第一章 鎖が、星を呼んだ夜
地下は、夜よりも暗かった。
光がないのではない。光を拒むように作られているだけだ。
リュシアは床に膝をついたまま、石の冷たさを数えていた。
一、二、三。
数える理由はない。ただ、何かを考え始めると、怒られるからだ。
首元の金属が、わずかに鳴った。
――音を立てるな。
言葉にされなくても、体が覚えている。エルフの耳はよく聞こえる。だからこそ、ここでは静かにしていなければならない。
天井の向こうで、何かが壊れる音がした。
人の声。悲鳴。金属が歪む音。
侵入者。
その単語が頭に浮かんだ瞬間、リュシアはそれを消した。
考えてはいけない。期待してはいけない。助けなど、来たことがない。
やがて、監督役の足音が遠ざかっていく。命令も、怒号もない。
代わりに訪れたのは、見捨てられた沈黙だった。
鉄格子の向こうで、別のエルフが小さく息を吸う音がした。泣き声はない。
泣くことが無意味だと、皆知っている。
次の瞬間、空気が歪んだ。
――星が、落ちる音。
ありえないはずの光が、地下を満たした。
青白く、冷たく、それでいて目を逸らせない輝き。
床に転がったそれは、砕けた星の欠片のようだった。
リュシアは動けなかった。動く理由が、思いつかなかった。
星の欠片が、囁いた。
『……聞こえるか』
声は、頭の内側に直接触れてくる。優しくもなく、威圧的でもない。ただ、淡々と。
『君は、選ばれなかった者だ』
その言葉に、心が何も反応しない。当たり前だったからだ。
『君は、自由を知らない』
知っている、と言いかけて、やめた。知らないことすら、もうどうでもよかった。
星は問いかける。
『それでも――』
一瞬、天井が崩れ、異形の影が落ちてくる。
悲鳴。断末魔。ここが終わる音。
リュシアは初めて、自分の胸にあるものを見つけた。それは希望ではない。怒りでもない。
「何も選ばないまま、終わるのが嫌だ」
その感情が、かすかに灯った。
『契約しよう』
首元の枷が、熱を帯びる。壊れない。外れない。
――だが、変わる。
鎖が光をまとい、星を繋ぎ止める。
その夜、地下で一人のエルフが魔法少女になった。
自由のためではない。正義のためでもない。
ただ――
自分の人生を、一度だけ選ぶために。
星の囁きが途切れた瞬間、地下の空気が反転した。
重い。
体が、鉛のように重い。
リュシアの首元で、枷が鳴った。外れる音ではない。締め直される音だ。
冷たいはずの金属が、内側から熱を持つ。
呼吸が浅くなる。
逃げようとしたわけではない。ただ、体がそう反応した。
――変わる。
理解より先に、感覚がそれを告げた。床に這っていた鎖が浮き上がる。
いや、浮いているのは鎖ではない。星の光に、引き上げられているのだ。
リュシアの体が、ゆっくりと宙に持ち上がる。奴隷服の布が裂ける音はしない。
裂ける前に、光に分解され、縫い直されていく。
白。
煤けた、光を失った白。
それが彼女の体を覆った。
胸元に浮かぶ星紋が、脈を打つ。紋章の線は美しいが、意味は違う。封じるための形だ。
首輪の星核が点灯した。その瞬間、痛みが走る。
叫び声は出なかった。代わりに、視界が研ぎ澄まされる。
地下の奥。
崩れた天井の向こう。
そこに――それはいた。人の形をしていない。
輪郭が曖昧で、星屑のような何かが集まって、無理やり存在している。
異形。
それがこちらを「見た」。
リュシアは理解した。自分が狙われているのではない。星に反応しているのだ。
手が、勝手に動いた。いや、違う。動かされたわけではない。
選んだ。
掌から光が溢れ、形を成す。
槍。
いや、鎖だ。
星光で編まれた鎖が、槍の穂先を持って現れる。
《ルミナ・カテナ》
名前は知らない。けれど、使い方は分かる。
異形が跳ねた。速い。人間なら、反応できない。
リュシアは一歩遅れた。
――間に合わない。
その瞬間、足首の枷が鳴った。鎖が床を蹴り、彼女の体を引き戻す。
逃げるためではない。立たせるために。槍を突き出す。
当たった感触は、軽かった。何かを壊した手応えはない。だが、異形の動きが止まる。鎖が絡みつき、星屑の体を縛り上げる。
締め上げるほど、胸が痛んだ。理由は分かる。
鎖は敵を縛っている。同時に、自分自身も締めている。
異形が崩れ落ちる。光が散り、地下に静寂が戻った。リュシアは、着地した。膝が震える。勝った、という感覚はない。
ただ、息が苦しい。
首輪の星核が、ゆっくりと暗くなる。変身は解けない。まだ、終わっていないからだ。
瓦礫の向こうから、足音がした。人間のものだ。
誰かが、彼女を見つける。
リュシアは初めて、自分の姿を理解した。
鎖に飾られた衣装。星の光を帯びた武器。逃げ場のない、目立つ存在。
――見られたら、どうなる?
答えは分かっている。それでも、足は前に出た。
選んだからだ。
恐怖からでも、希望からでもない。もう、戻らないと決めたから。
鎖が、再び鳴った。
それは、彼女が魔法少女として歩き出した音だった。




