第一話「ツギハギの世界」4
「ったく、どんなに早く出てきても、結局時間ギリギリになるんじゃない」
チラッと腕時計を見て時間を確認した金森くるみは、そのまま左手で作った握り拳を震わせながら言った。
髪をリボンで左右に束ね、一般的な高校一年生と比べて明らかに頭一つ低いくるみだが、何よりその勝ち気な瞳が決して幼い印象を与えない。
「アハハ、不思議だねえ」
くるみの言葉にそう応えたのは風音遥。肩の辺りで揃えられた髪が、くるみの方へ振り向いた首の動きに合わせて軽やかに揺れる。右側にちょこんと結われた髪以上に、その無垢で澄み切った瞳が少女としての印象を強くする。
ジージーという暑さの効果音を蝉たちが必死で輪唱する、鈴ヶ台高校の正門へと続く並木道。高校に向かって右手は並木の向こうに住宅が並び、左手には茂みの奥に雑木林が広がっていた。
ついさっきまで大勢の生徒たちが雑然とした行進を見せていたが、この時間は大分制服姿もまばらになり、皆一様に先を急ぐ素振りで真っ直ぐ前を見て進んでいく。
そんな中、能天気を絵に描いて額縁に入れて展覧会で金賞を穫った様な遥の笑顔を見て、くるみの眉間の皺が深くなる。
「あのねえ・・・本気で言ってんの?」
「ほえ?」
「誰のせいで遅くなってると思ってんのよ!」
自覚ゼロの間の抜けた返答に、とうとうくるみが声を荒げた。
「ほえぇ?」
しかし渾身の一喝も、この金賞受賞作品をちょっとびっくりさせる程度の効果しか得られなかったのを見て、くるみは再び握り拳を震わせた。
「いっつもあちこち引っ掛かって全っ然先に進まないから、それすら計算に入れて早めに家を出てきたって言うのに、今日は今日であの子犬に・・・」
風音遥という少女の性質を一言で言うなら、幼児並みの好奇心の持ち主、ということになる。とにかく目に映るもの全てに興味を示し、少しでも気に入ると立ち止まり見つめたり触れようとしたりする。しかも、直ぐに無理矢理引き離そうとすると「ヤダ」と、頑なに抵抗を始めて余計に時間が掛かるので、5分は放置しなければならない。
今日はいつもより早く登校する計画だった為、くるみは遥が立ち止まるポイントを想定して家を出る時間を設定していた。ところがいつもより早く登校したが故に、五匹の子犬を連れて散歩をしている母犬とその飼い主に出くわしてしまったのだ。
当然、遥は目を輝かせ、くるみは一瞬青ざめる。直ぐに「まあ、五分ぐらいの誤差は計算の内よ」と強がって見せたが、その5分後、例によって遥の襟を掴んで「ほら、行くわよ」と引き離そうとして返ってきた返事は「ヤダ」だった。「一匹五分かい!」というくるみのツッコミが虚しく響いて、結局そこで三十分程浪費した。遥も遥だが、飼い主の初老の女性もよく付き合ってくれたものだと、くるみは己が不運を嘆いた。
「あの子たち可愛かったよねえ!明日も来るかな?毎朝の楽しみが増えたねえ」
「だーかーら!それでいつも通り遅くなってたら意味ないでしょうが!」
さも当然の様に同意を求めてくる遥の言い様に、再びくるみが声を荒らげる。漸くくるみが怒っていることに気付いたのか、遥が何かを誤魔化す様に視線を逸らして言う。
「で、でもでも、いつも通りの時間ってことは、学校にはちゃんと間に合うってことだし・・・」
「ちっがーうでしょーがあ!!!」
当初の目的を完全に忘れている遥に、とうとうくるみが雄叫びを上げた。
「クスっ」
その二人のやり取りがまるでツッコミ漫才の様に見えたのか、思わず吹き出してしまったのは天宮かりん。
金髪碧眼のその容姿は明らかに外国人の血を引いていることを示していたが、目鼻立ちに白人特有の掘りの深さはなく、顔立ちはむしろ日本人そのものである彼女は、ドイツ人の父と日本人の母を持つハーフだった。長いブロンドの髪と大きな青い瞳がまるで絵本に出てくるお姫様の様なかりんは、実際に旧財閥系として今も日本の経済界に大きな影響力を持つ天宮家の令嬢である。
「何が可笑しいの、かりん」
しかし、それ以前に遥とくるみの友人であるかりんに対して、当然くるみのツッコミに全く遠慮はない。ギンっという視線と共に浴びせられた言葉に、
「え、あ、ううん」
と、小刻みにふるふると首を振って誤魔化した。
かりんを牽制したくるみは、そのまま遥の方へと向き直り、ビシッと指を指して今日の本来の目的である所を告げる。
「授業開始の一時間前に登校してその日の予習!何より頭の状態を万全にしてから授業に臨む!期末対策の一環としての私の生活リズム改善プログラム、やるって言ったのは遥でしょ!」
「はい・・・」
ここに至って流石に観念したのか、シュンとした様子で遥が応えた。しかし、くるみは追撃の手を緩めない。
「それなのに、さっきだって私が無理矢理引き摺ってこなきゃ、いつまでも・・・」
と、ここで遥に思わぬ救いの手が差し伸べられた。くるみの背後にある雑木林へと続く茂みが、突然ガサガサと音を立てて揺れ始めたのだ。
「な、なに!?」
流石のくるみと言えど驚いて振り向く。当然、残りの二人も体を強ばらせた。