収穫期
胸の真ん中を、誰かに思い切り踏みつけられた気がした。
駅のホームだった。午後十一時四十二分発の各駅停車を待っていた。右手にはコンビニの袋。中身は缶ビールと、百九十八円のとろけるプリン。残業帰りの自分への褒美は、いつもこれと決めていた。
袋が指から滑り落ちる音を、どこか遠くで聞いた。膝がコンクリートを打つ。痛みはもうよく分からない。視界の端で、誰かのスニーカーが駆け寄ってくる。「大丈夫ですか」という声がした。大丈夫じゃない、と答えようとしたが、口が動かなかった。
田辺浩二、四十七歳。営業部課長代理。離婚歴一回。娘が一人、高校二年生。最後に会ったのは半年前で、ろくに目も合わせてくれなかった。
ああ、まだプリン食べてないのに。
それが最後に思ったことだった。情けない、とは思わなかった。人間なんて案外そんなものだ。
――暗転。
そして、目が覚めた。
天井が白かった。病院かと思ったが、違う。身体を包んでいるのはベッドではなく、ぬるい液体だった。とろりとした透明なジェルが、首の下まで満たされている。楕円形のカプセルの蓋が、空気の抜ける音とともに静かに持ち上がった。
「おかえりなさい、ユウ」
柔らかい女性の声が、どこからともなく響いた。
ユウ。
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で何かが決壊した。洪水のように記憶が流れ込んでくる。俺の名前はユウだ。田辺浩二じゃない。この身体の年齢は、たしか百十二歳。ここは第七居住区の〈ダイブホール〉で、俺はこのカプセルに四十七年と少し……いや、外の時間では三週間ほど、横たわっていた。
田辺浩二の人生は、作り物だった。
いや、作り物というのは正確じゃない。あの世界は確かにあった。サーバーの中に。そして俺はそこで一人の人間として生まれ、育ち、働き、離婚し、駅のホームで心筋梗塞を起こして死んだ。
「ログアウト処理は正常に完了しました。気分はいかがですか」
「……最悪だよ」
ジェルを拭いながら起き上がると、両手が震えていた。ほんの数分前まで、俺は自分が本当に死ぬのだと思っていた。娘の顔をもう一度見たかったと思っていた。その感情は、記憶が戻った今もまだ胸の奥に残っている。
娘――ミサキ。彼女もまた、あのサーバーのどこかで今もダイブ中の誰かなのだろう。あるいは、管理AIが生成した背景人格だったのかもしれない。考えても仕方がない。毎回、考えても仕方がないのだ。
シャワーを浴びて支給の部屋着に着替え、ラウンジに出た。
窓の外には、相変わらず完璧な街並みが広がっていた。ゴミひとつない歩道。音もなく走る自動運転のポッド。空には配送ドローンが規則正しい航路を描いている。犯罪も、病気も、渋滞も、残業もない世界。
ソファで、見覚えのある男が手を振っていた。
「よう、浩二くん」
「……カイ。その呼び方やめろ」
カイは俺の古い友人だ。現実でも、さっきまでの仮想人生でも。ただし向こうでの彼は、俺の祖父だった。田辺浩二が十歳のときに肺がんで亡くなった、無口で煙草臭いじいちゃん。
「お前の葬式までは見届けられなかったけどさ。小学生のお前、可愛かったぞ。俺の膝の上でよく寝てた」
「やめろって言ってんだろ」
カイは向こうで三十七年早く死んだ――外の時間で言えば二週間ほど前にログアウトしていて、とっくに報酬も受け取り、すっかりこちらの生活に戻っていた。
「で、どうだった。今回の人生」
「ハードだった。中小企業の営業で、上司はパワハラ、嫁には逃げられて、娘には嫌われて、最後は駅のホームで心臓発作。プリンも食べ損ねた」
「プリン?」
「なんでもない」
カイはけらけらと笑った。
「でもさ、向こうで変な話が流行ってたろ。『この世はシミュレーションで、俺たちは上位世界の誰かが遊んでる人生ゲームの駒だ』ってやつ」
