プラトニック不倫
「ひさしぶりだね。もう11年になるかな。そちらから連絡がなかったってことは、一人のまま?」
「はい」
「こっちは妻が亡くなって四十九日を済ませたところだ。約束どおり電話したけど、もう一つの約束は果たせそうにない。すまない」
「はい?」
「詳しいことは手紙に書くから読んでほしい」
「はい…」
電話を終えると水野は目を閉じて雅子との11年前の出会いを思い起こした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ビルを出ようとしたところで水野は外の雨脚を見て足を止めた。
すると、すぐ後ろを歩いていた雅子の額が水野の背中に触れた。
「すみません、前を見てなくて」
「いやいや、急に立ち止まったこっちが悪い。ええと確か君はうちの……」
「加藤です。経理の加藤雅子です」
「それにしてもひどい降りだな。これじゃ駅まで歩けない」
「夕立ちみたいですから長くは降らないと思いますけど」
「それならコーヒーでも飲んで止むのを待つか。じゃ」
「私も傘がないのでご一緒させていただいていいですか?」
水野は一人でゆっくりしたかったが断るほどでもない。
二人はビルの奥まったところにあるカフェに入った。
水野はモカ、雅子はウインナーコーヒーを注文した。
水野はコーヒーを口に運びながら窓の外を見ていた。
空はいよいよ暗くなり、雨は止みそうにない。
雅子が言った。
「課長さん、すみません。私、二つ嘘をつきました。予報ではこれからずっと雨です」
水野は雅子を見た。
「もう一つは?」
「さっきは私、わざとぶつかったんです」
雅子は30歳前後だろうが、今年50歳の水野からすればずいぶん年下だ。
「君みたいな若い子が、そうまでしてこんなおじさんと話がしたいなんて妙だね」
「課長さんが亡くなられてしまいそうな気がしたんです」
水野は虚をつかれて黙った。
「お昼の社食で課長さんがお箸でご飯を挟んだまま、遠くをずっと見てらしたので……」
人は生きるためにご飯を食べるのだろうがどうしてこれ以上生きなければならないのか、雅子が察したようにそんな思いがその時兆したのだった。
「ご飯を食べるのに飽きちゃってね」
「分かります。ですから、私のためにも死なないでください。それをお伝えしたくて」
… … … … … … … … … …
水野信昭と加藤雅子が勤める会社は博多駅近くの大きなビルの3階から5階のフロアを占めており、5階の一角が軽食中心の社員食堂になっている。
企画部課長補佐の水野と経理の雅子の職場は4階だが、席はけっこう離れている。
退社する時、水野は廊下へ出るとガラス窓ごしに雅子に視線を送る。
それを合図に雅子も仕事を切り上げて博多駅裏の喫茶店で落ち合うのが二人だけの取り決めになった。
「この前の雨の日、課長さんとお話をしましたけど、」
「課長さんはやめてくれないか。正確には課長補佐だし、水野でいいよ」
「じゃ水野さん、私、お昼の社食ではいつも水野さんをそれとなく見ていたんです」
「ふうん」
「うまく言えないんですけど、水野さん、魂が体から離れているような気がして目が離せない感じなんです、失礼ですけど」
「いや、ありがたいね。妻との仲が冷え切っているからなおさらだよ」
「そうなんですか」
「もうここ2年ほど妻とまともに話したことがない。用事で話しかけても不機嫌な返事しか返ってこないんだ」
「奥様と何かあったんですか」
「特にない。更年期障害もあるんだろうけど、ほんとの原因は本人にも分からないんじゃないかな。不機嫌になることはこれまでも時々あったんだけど、もう理由を詮索する気も起こらない」
「お辛いですね。」
「50にもなると先が見えてね。そのうちお情けで課長にしてもらって60で定年退職、妻との仲も面白くない。子供や孫でもいれば違うんだろうけど、生きる張り合いがない感じだなあ」
「私も同じです」
「君はまだ若いんだから仕事も恋愛もこれからじゃないか」
「私、おかしいんです。出勤して夕方に帰って食事を作って食べ、お風呂に入って洗濯して寝る、そんな自分をもう一人の自分が見ていてどっちが本当の自分なのか分からない感じなんです」
「遊びに出かけたら?」
「同じことです。街に出たり旅行をしたりしようと思っても、家にいたほうがよかったと後悔しそうなことが前もって分かるんです」
