今のうちに!
「大変申し上げ難いのですが~、私室へ参ることはできません」
緊張で早口になりそうな口調を、場の空気が読めないヴィオレット妃らしく努めてゆっくりと話す。
「……なぜだ?」
「わたくしも~、気が変わったのです。それとも~、嫌がる女子を無理やり手籠めにされますか~? 皇帝陛下ともあろう方が~、まさかそのようなことは……」
「ハハハ! 其方の気が乗らぬのであれば、仕方あるまい。まあ、余がその気になれば其方を側妃に召し上げるだけだ」
高笑いをした皇帝に、不機嫌さはまったく感じられない。彼はそのまま去っていった。
皇帝は初めからその気はなく、これまでの憂さ晴らしのつもりだったのだろうか。
皆の前で、ヴィオレットはからかわれただけなのか。
それとも……
エルザには皇帝が何をしたかったのか、さっぱりわからなかった。
頭を下げ皇帝を見送った側近たちも次々に退室していき、部屋には後片づけをする者が数名と、リアムとローマンそしてエルザだけが残された。
何とか危機をやり過ごし、エルザはようやく肩の力を抜く。
皇帝には絶対服従で、何人たりとも命に背くことはできない…………が、エルザが演じているのは悪女だ。
リアムが全く頼りにならなかったことで、エルザは一か八かの賭けに出たのだった。
もし皇帝が激昂していたら、この場での御手討ちも十分あり得た。
冷や汗とともにどっと疲労が押し寄せ座り込みそうになるが、部屋へ戻るまで気を抜くことはできない。
「ヴィオレット様は少々お疲れのご様子。私が、離宮までお送りいたしましょう」
「あら~、よく気が利くこと。さすが~、皇帝陛下の覚えめでたいリアム様ですわね……ホホホ」
リアムが差し出した手を取ると、二人は歩き出す。すぐ後ろにローマンも続く。
ヴィオレットに扮しているときはずっとベールで顔を隠しているため、エルザの視界は決して良好とは言えない。
リアムはそれをわかっており、さり気なくエスコートを申し出てくれたのだった。
◇
「はあ、正直もうだめかと思ったわ……」
離宮へ戻ったエルザは、邪魔なベールを脱ぎソファーに座り込む。
今回は賭けに勝ったが、いつまた同じ目に遭うとも限らない。
考えただけで、あの時の恐怖がよみがえってくる。
「今度、陛下から同様の命を受けたら、私は即刻国へ帰らせてもらうわね」
ここは、きっぱりと宣言しておく。
聖地巡礼の途中で帰国してしまうのは、非常に不本意で後ろ髪を引かれる思い。
それでも、身の安全には変えられない。
「今日のことは、本当にすまなかった。今後は一切このようなことにならないよう根回しをするから、安心してくれ」
「……本当? リアムを信じているからね」
「ああ、信用してくれ。それにしても、まさか陛下があんなことを仰るなんて……」
信じられないと言わんばかりに首をひねるリアムに、エルザはふふっと笑う。
「あえて不敬な発言をすれば、皇帝陛下も一人の男ってことよ。だって、まだ側妃どころか正妃もいらっしゃらないのでしょう?」
「候補者は何人か選出されているが、正式に決まるのは戴冠式を終えたあとだからな」
「高貴な方々は、国や家のために決められた相手と結婚しなければならないのだから、同情はするわ。うちはしがない貴族で良かったと、心から思うわよ」
「お、俺は、結婚相手くらい自分で決めるぞ!」
「何を言っているの。リアムやローマンこそ宰相様のご子息なのだから、皇帝陛下のように複数の候補者を決められるわ。まあ、その中から選ぶんでしょうけど……」
高位貴族ではないが跡取りであるエルザの兄は、叔母のように政略結婚をするかもしれない。
でも、一度婚約を解消をされた自分はもうないだろう。
「エルザには……婚約者はいなかったよな?」
「(以前はいたけど)今はいないわよ。居たら、こんなことは絶対にできないもの」
「あ、ああ……確かにそうだな」
婚約を解消された身だからこそ、こうやって好きなことができている。
そう考えたところで、エルザははたと気付く。
自分はもう関係ないと高を括っていたが、しがなくとも貴族は貴族。
兄が決まれば順当に。
跡取りではないからこそ、簡単に次の婚約話が浮上する可能性は十分あるのだ。
「そうよ、今のうちにやっておかなきゃ!」
万が一にもまた婚約が決まってしまえば、自由に旅などできなくなってしまう。
エルザには、まだまだ聖地巡礼に行きたい国が他にもあるのだから。
「ねえ、ヴィオレット妃はまだ見つからないの?」
「範囲を広げて捜索しているが、内密に行っていることもありどうしても時間がかかる」
「そう……」
「どうした? 何かあるのか?」
「次の聖地巡礼に備えて、ここで異国語の勉強をしてもいいかしら?」
「それは、構わないが……今度は、どこの国だ?」
「アゼル王国よ。この本の舞台になっているから、そこへ行きたいの」
エルザがリアムに見せたのは『失われたリットン王朝の秘宝』という本。
これは恋愛小説ではなく、架空の国を舞台に主人公が隠された暗号を解いて古代文明の宝を探す冒険小説だ。
「その暗号が隠されている場所というのが、すべてアゼル王国の王都に実在するのよ。たとえば、建国当時からある噴水とか、古井戸とか、橋とか……」
「それを、エルザはすべて巡るつもりなのか? この国でしているように?」
「もちろん! そのためには、まずは語学の勉強を始めないとね」
トールキン語も、そうやってコツコツと勉強をして覚えてきた。
「俺が使用していたものでよければ辞書とか貸すし、時間があれば教えてやるよ」
「えっ、まさか……リアムはアゼル語も話せるの?」
「トールキン帝国と国交のある国の言語は、すべて習得済みだ」
「!?」
驚愕すべき発言に、エルザは目を見開いたまま固まる。
リアムの見目麗しい顔を、遠慮のない視線でしばらく見つめてしまった。
「すごい……さすがは『皇帝陛下の覚えめでたいリアム様』ね」
「もっと、俺を褒めてもいいんだぞ?」
「うん、心から尊敬するわ。だから……」
エルザは姿勢を正し、真っすぐに向き直る。
「わたくしが、以前あなたさまに『面倒くさい』や『残念な人』など数々の失礼な発言をしましたこと、心より深くお詫び申し上げます」
「…………」
淑女の礼で謝罪の意を示したエルザだったが、リアムの顔色は冴えない。
「リアム、どうかしたの?」
「……冗談とはわかっているが、エルザにそんなことをされたら距離を置かれたようで寂しいな」
「たまには貴族令嬢らしい振る舞いをしようと思ったのだけれど……お気に召さなかったようね」
「俺たちしかいないところでは、エルザには普段通りでいてほしい」
「わかったわ」
聖地巡礼のときにも感じたが、リアムはエルザから畏まられることをひどく嫌う。
『……『別世界の人』だなんて、言わないでくれ。俺は、エルザとはこれからもずっと対等に付き合っていきたい』
宰相の子息という立場は、対人関係においてもエルザには想像もできないような柵があるのだろう。
相手と親しく付き合いたくても、儘ならない。そんな中でリアムが気を許せるのは、ローマンとエルザだけ。
恵まれた容姿に高い能力。家柄。
将来を嘱望されている若き文官。
その彼が望んでも手に入らないものがあることを、初めて知ったエルザだった。