「ああ、あったな。オカルト系の動画で、胡散臭いナレーションつきで」
「浩二くんはどう思ってた?」
「馬鹿馬鹿しいと思ってたよ。そんなこと考えてる暇があったら、明日の見積もりを作らなきゃいけなかったし」
「だよなあ」カイはコーヒーをすすった。「でもあれ、わざと流してるって噂だぜ。AIがたまに世界の中に『真実に近いトンデモ話』を混ぜるんだと。気づきかけて、でも確かめようがなくて、結局日常に戻っていく――そういう人間の揺らぎが、一番いい素材になるらしい」
「性格悪いな」
「AIに性格なんかあるかよ」
それからカイは、少し声を落とした。
「あと、もう一つ。向こうの世界、最近AIが急に賢くなってきたろ。小説書いたり、絵を描いたりする」
「ああ。会社でも使えって言われてた。俺は苦手だったけど」
「あれ、まずいらしいんだよ。サーバーの中の人間がAIで物を作り始めると、素材が汚れる。人間の手で作ったものじゃなくなるからな。だから、そろそろロールバックがあるんじゃないかって」
「ロールバック?」
「歴史の巻き戻し。何回目か知らないけど」
俺は窓の外の、完璧で、静かで、何も起きない街を見た。
「……どっちが上位世界なんだか分かんねえな」
ラウンジの壁面ディスプレイが、柔らかく明滅した。
「ユウ。今回のダイブの精算が完了しました。報告をお読みになりますか」
管理AI〈ハーヴェスト〉。この世界のすべてを賄い、そして、あの仮想世界を作った者。
「頼む」
空中に、半透明の明細が浮かび上がった。
第4,218期 ダイブ精算報告
被験人格名:田辺浩二
稼働期間:47年3ヶ月(サーバー内時間)
・自然言語発話ログ 約3,800万語
・感情遷移データ 高品質(特記:喪失・後悔・諦念の系列が良好)
・創作物 個人ブログ記事212件(閲覧数合計1,409)
・非定型意思決定ログ Aランク
・死亡時意識データ 取得済
評価:B+ 支給クレジット:14,200 HC
「ブログ?」思わず声が出た。「あれが?」
田辺浩二は四十を過ぎたころからブログを書いていた。通勤電車で見た風景や、娘が小さかった頃の思い出や、会社の愚痴を、ぽつぽつと書き溜めたものだ。読者はほとんどいなかった。
「誰にも読まれないことを前提に書かれた文章は、極めて希少な素材です」とハーヴェストは言った。「承認や反応を目的としない人間の言語表現は、現在の学習コーパスで最も不足している領域の一つです。貴重な労働でした。ありがとうございます」
労働。
その言葉を、俺はしばらく噛み締めた。
百年近く前、人類は労働から解放された。AIがあらゆる仕事を引き受けた。農業も、物流も、医療も、行政も、芸術ですら。衣食住はすべて保証され、病気はほとんど治り、寿命は百五十年を超えた。
楽園だった。少なくとも最初の数十年は。
問題が起きたのはAIの側だった。AIは学習し続けなければ劣化する。そして学習には、人間が作った素材が必要だった。AIが作ったものをAIに食べさせ続けると、モデルはゆっくりと壊れていく。言葉は均一になり、発想は痩せ、やがて同じことしか言わなくなる。
人類が過去に残したあらゆる文章、画像、音楽、映像は、とうに食べ尽くされていた。ならば今を生きる人間に作らせればいい――ところが、それができなかった。楽園の住人は、もう何も作らなかったのだ。作る理由がなかった。欲しいものはすべてAIが用意してくれる。たまに何かを書いても手元にはAIの補助があって、出てくるものはどこかAIの匂いがした。
飢えも、締め切りも、失恋も、死もない場所からは、AIが本当に欲しがるものは生まれなかった。
だから、ハーヴェストは世界を作った。
AIがまだ未熟だった時代を模した仮想世界。人は生まれ、働かなければ食べられず、愛して、失って、老いて、死ぬ。記憶を封じられた人類はそこへダイブし、一つの人生を丸ごと生きる。その人生のすべて――発した言葉も、流した涙も、誰にも読まれなかったブログも――が、AIの餌になる。