自分と同種の人間だと水野は思った。
くすぶり続ける自分をただ見ているしかないのだ。
… … … … … … … … … …
10月も残り少なくなったある日、水野は晩酌に缶ビールを飲んでいた。
2本飲んだところで缶ビールのストックがなくなった。
妻は横になってテレビを見ている。
酔いのせいもあるのか、妻の背中を見ているうちに何もかもがむなしくなってきた。
「ビールが切れた。買ってきてくれ」
いつもならとうてい言いそうにない言葉が口をついて出た。
妻は振り向きもせず、返事もしない。
水野の心に殺意と言っていいほどの凶暴な怒りが湧いてきた。
「もう1回言う。ビールを買ってきてくれ」
感情の昂ぶりとは逆に声は低くなった。
… … … … … … … … …
喫茶店の外は出会った日のような雨が降っていた。
「それで奥様はどうなさったんですか」
「いつもと違う気配を感じたんだろう、買ってきたよ」
「よかったですね」
「よくないよ。不機嫌そうにビールのパックをテーブルに置いてすぐに寝たし、こっちはこっちで自己嫌悪に陥るし、もう覆水盆に返らずだね、最後の一滴までこぼれてしまったみたいだ」
二人とも暫く無言でコーヒーを飲んでいたが、水野はふと気になった。
「君はいつもウインナーコーヒーだね」
「これを飲むと田舎にいる父を思い出すんです」
「お父さんがそれ、好きなの?」
「私、早くに母を亡くして父と二人きりだったんですけど、高校生の時、一度だけ喫茶店に連れて行ってもらったことがあるんです」
ここで雅子は周囲を見回して話を続けた。
「メニューを見て父が『せっかくだから珍しいものを頼もう』って言ってウインナーコーヒーを注文したんです。そしたら運ばれてきたのを見て『なんだ、ウインナーは入ってないじゃないか』って大きな声で言って腹を立ててがぶっと飲んだんですけど、ホイップクリームの下は熱いコーヒーでしょう? 今度は『アチチッ!』って大騒ぎしたので、私、もう恥ずかしくって、恥ずかしくって」
水野は声を立てて笑った後、何の脈絡もなく浮かんできた考えを口にした。
「君、新婚旅行に付き合ってくれないか?」
… … … … … … … … … …
11月1日の午後、水野と雅子は博多駅から鳥栖行きの各駅停車に乗りこんだ。
「25年前の今日も土曜日で、婚姻届けを出してから午後に妻と新婚旅行に出たんだ。行き当たりばったりの鈍行に乗って」
「行先も決めずにですか?」
「行先はとりあえず雲仙にした。妻の希望でね」
鳥栖で長崎行きに乗り換え、電車は佐賀県の鍋島駅を過ぎた。
「ほら、見てごらん。この時期はバルーンフェスタがあるんで、妻と来た時もたくさんの気球が空に浮いてた。子供がシャボン玉を見るように妻が目を輝かせていたのを思い出すよ。こんな話、退屈かな?」
「水野さん、新婚旅行の時の奥様と私を二重写しにしてご自分にどんな変化が起こるかを探りにいらしたんでしょう? 私もその結果に興味があります」
電車は長崎県に入り、二人は諫早駅で降りた。
「確か、ここだった」
ビジネスホテルにチェックインして荷物を置き、夕食をとるために近くのアーケード街に出た。
「確か、ここだった」
ホテルと同じように、水野は25年前に入ったウナギ料理店を見つけた。
「諫早はウナギが有名だと聞いたことがあります」
「そうなの? ここも行き当たりばったりで入ったんだけどね」
「奥様、ウナギがお好きなんですか?」
「うん。うまそうに食べてたなあ。ウナギの皮が苦手な人も多いから皮を剥いで焼くメニューもあればいいのに、なんて言ってた」
「まあ、面白い」
「そんな小さなことも覚えてるもんだね」
ホテルに戻って風呂を済ますと、ツインの部屋なので水野と雅子はそれぞれのベッドに横になった。
しばらくして水野が誘った。
「こっちに来ないか」
雅子はベッドを移ると、半身を預ける格好で頭を水野の肩先に寄せて言った。
「25年前の今日もこうして奥様とお休みになったんですね」
やがて雅子は水野の腕の中で安らかな寝息を漏らし始めた。
水野は涙ぐましくなった。
同じ職場とはいえ他人どうしの男女なのに、こうして自分に全てをゆだねて眠ってくれる人がいる。
不倫に興奮して抱き合うような人間なら、二人とも疾うに今とは違った人生を歩いていただろう、水野はそう思った。
