きいくらいのサイズだ。屋根の上についている十字架と正面にあるステンドグラスがなければ教会とはわからないかもしれない。この教会にも何度も来たことがある。牧師さんのお話よりも隆児君が気になっていたのは私だけの秘密だ。
「そうだ、沙織ちゃんも来る?もし欲しいものがあったらあげられるかもしれない」
「え、本当?」
「うん、何を捨てて、何をとっておくか僕が決めて言いといわれてるんだ」
私は彼のあとについて教会に向かった。でも彼は教会の中に入らず、裏にある物置の扉を開けた。しょっちゅう教会に出入りしている私だが、まだこの中には入ったことがない。チョコを渡しに来たはずだが、それは後まわしにすることにした。はたしてこんな弱気で告白できるのだろうか。でももう少しだけ「友達」でいたい。
物置の中はけっこう散らかっていた。隆児君が作業中だったからだろう。毎週教会で使用するようなものは教会の押入れに保管してあるはずなので、ここにあるのはめったに使わない、もしくは全然使っていないものにちがいない。キリスト教関係の物が多いためだろうか。用途が想像できないものが多い。
「どう?何かよさそうなものあった?」
私はもう一度物置の中を見回した。すると一番奥にけっこう大きな本があった。学校の机の半分ぐらいのサイズだ。黒い表紙に金色の文字がある。でも日本語でもアルファベットでもないのでほんとに文字かどうかはわからない。
「ねえ、隆児君。これ何の本?かなり古い本みたいだけど」
「あ、それは聖書だよ。お父さんが外国のどこかでもらってきたとか言ってたけど。でっもその聖書、かなり古くて保存状態が悪かったためか、紙がくっついちゃって開くことが出来ないんだよね。無理にページをめくろうとしたら破けてしまうから気をつけてね」
そう注意されたときには、私はもう表紙をめくっていた。
「隆児君、これ、普通に読めるよ、といっても文字は読めないけど」
「本当?」
隆児君がこちらに近づいてきた。すると突然、本からまばゆいばかりの光があふれてきた。思わず目を瞑ったがそれでもまだ明るい。私はわけがわからなくなった。そして体が急に浮いた!そのまま上昇していく。ちょっと待て。物置の天井はどうなったのだ?
「いったい何が起こってるの?」
「僕にもわからないよ!」
まぶしくて目を開けられない。体がぐるぐる回っているのでどちらが上かわからなくなった。そしてそのまま私は気を失った。
その後、目を覚ましたときにはあたり一面砂漠だった。
こうして、私と隆児君はこの「砂漠の国」にやってくることになった。