限界突破
側妃が愛人と出奔したという衝撃的な事実が、エルザの頭の中をグルグルと駆け回っていた。
「現在、秘密裏に彼女の行方を追っているから……エルザ、見つかるまでよろしく頼む!」
「……いろいろと言いたいことはあるけど、引き受けてしまった以上は頑張るわよ」
胡散臭い笑みを浮かべた『交渉時』リアムを一睨みし、エルザはハア…と大きなため息を吐く。
未亡人とはいえ、前皇帝の側妃が男と駆け落ちをしたとなれば外聞は非常に悪い。
だから、無理やり代役を立ててまでも内密にしたいリアムたちの気持ちも理解できる。
しかし、エルザが演じていた『悪役令嬢スカーレット』は意地悪な役どころだ。
ヴィオレットのような自由奔放な悪女を自分が演じ切ることができるのか、エルザの不安は尽きない。
「では、さっそくですが、エルザ殿には来週に行われる前皇帝陛下の国葬にヴィオレット妃として参列していただきます」
「国葬への参列……」
トールキン帝国の前皇帝が逝去したのは、およそ二か月前のこと。
その半月後に、ヴィオレットは出入り商人の男と出奔する。
通常であれば喪に服すはずの期間に起きた、前代未聞の事件。
ここで問題となったのは、二か月後に予定されている国葬へ参列する妃が誰ひとり居ない状況だった。
前皇帝の正妃は十年ほど前に亡くなっており、側妃はヴィオレット一人のみ。
本来であれば、ヴィオレットは必ず参列しなければならない立場なのだが、当の本人は行方不明になっている。
そこで、上層部は対応策を協議した。
側妃の行方を追うと同時に、万が一国葬までに見つからなかった場合に備えてヴィオレットの代役を探すことにしたのだ。
そして、リアムの目に留まったのがエルザだった。
「ヴィオレット妃も貴族令嬢だから、ただ単に役者が演じればよいわけではない。同じ貴族で、基本的な常識や所作や言葉遣いが身についているエルザは、まさに理想的な人物だったんだ」
あの半ば強引とも言えるリアムの行動も、国葬日が迫り切羽詰まっていたのだと考えれば、エルザは納得するしかない。
『国葬への参列』という重要任務に、改めて気を引き締めた。
「国葬には現皇帝とヴィオレット妃の他にもう一人、皇弟アルフィ殿下も参列されます。お歳は六歳で、ヴィオレット妃…つまり、あなたの息子になります」
「・・・・・」
エルザが事前に聞いていた話は、ヴィオレットの年齢が二十五歳で、前皇帝とは二十以上も年が離れていたことくらい。
それなのに、つい先ほど『国葬への参列』という仕事が追加されたばかり。
そして、さらにさらに『息子がいる』という新たな情報が。
エルザの頭が、諸々の受け入れを拒否している。愛人と出奔という衝撃も、いまだ尾を引いたまま。
完全に許容量を超えていた。
一切の思考を放棄したい。何も考えたくないと、訴えている。
脳を宥めすかし理解させるまでに、エルザはかなりの時間を要した。
無理やり状況を飲み込んだところで、おもむろに口を開く。
「……リアム、ちょっと今いいかしら?」
「うん? どうした?」
エルザは淑女の微笑みを浮かべながら、リアムが話を聞く体勢を整えたことを目視で確認する。
大きく息を吸い込み、そして、一気に吐き出した。
『リアムのバカ~! いくらなんでも、後出し情報が多すぎでしょう!!』
『そ、そんなに怒るなよ。悪かったとは思っているが、仕方なかったんだ!』
『仕方ないだろう……で物事が片づくなら、誰も苦労はしないのよ!』
『じゃあ、どうすればエルザは機嫌を直してくれるんだ?』
『国葬が終わったら、一日休暇を要求します! 聖地巡礼で、気分転換をします!!』
それくらい許してもらわなければ、やっていられない。
先に大きな楽しみがあれば、どうにか気力を振り絞り頑張れるのだから。
『わ、わかった。しかるべく善処させていただきます!』
『……ふう。では、リアムよろしくね!』
あっさりと機嫌を直したエルザは満足げに頷き、責め立てられたリアムは、ぐったりとしている。
そんな二人の様子を、メイベルナ語での会話内容が理解できないグレイソンとローマンがしげしげと眺めていた。
◇
その後も、エルザは詳細な説明を受けた。
ヴィオレットとエルザの瞳の色は同じ碧眼だが、髪色は異なるため、必要なときだけヴィオレットの淡色赤髪に染めること。
ヴィオレットは夫を亡くした悲しみのあまり倒れ、心労で臥せったまま宮内に引きこもっている(ことになっている)こと。
実の息子である皇弟アルフィとは離れて暮らしており、月に数回面会するだけの関係。
しかし、ここひと月ほど体調不良を理由に面会を断っており、国葬前に一度面会日を設定する必要があること。
最後に、今後人前に出るときは『喪に服していること』と『病み上がりの顔を隠す』という名目で、常に黒ベールを装着し、装飾が控えめな衣装を身に纏うことが決められたのだった。
翌日から、ヴィオレット妃に成り済ます練習が本格的に始まった。
エルザの感覚からすれば、演劇でヴィオレット妃という役を演じることと同じ。
まずは、口調から慣らしていく。
月に数回とはいえ、実の息子と対面するのだ。
何がきっかけで偽物と露見するかわからない。
貴族としての所作は問題ないため、ヴィオレット妃の仕草や習慣を念入りに練習していった。
◇◇◇
数日後、エルザは朝から非常に緊張していた。
今日はついに、自分の息子と面会をする。