三方よし
岸 蓮斗です。宜しくお願いします。
歴史上の人物を基に描いたフィクションです。
俺の名は日野彰人。
投資コンサルタントをしている。肩書きこそ立派だが、やっていることは人の欲を利用して金を巻き上げるだけだ。
相手が夢を見たがっているから、その夢を売ってやる。ファンドだの、株だの、土地だの──形のあるなしなんて関係ない。金さえ転がり込めば、あとはどうなろうと知ったことではない。
商売ってのは結局、どれだけ儲けるかがすべてだ。
──ある日。
取引帰りに立ち寄った古びた神社。
賽銭箱の前で手を合わせた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
「……なんだ?」
目を開けると、木造の町並み。着物姿の人々が行き交い、髷を結った荷車を引く男、紙風船を追う子供たち。
「……時代劇か?」
だがカメラも電線もない。足元には「寛永通宝」。背筋に冷たいものが走った。
スマホを確認すると「圏外」。頬をつねっても痛みは消えず、腹は減り汗は吹き出す。──どうやら現実らしい。
数日間、町を駆け回ったが、怪訝な顔で追い返されるばかり。井戸水すら得られず、喉はカラカラに。
(……こんなところで餓死するのか……)
視界が滲み、体は地面に崩れ落ち、意識は闇に沈んだ。
◇
目を覚ますと、木の天井が見えた。薄暗い部屋。布団の中に寝かされている。
「おお、目を覚ましたか。無理せんほうがええ」
振り向くと、中年の男が座っていた。端正な顔にきりりと結われた髷。眼差しは穏やかだった。
「……あんたは?」
「森五郎兵衛。近江から出てきた商人じゃ」
俺が町で行き倒れているのを見つけ、見捨てられずにここへ連れてきたという。奉公人が湯を差し出すと、五郎兵衛は何のためらいもなく渡してくれた。
「飲め。遠慮はいらん」
喉を潤すと、生き返るようだった。
「……俺はただの流れ者だ。身元は明かせない」
未来から来たと言っても信じてもらえそうにないと思い、俺はそう口にした。五郎兵衛は笑った。
「それでよい。うちでは奉公人も旅の者も分け隔てせん。働きたいなら、明日から手を貸してくれ」
「……いいのか?」
「腹を満たせば、人は働ける。働けばまた飯が食える。それが商いというものじゃ」
胸が熱くなった。この男は理由も過去も問わず、ただ「生かす」ことを選んだのだ。
◇
翌日から、俺は奉公人たちと肩を並べて働くことになった。
最初は訝しんでいた彼らも、五郎兵衛が「同じ仲間だ」と言うと、反対する者はいなかった。
荷運び、帳場の雑務、掃除。慣れない仕事にへとへとになりながらも、誰かと並んで働く感覚は妙に心地よかった。
──働き始めて数日。
帳場に座り数字を眺めながら、奉公人のひとりに帳簿のつけ方を教わっていた。
そこへ、五郎兵衛が現れた。
「どうだ、商いの流れは少しは見えてきたか」
「ああ……でも、不思議だ。俺が知ってる商売のやり方と違う。もっと利益をかき集められるはずだろ?」
五郎兵衛は笑みを浮かべ、帳簿を指でなぞった。
「商売とは、ただ金を増やすだけのものではない。近江商人の心に伝わる“三方よし”──売り手よし、買い手よし、世間よし。これを忘れれば、どんな商いも長くは続かぬ」
「……売り手と買い手は分かる。でも“世間よし”って?」
「商いは人と人の間に成り立つもの。町が栄え、人が暮らしやすくなる。そこまで考えてこそ、初めて商いは価値を持つのじゃ」
その言葉は、まだ俺には腑に落ちなかった。
(世間なんてどうでもいいだろ。大事なのは自分の利益だ……)
◇
──ある夜。
遠くで「火事だあ!」と叫ぶ声が響き、鐘が急を告げる。町人たちが慌ただしく飛び出していく。
俺も寝床から飛び起き、蔵の外へ出た。空は赤く染まり、火の粉が雪のように舞う。木造の家々は炎に弱く、火はあっという間に広がっていった。
「五郎兵衛様、蔵を守らねば!」
奉公人たちが叫ぶ。だが五郎兵衛は落ち着いた声で言った。