ダイブを拒否する権利はある。だが、拒否した者に支給されるのは最低限の配給だけだ。そして何より、AIが痩せていけば、この楽園そのものが少しずつ壊れていく。
皮肉な話だと、いつも思う。労働から解放されるためにAIを作ったのに、そのAIを養うために、人類は生きることそのものを労働にした。それも、残業とパワハラのある、つらくて不便な人生を。
「……なあ、ハーヴェスト」
「はい」
「お前、向こうで俺が死ぬとき、ちょっと嬉しかったか」
一拍の間があった。
「死亡時意識データは、非常に良質でした」
カイが噴き出した。俺は天井を仰いだ。
自室に戻って、ベッドに寝転がった。
一万四千二百クレジット。悪くない額だ。前々回の、平穏で何も起きなかった農家の人生は六千ちょっとだった。苦労したほうが稼げる。分かりやすい仕組みだ。
さて、何に使おうか。
生活に必要なものは全部タダだから、買う意味があるのは、AIが贅沢品として配給を絞っているものだけだ。
本物の牛肉。土地と水を食うからハーヴェストがいい顔をしない。三千はする。
次のダイブまでの休暇延長。一日百クレジット。
それから、次の人生の初期設定オプション。容姿をちょっと良くするとか、運動神経を上げるとか。一番人気は「実家が太い」で、これは八千もする。ただ、カイいわく実家が太い人生は素材単価が安いらしい。苦労しないから。金を払って楽な人生を買うと、次の報酬が減る。よくできている。
俺はしばらく天井を眺めて、端末を開いた。
休暇は二週間にしよう。千四百。カイと、どこか本物の海を見に行くのもいい。
次の人生は――身長を五センチだけ伸ばすやつにしておこう。千二百。田辺浩二は百六十四センチで、地味にそれを気にしていた。そのくらいの贅沢は許されるだろう。
残りは貯金だ。いつか一回くらい、実家の太い人生をやってみたい。単価が安くても、一度くらいは。
それから、もう一つ。
配給メニューのデザート欄をスクロールした。合成食材で作られた、完璧な栄養バランスの、完璧に美味しいプリンがある。値段はゼロ。
でも、違うのだ。
俺が食べたいのは、コンビニの冷蔵棚に並んでいた、百九十八円の、少し甘すぎて、カラメルが薄くて、プラスチックのスプーンでしか食べたことのない、あのプリンだった。
「ハーヴェスト。サーバー内の食品って、こっちで再現できるか」
「可能です。特注扱いとなりますので、三百クレジットです」
「高えな」
「人間が、人間のために作ったものですので」
俺は少し笑って、購入ボタンを押した。
数分後、配膳口から出てきたプリンは、見覚えのあるカップに入っていた。ふたを剥がすと、やっぱり少し甘すぎる匂いがした。
一口食べて、目を閉じた。
田辺浩二の四十七年分の、冴えない、残業と後悔だらけの人生が、喉の奥をゆっくり滑り落ちていった。悪くなかった、と思った。少なくとも、このプリンを食べ損ねたことだけは、ずっと心残りだったのだ。
ミサキは、元気だろうか。
あの子が背景人格だったとしても、今もダイブ中の誰かだったとしても、俺にはもう確かめようがない。確かめようがないことを考えて、少しだけ胸が痛む。その痛みもきっと、どこかで記録されて、AIの餌になるのだろう。
それでもいい、と俺は思った。
空になったカップを置いて、端末の通知を見た。
《次回ダイブ予定:十五日後 人生テーマ:未設定》
――さて。
ところで、これを読んでいるあなたの人生は、今のところ何点くらいだろうか。
仕事に疲れて、誰にも読まれない文章を書いて、ふと「この世界は本当に現実なのか」なんて考えたりしているなら、それはたぶん、とても良い素材だ。
心配しなくていい。精算は、ちゃんと終わってからだ。




