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シャルル王太子

 シャルルは、生まれてこの方、一度として「生まれてきて良かった」などと思ったことはない。


 エルドラント王国の王太子という、生じる欠落をすべて金と権力で埋められる立場にありながら、彼の内側には常に隙間風が吹き抜けていた。


 母妃は物心ついた頃から自室に引き籠もり、現世と夢の狭間を彷徨い続けている生ける屍だった。父王は王としての責務に加え、母の放棄した政務まで背負い、多忙という鎧を纏って息子を遠ざけた。


 シャルルを育てたのは、職務として愛を注ぐ乳母や侍従たちだ。どれほど献身的に仕えられようと、そこにあるのは冷然とした上下関係であり、彼が求めた「体温」ではなかった。


 そんなシャルルにとって、唯一、対等に愛を交わせる相手は大型犬のルークだけだった。

 三歳の冬、庭の片隅で震えていた子犬。悲しげに瞳を潤ませたその小さな命を、シャルルは誰にも渡さぬよう抱き上げた。

 言葉はなくとも、二人はすべてを共有していた。朝の目覚めも、眠れぬ夜の孤独も、高熱にうなされる夜の不安も。ルークの大きく濡れた瞳だけが、シャルルにとっての真実だった。



 だが、シャルルが十三歳の冬、ルークは死んだ。

 老衰という、抗いようのない静かな終わりだった。ルークがいなくなった後のシャルルの心には、底の見えない巨大な穴が空いた。彼はその穴を埋めるように、感情を殺して帝王学という無機質な知識を詰め込んでいった。


 十七歳で定められた婚約者、公爵令嬢エレノア。

 白銀の絹糸のような髪を持つ美しい娘だったが、シャルルの心が動くことはなかった。エレノアがどれほど献身的に彼に寄り添い、閉ざされた扉を叩こうとしても、その配慮こそがシャルルの心を冷え冷えと凍らせた。


 貴族令嬢然とした彼女と並ぶたび、シャルルは幽霊のような母の姿を幻視し、胸が塞がる思いがしたのだ。


 そんなある日の舞踏会で、その音は鳴った。


 ガラスの割れる鋭い音。ざわめきの中央で、一人の女性が立ち尽くしていた。

 粗相をして混乱し、大きな瞳に涙を湛えた彼女――男爵令嬢サラ。その潤んだ瞳、柔らかく波打つ栗色の髪。それが、あまりにもルークを思い出させた。


「愛着」という名の飢餓が、シャルルの理性を焼き切った。エレノアの悲痛な視線に気づく余裕など、彼には微塵もなかった。



 サラを侍女見習いとして城に迎え入れてからは、狂ったような幸福の日々だった。

 くるくる変わる表情、自分を見つめる愛情深い瞳。シャルルは確信していた。エレノアには悪いが、サラを側妃として迎える。父のように、添い遂げられぬ正妃に縛られる愚は犯さない、と。


 運命の日は、あまりにも穏やかに晴れていた。


「庭で茶会がしたい」というサラの愛らしい我儘。しかし、微笑んでカップに口をつけた彼女は、次の瞬間ふらりと立ち上がり、大量の吐血をして倒れ伏した。

 その瞬間、シャルルの心の中で何かが弾けた。


 大きな悲しみはやがて、黒い泥のような憎しみへと変質し、彼を覆い尽くした。


(エレノアだ。あの女が、私の光を奪ったのだ。許さない。決して)


 復讐という名の熱病に浮かされ、エレノアを死へと追い詰めた。



 気づいた時には、すべてが終わっていた。愛するサラは失われ、かつての婚約者は自らの手で屠った。

 空っぽになった玉座の部屋で、シャルルは窓の外を見上げた。


 遠い空の向こうから、不気味なほどの闇が迫ってくる。雨雲にしてはあまりに黒く、意志を持っているかのような速度で、城を、国を、そしてシャルルの意識を塗り潰していく。


(……ああ、これでいい)


 世界が暗転する直前、シャルルは微かな安堵を感じていた。

 その闇が、数千の少女たちの怨嗟であることも知らず。

 そして、この絶望さえもが次の幕を開けるための、ただの準備に過ぎないことも知らずに。


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