我を忘れて、走った先には
舞踏会にてサラ男爵令嬢が現れてから、シャルル王太子の心は目に見えてエレノアから離れていった。
それと同時に、エレノアには日に日に記憶のない空白の時間が増えていく。
その日、エレノアは突然本能的な危機感に襲われた。胸の奥の本当の自分が、逃げろと警告しているように。エレノアは、侍従の静止を振り切って、逃げ込むように王妃のいる階へと昇った。
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カーテンを閉め切った薄暗い寝室。王妃様は、まるで深い水の底に沈んでいるかのように、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「……ああ、いらっしゃい。お嬢さん」
王妃様の声は、今にも消えてしまいそうなほど淡い。
「ローズ王妃殿下…、お加減はいかがでしょうか。突然お邪魔してしまい、申し訳ありません…わたくしは……わたくしは、どうすれば良いのか分からず……」
「……ねえ。聞こえるかしら? ずっと、泣いている子がいるの」
王妃様は、エレノアの言葉を拾い上げることなく、愛おしそうに、けれど酷く怯えた様子で隣の空間を指さした。
「路地裏の隅で、一人きりで震えている子。その子はね、逃げたいのに逃げられないの。首を絞められた時の、あの冷たい手の感触が忘れられなくて……眠るたびに、最後の一呼吸を繰り返しているわ」
王妃様は、その「見えない誰か」の苦痛を自分の喉元で感じているかのように、苦しげに首筋をさすった。
「王妃様……それは、きっと悪い夢でございますわ」
「そうね、夢。……でもね、あなたがここへ来たら、その子の泣き声が、とても、とても大きくなったのよ」
王妃様が、ふっと焦点の合わない瞳をエレノアへ向けた。
「あなたのすぐ側に、真っ黒な、底の見えない大きな影が見えるわ。それは一人の影じゃない。……あなたを向こう側へ連れて行こうとする、たくさんの、冷たい手。その手がね、あなたを引き込もうと、その銀の鎖を手繰り寄せている……」
「……っ」
王妃様は震える手で、エレノアの頬に触れた。その指先は驚くほど冷たく、けれど慈愛に満ちていた。
「いい? 自分を捨ててはいけないわ。あなたが『誰かになりたい』と願って、心を空っぽにしてしまったら……その瞬間に、あなたの側の影が、あなたの中身を全部、泥で塗りつぶしてしまう。そうなれば、あなたは二度と、自分へは戻れないわ」
王妃様の意識は、再び深い微睡みの中へと溶けていく。
彼女は「寒い、寒い」と呟きながら、自身を抱きしめるように身を丸めた。
エレノアは、言葉を失って立ち尽くした。
自分の側に、自分ではない何かの影がいる。
あの「意識の空白」は、その影に中身を喰われている時間なのだろうか。
(わたくしは、わたくしでいなければ。絶対に、自分を渡したりしない……!)
王妃様の不気味な、けれど優しい忠告を胸に刻み、エレノアは部屋を飛び出した。
しかし、その決意をあざ笑うかのように、彼女が回廊を曲がった瞬間。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
次に目を開けた時、彼女の記憶はまた数時間分、綺麗に削り取られていた。