… … … … … … … … … …
翌日は諫早駅から島原行きの電車に乗った。
「この1輛きりの電車が可愛いと言って写真を撮ってたよ」
吾妻駅あたりからは左手に有明海が見え始める。
「このくすんだ色の海を窓枠に肘をついて飽きずに眺めてたな。そして駅の名前も『神代』とか『大三東』とか、振り仮名で知って面白がってた」
雅子は車窓からの景色よりも思い出を語る水野の楽しそうな横顔が新鮮だった。
「奥様には何もかもが印象的だったんでしょうね、私まで嬉しくなります」
電車を島原外港駅で降りて、港のターミナルビルから雲仙行きのバスに乗った。
「このバスはまずかった。登るにつれて道がどんどんクネクネしたつづら折りになっていくんだ。妻は車に弱いから酔って青くなってた」
バスが終点の雲仙営業所に着き、二人は歩き始めた。
「バスの運転手さんに一番豪華なホテルを聞くと、歩いて5分くらいだって言われたんだよ」
「1泊目と違って新婚旅行らしいホテルで奥様、嬉しかったでしょうね」
「うん。銀婚式、金婚式の時も泊まりたいって喜んでた。昨日が銀婚式の日だったんだけどね」
ほどなく二人は目指すホテルに着いた。
予約なしで部屋が空いているかどうか心配していると、玄関のドアが開いて一人の女性が走り寄って来た。
水野の妻の恵子だった。
恵子は駆け寄るとくずおれ、水野の膝に取りすがって泣き始めた。
「私、帰ります」
雅子は小さな声で水野に言って、ホテルの玄関脇に駐車しているタクシーに手を挙げた。
… … … … … … … … … …
連休が終わって11月4日に水野が出社すると、雅子の姿が見当たらなかった。
同僚の女子社員の話によれば雅子は突然会社を辞めたという。
1週間後、雅子からの手紙が水野に届いた。
差出人の住所は長野県のとある町になっている。
… … … … … … … … … …
水野信昭様
ご心配をおかけしたのではないかと思います。
休日の11月3日に出社して私物をまとめ、父親が脳梗塞で倒れたということにして辞表を部長の机に置き、長野の実家に戻りました。
雲仙での出来事はきっかけにはなりましたが、それは直接の理由ではありません。
お互いの頼りなさの共有とでもいうのでしょうか、水野さんとのそんな関係を私は大切にしていました。
これ以上お付き合いすると、私たちの関係が変質して馴れ合いになっていきそうに思えたのです。
最後にわがままなお願いがあります。
多分ないと思いますが、私が結婚する時は連絡をします。
そして申し訳ないのですが、水野さんの奥様が亡くなられるようなことがありましたらお知らせくださいませんか。
その時に私も一人身だったならまたお会いしたく思います。
水野さんご夫婦の間に割って入る気は最初からありません。
今では私は奥様のお気持ちも分かるような気がします。
遠い長野の地からお二人の今後の幸せをお祈りいたします。
水野さんの腕の中で一晩眠ることができて幸せでした。
その思い出だけで私は生きていけそうに思います。
… … … … … … … … … …
雅子からの手紙に水野はすぐに返事を出した。
… … … … … … … … … …
加藤雅子様
お手紙、拝見しました。
あの時雲仙に妻がいたことから話しましょう。
妻との思い出をたどり、その結果どんな心境になるのか予測もつかず、私は緊急かつ最低限の連絡先を書いたメモを書斎の机に置いて君と旅に出たのです。
11月1日に私が家を出た後、書き置きを目にした妻は胸騒ぎがしてその日のうちに特急電車等を利用して雲仙のあの旅館に着いていたのだそうです。
新婚旅行時の、銀婚式、金婚式うんぬんの話を妻も覚えており、私が立ち回る先はあのホテルしか思いつかなかったとのことでした。
私を見て泣き崩れたのは、私が無事でいたからなのか、君と一緒にいたからなのか、それは聞きませんでした。
今はお互い、腫れ物に触るように過ごしています。
今後、時間がうまく流れてくれればいいのですが。
君の提案は了承しました。
お元気で。
… … … … … … … … … …
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれから11年がたったのだった。
回想から覚めた水野は、先ほどの電話で言った雅子あての手紙を書き始めた。