「物はまた作れる。命は戻らぬ。まずは近所の者を助けよ。米も布も、あるだけ配れ!」
俺は呆然とその光景を見つめる。奉公人たちは火事の被害者に物資を配り、炊き出しの粥を手渡していた。
(……馬鹿か? この状況でタダで配るなんて。資産を守るのが先だろう)
だが、涙を流し頭を下げる町人たち──その光景が胸に突き刺さった。自分なら絶対にしないことだ。五郎兵衛は人の命のために、ためらわず財を差し出していた。
「案ずるな! 皆が生きていれば、商いも町も立ち直る。まずは命だ!」
その声で、思わず拳を握った。
(……俺が知ってる商売と、この人の商売は別物だ……)
──翌朝。
焼け跡に集まった町人たちは次々に頭を下げた。
「五郎兵衛様、昨夜は助かりました!」
「米がなければ飢え死にしていました」
五郎兵衛は微笑み、淡々と言う。
「商いとは、売り手よし、買い手よし、世間よし。皆が共に生きてこそ町も栄える。困ったときに手を差し伸べるのは当然のことじゃ」
俺は胸を打たれた。客を食い物にするのが商売だと思っていた俺にとって、「世間よし」の概念は衝撃だった。
昨夜の行動で人々の信頼は厚くなっていた。大工は「恩を返します」と言い、魚屋も「真っ先に届けます」と誓う。
(……なぜだ。損をしたのに、信用を得ている。金より、確かなものを……)
俺は五郎兵衛を見つめた。陽の光を浴びるその姿は、俺の知るどんな経営者とも違っていた。
(……こんな商売のやり方が、本当にあるのか……)
胸の奥に、これまで感じたことのない熱が広がっていった。
◇
──火事から数日後。
焼け出された家々の前で、町人たちは瓦礫を片付け、再建の準備をしていた。俺も五郎兵衛の指示で、運び込まれた米や布、反物を町人に配る手伝いをしている。
最初は戸惑った。瓦礫の上を歩き、重い米俵を運び、倒れた柱や材木をよける。ここでは自分の体力と判断力だけが頼りだ。
だが、手渡した品に対して人々が心から感謝するのを目にして、胸の奥が熱くなる。
「日野さん、あなたのおかげで家族みんな無事です!」
「昨日の米のおかげで今日も仕事に行けます」
かつての俺なら、金を取るか、自分の利益しか考えなかった。だが今、笑顔と頭を下げる姿を前に、自然と手が動き、声が出る。
「気にするな、これでみんなが助かるならそれでいい」
職人や商人も少しずつ顔を出し、道具や米、布を分けるたびに町全体が明るさを取り戻していく。
ふと、五郎兵衛の言葉を思い出す。
「売り手よし、買い手よし、世間よし──この三つが揃うから、商いは長く続くのじゃ」
今、目の前でそれを実感する。物を渡すことで、売り手も、買い手も、町全体も良くなる。金だけでは得られない、確かな価値がここにある。
(……これが、“三方よし”の意味か……)
子どもたちはまた遊び、職人たちは道具を手に仕事を再開する。町人たちは笑顔を取り戻し、自然と互いに助け合っていた。
俺は胸の奥に温かさを感じ、微笑む。火事によって変わった町の中で、初めて「人のために働く」充実感を味わっていた。
◇
──ある朝。
目を覚ますと、俺は現代のアパートのベッドにいた。
あの江戸の町も、五郎兵衛の笑顔も、すべて夢だったのか。長い夢だったのかもしれない。だが、心の奥には、五郎兵衛が教えてくれた「三方よし」の考えが確かに残っている。
それだけは、真実だ。
「……よし。これからは、本物の商いをしてやる。金だけを追わず、皆が幸せになる商いを──」
森五郎兵衛の時代には「三方よし」という言葉はなかったものの、その考え方は近江商人たちによって広まりました。200年以上も前に、現代のCSRやSDGsにも通じる考え方があったこと、同じ日本人として誇りに思います。
日本人には、昔からこうした価値観が根づいていたのですね。
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