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父サミュエル

 シャルル王太子と対面するはずの叙任式が近づくにつれ、エレノアの心は不安に蝕まれていた。

 母アナスタシアの愛が、日に日に重い鎖のように自分の首を絞めていくのを感じる。


(……お父様なら。お父様なら、聞いてくださるかも)


 母親とは違い、公爵家に婿養子として入った父サミュエルは、いつだって穏やかで、一歩引いた場所から家族を見守っていた。

 母の狂熱的な教育方針にも口を出さず、ただ静かに微笑んでいる人だ。彼なら、この異常な状況を客観的に判断してくれるかもしれない。


 エレノアは、夜の帳が下りた頃、父の書斎のドアを叩いた。


「お父様、少し……お話があるのです」


 重厚なオークのドアが開くと、そこには暖炉の火を背に、ワイングラスを傾ける父の姿があった。彼は一瞬、困惑したように眉を下げたが、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。


「おや、エレノア。こんな時間にどうしたんだい? 明日は殿下の叙任式だ、体を休めなくてはいけないよ」


「お父様。わたくし……怖いのです。お母様の期待が、王妃という地位が。どうかお願いです、叙任式を欠席するか、わたくしを別の場所へ……」


 エレノアは必死だった。


 しかし、父の反応は彼女が期待したものとは正反対だった。


 エドワードはゆっくりとワインを飲み干すと、エレノアと視線を合わせないまま、暖炉の火を見つめて言った。


「……エレノア。今更わがままを言うな。お前の方針は、すべてお母様に任せてある。それにこの家だって、エミールが継ぐと決まっている」


「お父様!」


「…私はね、この家のよそ者なんだよ」


 父の声から、温度が消えた。


「グウィネスの血を引くのはお前とお母様だ。私は、この広大な領土と、そこから生まれる富を管理する権限を、お母様から借りているに過ぎない。わかるかい? 私は、お母様を怒らせるわけにはいかないんだ。お前が完璧な王妃になることは、アナスタシアの……いや、私がこの家に居続けられる唯一の条件なんだよ」


 父は椅子から立ち上がり、エレノアの肩を優しく、けれど拒絶するように叩いた。


「お前が何を考えていようと、私には関係のないことだ。いや……聞かなかったことにしよう。私は、今のこの穏やかな生活を愛しているんだ。それを壊すような話は、二度としないでくれ」


「……っ」


「さあ、部屋に戻りなさい。少しだけワインを飲むといい。そしてゆっくり眠るんだ。重く考え込むと良くない」


 父の瞳には、慈しみではなく、徹底的な事なかれ主義の光が宿っていた。


 彼は自分の快適な生活を守るために、実の娘を差し出すことを選んだのだ。


 エレノアは、父の書斎を後にした。


 廊下の角で、母アナスタシアが影のように立って、満足げに微笑んでいるのにも気づかずに。


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