… … … … … … … … … …
加藤雅子様
11年ぶりに書く便りですが、これが君への最後の連絡になることと思います。
妻は膵臓がんで亡くなりました。
しきりに腰痛を訴えるので整骨院のマッサージに通ったりしていたのですが、がんによる腰痛と分かった時は手遅れでした。
ただ、私は定年退職したばかりだったのでずっと付き添っていることができたのは幸いでした。
付きっきりの私を気づかって妻の姉妹も時々病院に来てくれました。
それに甘えて私が病院を出ると「信昭さんはまだ帰らないの?」と短時間の外出でも妻がそのつど寂しがっていたということを葬儀の場で聞いた時には、妻のいじらしさに涙がこぼれました。
妻が亡くなって病室を整理していたら、弱々しい字で書かれた私あての手紙が出てきました。
それをそのまま書き写しますので、君と再会する約束を果たせない私の気持ちをどうぞ察してください。
… … … … … … … … …
信昭さんへ
数日前から、亡くなった母が私を迎えに来ています。
あなたが家に帰った深夜、ベッドの脇の椅子に腰かけるのです。
でも、私が話しかけても窓の外を見たまま私の方を見ようとしません。
その母がやっと昨日、振り向いて私を見て微笑んでくれました。
あなたとのお別れが迫っています。
ごめんなさい、あなた。
私はとうとう最期までいい妻ではありませんでした。
いつの頃からか、私はわけもなく不機嫌になっていきました。
あなたの顔を見ると「この人に縛られて私は何もできなかった。私の人生は何だったのだろう」と思い、同時に「私はこの人を縛るだけで何もしてあげられなかった」とも思うのです。
その狭間にいる自分に腹を立て通しだったような気がします。
「住むところもなく、満足に食事ができない人も世の中には多くいる。自分の悩みはぜいたくだ」
そう思っても心は晴れず、気の持ちようについての本もあれこれと読みました。
読んでもっともだと思っても、それを実践できない自分がまた嫌になるのです。
自由になって何かしたいことがあったのか、それも今となってははっきりしません。
人生に特別な生きがいを持たなくても、1日1日を自分なりにつつがなく過ごしていることに満足するべきでした。
そして何より、わがままな私を受け入れてくれるあなたに感謝するべきでした。
雲仙での一件以来、あなたは優しく接してくれましたが、あなたの心の中にはいつもあの人が住んでいることも分かっていました。
それもこれも、奪う愛に終始してきた私が悪いのです。
そんな私を見捨てずに最期まで見守ってくれて本当に感謝しています。
私が死んだら、あの人のもとへ行っておあげなさいませ。
私はもう十分すぎるほど、あなたの想いはいただきましたから。
… … … … … … … … … …
しばらくたって水野のもとへ雅子からの返事が届いた。
… … … … … … … … … …
水野信昭様
お手紙ありがとうございました。
長野もようやく雪どけの季節です。
私は今、地元のスーパーで毎日、レジを打っています。
父も80近くになりますが元気です。
仕事でも恋愛でも何かに打ち込めばいいのかもしれませんが、私にはそれができませんでした。
生きるのに臆病で人生の最前線に立たず、喜びも悲しみもいつも一歩遅れて受け取ってきたように思います。
自分は何処にも、誰にも、何にも属していない、そんな頼りなさだけを生きている実感として過ごしてきたのが私の人生でした。
長野の片田舎で父と二人きり、何事もなく毎日が過ぎていきます。
人は結局、自分の望みどおりの人生を送るのでしょう。
私と会う約束を果たせないとのことですが、そんな水野さんだから私は惹かれたのです。
来世でお会いしましょう。
その時には、奥様も交えて楽しくお話ができそうに思います。
だって、生きるのが不器用な3人、それぞれに頑張って生きてきたんですもの。
最後に一度だけ「あなた」と呼ばせてください。
あなたに出会えて、私は幸せでした。
さようなら
… … … … … … … … …
読み終えた手紙をテーブルに置き、水野は目を閉じた。
もう一度雲仙への旅に出よう、水野はそう思った。
妻と雅子、二人のことを思い浮かべながら、身を切られるような思いがするであろう旅へ。




